食彩 Speciality Foods

〈食彩 2008.11.14 update〉

interview

我が国最大の高品質道産ブランド米の産地

――泥炭地帯の悪条件を克服

水土里(みどり)ネット北海道
北海道土地改良事業団体連合会 会長 眞野 弘氏
(北海土地改良区 理事長)

眞野 弘 まの・ひろし
昭和60年9月 北海土地改良区 理事
平成 5年9月 北海土地改良区 専務理事
平成13年9月 空知中央地区土地改良区合併検討委員会 委員長
平成15年6月 北海道ほ場整備構造政策研究会 会長
平成15年7月 北海道土地改良事業団体連合会 国営基盤整備委員長
平成15年8月 全国ほ場整備構造政策研究会 副会長
現職
平成13年9月 北海土地改良区 理事長
平成13年9月 北海道国営土地改良事業促進協議会 会長
平成13年9月 国営空知中央地区土地改良事業推進期成 会長
平成13年9月 農林中央金庫 総代
平成14年4月 北海道土地改良事業団体連合会 理事
平成18年7月 空知管内土地改良区運営協議会 会長
平成18年8月 北海道土地改良事業団体連合会 空知支部長
平成19年4月 全国土地改良事業団体連合会 理事
平成19年4月 北海道土地改良事業団体連合会 会長
平成19年4月 北海道農地・水・環境保全向上対策協議会 会長

 北海土地改良区は、赤平市、砂川市、奈井江町、美唄市、月形町、岩見沢市、三笠市、南幌町、江別市、栗山町の6市4町を所管し、区域面積が33,475haに及ぶ全国で最大規模の改良区だ。石狩川を主川に、泥炭地帯という悪条件を克服して、全道の1割に相当する12万haの耕地面積を持つ。うち水田は93,800haと41パーセントを占める最大級の稲作地帯である。道産米は品種改良によって品質が飛躍的に向上しており、同改良区は最大級のブランド米生産基地となっているが、そうした一大米所として不動の地位を築くまでの道は、平坦ではなかった。改良区理事長であり、北海道土地改良事業団体連合会の会長でもある眞野弘氏は昭和28年に開墾入植し、馬力による造田の現場とその苦労を知る貴重な歴史の証言者でもある。そうした造田の歴史を踏まえつつ、土地改良事業の本質や稲作の今後について語ってもらった。

──北海土地改良区は、全国最大規模を誇り、全国的に高い評価を得ている道産米を生み出していますが、その成り立ちと理事長のプロフィールから伺いたい
眞野 明治35年に北海道土功組合法が施行され、大正11年に発足してから終戦まではその体制となっていました。戦後の昭和24年にGHQによる制度改革にともない土地改良法が施行され、それに基づいて組織変更されたものです。  私は昭和10年に岩見沢市で生まれました。代々から水田づくりでしたが、私の兄は、その一方で岩見沢市議なども勤めました。私は高卒後に、戦後緊急開拓制度に基づいて美唄市の農地選考許可により提供を受け、昭和28年に入植しました。
──終戦後は配給制度で国民はギリギリの食生活を強いられ、闇市を裁く立場のために餓死した山口良忠判事のような、極端な事例も見られました
眞野 戦後は急激に食糧増産の必要性が唱われたのは、樺太・満州からの引き揚げ、戦地の復員者、家族の多い時代でもあり雇用対策の意味合いもあったと思います。そうした時代背景から、私も農業の道に入りました。
──そのときから北海土地改良区の一員となっていたのですか
眞野 いいえ、土地改良区は当時から畑地の改良も行いますが、主業務は水田に水を供給することで、当時はそれ以前に原野開拓が先決で、私たちとしては農地化への作業が中心でした。  明治初期の開拓と比べて後の戦後改革では、時代が進んできていたとはいえ、動力の中心は機械ではなく馬で、食糧も燃料も乏しく、電気も水道もない時代でした。特に、私の入植した美唄原野は泥炭地で、地下水を下げる為に明渠排水を掘るのですが、その泥炭の発生土を乾燥させて、それを冬期間の燃料に使用していました。  水道がないので井戸を掘って活用していましたが、岩見沢にはお茶の水と呼ばれた地区がありました。それは井戸水がお茶のように濁っていたためです。白い手ぬぐいを洗って絞ると、紅くなるという劣悪な状況です。
──開墾して、ようやく水田に変わったのはいつ頃でしたか
