July.2006

 いつの時代にも奇人、変人と呼ばれる理解不能の奇妙な人々は存在するが、最近はそうした人々が異常に増殖し、そして異様な事件が頻発している。近年の異常気象が、もはや異常ではなくなったかのようである。
 連日のように小学児童が命を奪われる事件が起こっている。子が親を死亡させる尊属殺人や、親が子を死に至らしめる卑属殺人も頻発している。配偶者が弱った伴侶の介護に疲れて、命を奪うという悲劇も起こっている。長幼の序が厳格に護られていた時代には考えられなかったことで、最も信頼でき、油断していられるはずの身内に殺されるようでは、安息の地はどこにもない。
 かと思えば、ゴミの山を宝の山と錯覚し、腐臭の中に安息する傍迷惑な人もいる。往来に出れば、少年時代に暴走族だった中年が、今頃になって回顧的な暴走を始めているという。繁華街を見渡せば、学び働く意欲を無くした青年達が充満し、住宅街を覗き見れば、リストラで肩書きと収入を失った中高年が、再起する気力を無くして潜伏している。
 格差社会は、敗北した弱者に情け容赦がない。さらに敗北した弱者は、より弱者に情け容赦がない。それは、白人から差別待遇を受け続けた黒人が、さらに南米移民のプエルトリコ人らを差別したかつてのアメリカ社会の構図に似ている。弱者は、相互扶助するだけの余裕がなく、弱者同士で共食いをする事態に追い込まれるのが宿命だ。これぞ、まさに底辺の修羅場というべし。
 さらに格差社会は、従来の貧富の差を拡大するだけでなく、今までさほど格差の無かった、のどかなコミュニティにまでも競争を煽り、わざわざ新たな貧富の差を生み出す。そして敗者の憂さは、ここでもより弱い者に向けられる。狂気の行いをしでかす奇妙な人々とは、そうした底辺に蠢く敗北者群像の一部といえるだろう。
 地獄編「蜘蛛の糸」では、釈迦が天上から奈落の血の池に、一本の糸を垂らす。しかし、格差社会で競争に勝利した者は、生憎ながら釈迦ではない。そもそも仏心で競争に臨んだのでは、勝てる道理もないというものだろう。その勝者として自らを誤認し、有頂天になったうつけ者の最たる事例は、村上ファンドとホリエモンといえよう。ちなみに、彼らを利用し財テクで大儲けした人は、日銀の総裁であった。
 蜘蛛の糸を垂らすのは、本来政治であり、それを実施するのは行政である。しかしながら、セーフティネットを実行する行政は、自らが債務超過で命脈が危うくなっている。現実に北海道夕張市は、財政管理団体に転落し、地域崩壊へと向かっている。国、北海道から蜘蛛の糸は降りてこなかったのである。
 9 月の総裁選、来年の参院選、統一選など、政局の節目は目白押しだ。野党・民主党は、機を捉えては「格差社会を是正しよう」と気勢を上げるが、担保は一体どこにあるのか、はなはだ疑問である。
 日本は、もうしばらくは夜叉の支配する修羅の国となり、国民は餓鬼のような形相で暮らすことになるだろう。それもこれも日本国史の1 ページである。


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