March.2007

新年度予算を決定する2月の国会は、柳沢厚労相の発言が波紋を呼び、審議を拒否していた野党・民主党が民意を気にしてようやく出席したものの、論議は辞任要求に明け暮れ、事実上空転した。発言の軽薄さもさることながら、それしか追及点を持たない野党の政策的貧困ぶりにも嫌気がさしてくる。そもそも、柳沢発言も含めて問題の原点は、国民に愛国心を求める政府に、国民への愛情はあるのかどうか。ここに帰するものではないだろうか。

女性を人間出産機と断じる発想は、従来から働き蜂とも働き蟻とも言われ、ウサギ小屋に住まいして満足する日本人男性の対置概念的な発想とも見える。「蟻とキリギリス」という寓話は誰しも知っているだろうが、そこでは黙々と労働に従事する蟻を理想的な庶民のあり方として讃え、遊び呆けて冬支度を怠り、寒気と飢餓に耐えかねて蟻に泣きついたキリギリスの生き様を不徳のシンボルとして描いていた。

これは伝統的な労働観に合致するものであるが、見方を変えれば、行政、政治に文句も言わず、裏金や無駄な投資や贅沢な外遊に目くじらも立てず、ひたすら黙々と労働にのみ従事し、納税に励む国民の姿は、政府にとって真に好都合な国民像ともいえよう。しかも、個人的利益よりも、我が身を犠牲にしても天下国家を優先し、そのために働こうとする精神こそが、より志の高い有徳の生き方とされてきた。これは公共心というものに通じる。公共心とは、道ばたの空き缶を拾う精神ばかりを指しているわけではない。利己を捨てて社会の一助となり、個人の損得を度外視して他者に利する精神全般を指している。

ちなみに、国民主権を前提とする我が国では、政府に勤め国民に奉公する者を公僕としてシンボリックに位置づけている。これは自分の幸福のために働く個々人の労働や経済行為の総体が、ひいては国家全体の幸福に結びつくといったアダム・スミス流の欧米的発想とは好対照を成す大和民族の発想といえよう。さらに基をただせば、中国の古典思想でもある。

この思想が、国民を物言わぬ納税マシーンに仕立て上げる上で都合良く利用される格好となっている。それを国民のモラルとして方向付け、その教育に力を入れるわけだが、しかしながら国家の成立・存続において、為政者がそれを目指すのは当然の選択でもある。かくして、国民は大人しい納税マシーンとなるのである。

気分的には異論を唱えたい気もするが、これは国家と国民のあり方としては、基本的に間違ってはいない。問題はそこから先である。国民が納税マシーンとして大人しく甘んじるのは、どんな時か。それは、国民がその境遇に満足できるときである。そして、それは国民に対する愛情が、政府に感じられたときである。愛情とは幸福を願う心であり、愛情表現はそれを示す振る舞いである。

しかるに、社保庁をはじめ、これまでに白日の下に晒された幾多の公共機関による国庫の流用、私物化の実態は、誰に対する愛情表現だったのか。いうまでもなく国民の幸福ではなく、自分たちが幸福になろうとした結果であろう。軍備費負担を逃れたいばかりに、米政府の言うなりに市場を開放し、さらには日本経済の秩序を破壊してまで失業者を増やし、医療、福祉扶助をカットして、生活苦から万引きを犯す老人が現れるほどに貧困者を増やした政府は、国民に愛情があったのだろうか。

国民は国民を愛する政府を愛する。愛国心とはそういうものではないだろうか。安倍首相の支持率が42パーセントへと降下し、次期統一選と参院選に向けての懸念材料となっているが、その支持率はすなわち政府に対する国民の愛情のバロメーターである。そしてそれは、政府が国民に示した愛情表現の結果でもある。


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