眞野 昭和36年でした。美唄原野開拓事業は、水田にする構想として進められていました。昭和32年には桂沢ダムも完成したので、それを水源に営農できると思っていたら、後に完成する金山ダム水系が私たちの水利地区と説明されたので、水利権は得られないのかと落胆していたら、暫定水利権が設定されました。その結果、地域河川に揚水機を設置するよう要請し、36年にいよいよ水田が出来上がりました。
──戦後の国策で作られた水田だったのですね
眞野 そうです。当時は食糧不足だったために、造田補助金という制度資金が創設されており、開拓者への支援体制がありました。もっとも開墾作業は馬が主力だったので、それほど資金を必要とはしませんでしたが、それでも電力や物資などを確保する必要はありました。もちろん、田圃とはいっても今日のような1haや2haに及ぶ大規模なものではなく、人力や畜力で均らせる程度の規模です。  しかし開墾作業は容易ではありません。泥炭地で機械がなく、馬が主力ですが、4本の足を持つ馬でさえもぬかって身動きが取れなくなる危険な土壌なので、馬にも藁で編んだかんじきを履かせていました。4本足だから4つで足りるというものではなく、後ろ足には力が入るので、二重に履かせることが必要です。明治の開拓は鍬が中心で、戦後開拓は馬が中心に変わっていたとはいえ、それでも並みならぬ苦労がありました。
──その後、昭和40〜50年代には、土地改良区の支援を受けながら、徐々に作業環境も改善されてきたのですね
眞野 そうです。昭和36年に農業基本法が制定されましたが、その頃は中学卒業者が「金のタマゴ」と呼ばれ、集団就職で都市部の工場などに吸収されて、郡部の農業生産者が減り始めていました。その分、食糧増産の必要性も高まり、そのためには農業の近代化を促進することが必要だったために制定された法律でした。それに基づき38年に圃場整備事業が創設されました。  私たちの圃場も50年代に入ってから、ようやく整備に着手された一方、40年代頃から機械化も進み始め、農耕機械メーカーが精力的に開発に着手していました。
──そうなると、農作業の近代化と収穫量の拡大などで、手応えのある時期だったのでは
眞野 その通りで、かなりやりがいのある時代でしたね。しかし、就農したばかりの私などは、まだ二十歳前の単身の若者でしたから、とかく将来を考えて不安にかられたりしていたものです。そうすると、私の父は元は本州から入植し、開拓から農場を築き上げた苦労人でしたから「この土地は神武天皇の御代以来、開墾されたこともない土地なのだ。それをお前が切り拓き農地にするのだぞ」と叱咤し、挫折しないように激励してくれ、時には寝起きを共にして作業を手伝ってくれたものでした。
──若い身空で、単身で人気のない原野に踏み込むのは、孤独で心細いものだったでしょう
眞野 当時の風習では、満州などから引き揚げた本州の若い復員者に対して、地域で配偶者を斡旋し、合同結婚式などを執り行って、夫婦単位で北海道に集団入植させたものでした。私の所在する豊葦地区にも、地元住民の他に山形県から入植した人々が3分の1、樺太からの引き揚げ者も3分の1の割合となっています。私も含め、彼らが開拓農家と呼ばれているわけです。
──そうして新天地で大成した人もいれば、挫折した人もいたのでしょう。土地改良区理事長のポストにある理事長は、大成したモデルケースと言えるのでは
眞野 私などが投げ出さずに続けてこられたのは、父から辛抱強い根性に鍛えられたお陰だろうと思っています。現在は、私の跡継ぎが引き継いで営農しています。息子のお陰で、このポストで公務に携わっていられるようなものです(笑)  今でこそ土地改良と言えば、農地を2町歩、3町歩に再編したり、水路をコンクリートで構築するなどの事業が行われていますが、やはり開拓というのが土地改良の原点で、地下水を下げたり、荒地の状況を風化させて掘り起こし、耕地化することが土地改良の本質です。  その意味では、美唄は明治20、30年代から早期に入植が行われていたものの、現在は8,500haくらいの水田となっていますが、私たちが入植した頃は、そのうちの2,000町歩程度しか水田はなかったでしょう。それ以後は、戦後開発にともなって開拓された圃場ばかりですね。
──終戦後の食糧危機に、国策として増産に力を入れて自給率を上げる努力をし、成果も上げてきたのに、今日では自給率が40パーセントを下回る事態です。しかも、食糧危機は今や一国の問題ではなく、国際問題へと発展しており、食糧輸入大国・日本に対する世界の視線は厳しくなっています。我が国政府は、今まで何をしてきたのかという疑問を改めて感じますね
眞野 国民の米離れが進んだため、転作もある程度はやむなしとは思います。しかし、それにしても北海道は転作率が5割ですから、これでは勿体ないと感じます。せめて、6割から7割の比率で水稲の作付けが行われるような政策があって良いと思います。特に、近年の世界の食糧事情は危機的な状況になりつつあり、それを痛感します。  世界には食糧不足で飢饉状態の地域もあるのですから、もう少し稲作を進め、余剰分で支援できるなら支援し、飼料化や、バイオ燃料などエネルギー源としての加工を検討するなど、対策は様々にあると思います。
──北海道米は、今では低農薬・低肥料で安全度が高く、品質も高い米が獲れるようになりました
眞野 生産者の意識も、以前とは全く変わってきました。一時期は、少しでも多く収穫することを目標としていましたが、今日ではタンパク質の少ない食味の優れた米づくりに全力を挙げています。そのために、かつて農家ごとに行われていた戸別選別などは廃止されており、8割から9割調整された米を、農協のライスセンターに搬送し、そこで均一な品質に調整し直すという手法で行われています。  そのセンターに搬送された時点では、もはや食味がどうかという曖昧な主観ではなく、タンパク質やアミローズの含有量を示す数値に基づく計数評価で、米の価値が決められています。したがって、タンパク質含有量が8パーセントにもなると、もはや米ではないと否定されるのですから、生産者の意識も変化し、それが米の品質を一変させたわけです。もちろん、農業試験場による品種改良の努力や農協の取り組みの成果でもあります。
──商品開発はそれで実現できるでしょうが、問題はそれを生産していくための土壌では。いかに品種改良に成功しても、痩せた土壌で高品質米の生産や安定供給は無理でしょう
眞野 だからこそ、土地改良が重要なのです。開拓経験者として実体験してきたことですが、土地改良もしない原野を掘り起こして作物を植えても、芽が出て結実したときには、みなそれらしい外見に見えるのですが、収穫期が近づくと、稲穂が真っ黒に変色するなど、全く違ったものに変質してしまいます。  これは水稲だけではなく、酪農でも経験したことですが、クロバーなどの牧草でも、それを刈り取った直後は青々としているために、土地改良済みの牧草も原野の牧草も外見上は区別がつきません。ところが、一時間後に両者の違いは歴然としてきます。土地改良を施していない地区の牧草は、やはり真っ黒に変色し、全く別物に変化してしまうのですが、土地改良の牧草は、5時間後でもなお真っ青のままです。  それほどの明白な違いが生じるのですから、当然、米でも土地改良の有無は、その成分に大きく影響することでしょう。土地改良をしていなければ、食味も精米度も悪くります。  したがって、品質を向上し維持していくには、品種改良の努力、ライスセンターでの調整もさることながら、土地改良がベースになければ、今日の高品質の道産米は生まれなかったでしょう。
──農業は土づくりから始まると言われますね
眞野 土地改良事業で重要なのは客土で、山地から運び込んだ土を農地に使用します。特に泥炭地の場合には、これを用いない土地改良事業などはあり得ません。いかに排水効率を高める暗渠排水や明渠排水などの施設を整備しても、この客土をしなければ地力を引き出すことはできません。  その地力には、作物を育成させる地力と地盤を鍛える地耐力があり、さらには耐病性もあります。地耐力というのは、かつての農耕馬や現代の農耕機械がぬかったりせずに機能できるだけの地盤の強固さをもたらす力です。粘土質の土を泥炭に混入しなければ、盤石な地盤にはなりません。  一方、耐病性については、稲熱病(いもち病)が今年も各地に散見されますが、客土を行っていない田圃では、全ての稲がこの病気によって真っ赤になり全滅します。今は優良な農薬も開発されていますが、水田ができたばかりの頃には、病気の蔓延を抑える薬品も無かったので、全滅する事例が各地で見られたものです。
──やはり高品質の農産物を安定的に生産・供給していく上では、毎年の圃場整備が欠かせないのですね
眞野 昭和38年以降に圃場整備事業が創設され、今日では国の援助を受けながら、盛んにそれが行われるようになりましたが、以前には、その制度は無かったため、全て自力で対処しなければなりませんでした。  しかし、稲熱病は防ぐことができず、そのため土地改良区を創設した私たちの先達であり、ホクレンも創設した功労者で、参議も務めた小林篤一氏が支線組合を設立し、客土を確保するための山を購入したのです。三笠市に全国初の道の駅第一号がありますが、その直近の山で、今でもそこには記念碑が建っており、毎年の通水式もそこで行われます。  このように土づくりが大切なのは、ある意味人間も同じようなものですね。健康な身体というのは、にわかに作り上げられるものではなく、基礎運動などを積み重ねてこそ、病気にも打ち克てる基礎体力が養われます。
──長年にわたり、農業の歴史と土づくりの歴史を見てきましたが、業務を通じて印象深かったことはありますか
眞野 圃場を作って初めて稲が実った昭和36年の収穫の秋に、北海道新聞社が取材に来て、稲穂を携えた私たち夫婦の写真とともに「稲穂の波」という記事で、掲載してくれました。その時は造田の竣工式でもあり、私はまだ20代半ばでしたが、その時の感慨の大きさたるや言葉にはできないものでした。  当時の収穫量はまだ6俵くらいでした。今では10俵くらいを収穫しても驚きませんが、自力で拓いた田圃から稲ができ米が獲れるのは、何とも言えない喜びです。農家というのは、もちろん経営のための収支計算はしますが、まずは一定の収穫を得ることが第一です。米のみならず他の作物にしてもそうで、手をかけて育成し、秋になって実り、他者に負けない収穫量を得ることが大前提です。それが満足な収入となれば十分ですが、最後だけはなかなか豊作とはいきませんね(笑)
▲北海土地改良区 事務所
──そうして悲喜こもごもの苦労を経ながら、毎年の収穫に汗を流す生産者が、もう少し収入を確保でき、希望が持てるような政策が行われればと思いますね 
眞野 農業政策というのは、現役の生産者やその後継者に意欲を持たせるものであって欲しいものですね。近年はあらゆるものが国際化し、WTO関連の政策で国境処置も難しくなっていますが、やはり生産者が1億国民の食を賄っていることの自負心や、地域社会に役立っていることの自覚、安心して暮らせる食生活を各家庭に提供していこうといった意欲を喚起する政策が求められます。  しかしながら、現状ではそれがありません。むしろ、米作りに携わっていると、近隣地区に迷惑をかけている犯罪者のように非難された時期もありました。米を作って批判されるとは、どういうことなのでしょうか。どこの国家でも生活レベルが向上してくると、食生活が穀物中心から肉類へ移行していくのは自然の流れですが、それにしても米価が極端に下落したため、生産者はあたかも国の足手まといになっているかのような立場に置かれてしまいました。  ただ、ようやく最近になって、食育基本法が施行されたり、スローフードが再評価され出しています。それが定着する流れへ変えたいと思い、田圃のあぜ道でハーブ草を栽培したり、用水路の縁を利用した桜の植樹に地域住民にも参加してもらったり、子供達には田植え教室を開催し、米作りから架掛けまでを教習するなど、様々なイベントや事業を改良区として実施しています。こうした機会を通じて、食に対する考え方や、米に対する認識を再生させていくべきだと考えています。  もう一つは、環境問題が世界的な関心事ですが、これは水なくして語ることはできません。最近は人間を始め、あらゆる生物の生命に対する感性が鈍化しているのではないかと感じます。報道に見られる不可思議で理不尽な犯罪は、この感性の鈍化が根底にあるのではないか思えるのです。  そこで、全国の水資源の6割を農業用水が占めているのですから、この水と食を考えながら、生命に対する感性を養っていくことが必要ではないかと感じています。そこから倫理観や、互いに助け合おうとする農耕社会のモラルが再生してくると思います。その役割を、もちろん学校教育にも期待したいが、生産者こそはそうした水と食の現場にいるのですから、それを担う必要があると思います。命の尊厳というものを感じられる社会にしていくことが必要で、その思いを込めて本業たる土地改良のハード事業とともに、食育を目指したソフト事業にも取り組んでいるわけです。
──どんな人にもふる里があるでしょうが、日本人の原風景として共有されるふる里の姿とは、やはり田園風景でしょう。それが減反や離農で荒廃していてはなりませんね
眞野 やはり素手と裸足で土に触れるというのが、人の原体験としてあると思います。だから私の農地では、仲間内で細々とハスカップを栽培していますが、訪問者は8割が札幌の人で、家族連れや老夫婦などがハスカップ狩りに来ています。そうした都市部の人が、一シーズンに何百人も訪れるのです。もちろん、我々にとっては大した収入にはなりませんが、これも農業を知ってもらい、地域のホンモノのふる里に触れてもらうといった意味合いから、10数年来続けています。  そうなると、次第に家族感覚になり「婆さんはどうした?」と、手みやげを持ってきてくれる人もいます(笑)。それくらい交流が深まるほど足を運んでくれるのは、やはり農耕民族として土に馴染む感覚があるからなのだろうと思います。そうした自然との触れ合いによって、人間性が回復していくのではないかと思うのです。都会のコンクリート社会は、人間の本能を満たす上ではもの足りず、人間として弱くなるのかも知れません。  したがって、そうした土地改良事業とは「健康な質の高い国づくり」でもあると、私は考えており、そしてその意気込みで取り組んでいます。
──土地改良事業などの公共投資に対しては、それを否定して福祉ばらまき予算の獲得を目指す大衆マスコミや、それに洗脳された世論と、財政改革の渡りに船とばかりにそれらにおもねる内閣が強力にスクラムを組んで、事業予算の削減と排除に全力を挙げてきましたが、国づくりのための予算と考えると、政府がその削減結果をアピールするセンスは不可解です
眞野 予算や政策要望に当たっては、私たちも平凡で優等生的模範解答のようなアピールの仕方に問題があったのかも知れません。もう少し特徴のある政策要望の仕方をすべきなのだろうと、頭では分かっていますがなかなか容易ではありません。
──土地連の全国代表といえば、野中元幹事長ですが、その意味では個性の強い人物でしたね
眞野 北海道にも2,3回来訪しており、この北海土地改良区にも訪問して下さいました。農業者としての根性を、しっかりと持っている人物で、いわば農民魂のある人です。土地改良政治連盟として、道内で講演を依頼しましたが、およそ一時間半も立ったままで平気で講演するのです。農業関係者として、やはり北海道には特別の思い入れを持ってくれていることが伝わりました。  その思想についても深く共感できるものが多く、例えば公職選挙法については、有権者数に応じて投票する既存の制度のままでは、有権者数の少ない地方ほど選挙力が減っていくので、地域の面積を加味した新制度を検討すべきだと主張していました。また、小選挙区ではなく中選挙区にすべきという主張など、地方があってこそ都市生活は成り立つという基本理念に基づいており、これには同感です。
──何しろ、地方によっては人口よりも牛の頭数の方が多い地域もありますから、一票の格差の是正は真剣に考えるべきですね
眞野 その後の政権を担った小泉内閣では、地方ではなく都市の再生を政策目標にしているのですから、都市部住民の評価は良いでしょう。では、地方はどうなっていくのでしょうか。特に北海道は食糧自給率が200パーセントにもなっており、半分は国家のために生産供給しているのですから、そうした地域をどう評価し、考えているのかが疑問ですね。  都市経済の効率だけが、小泉元首相の政治的原点だったとしか思えないのですが、効率性だけで政治の使命である公平・公正な政策執行は可能なのでしょうか。東京だけで生活できるならそれでも良いでしょう。  一方、「美しい国」や「国家の品格」を主張した安倍総理の思想は、個人的には評価しています。ただ、運が悪かったというべきか、閣僚の失言問題が相次ぐなど不運なアクシデントが続きました。福田首相については、さらに評価したいとは思います。ただ、800兆円にも上る赤字国債にも配慮しなければならず、かといって国際的な経済状況が悪化していますから、舵取りは大変でしょう。
──今年もいよいよ来年度予算の概算要求が行われた上に、緊急経済対策も論議されていますが、新年度予算の要求内容については、どう評価していますか
眞野 北海道開発予算は、今年は国費ベースで6,200億円で、国総体の公共事業費総額は7兆円弱ですから、その1割に相当します。そのうちの16パーセントとなる1,080億円が農業農村整備関連の事業費ですから、農業社会資本については、国もそれなりに考慮してくれているのだと感じます。  ところが残念なことに、昨年の参院選で国費の1割を確保してくれた農業代表者が落選してしまいました。これは同じ農業仲間である私たちとしては、情けない結果です。せっかく全公共事業費の一割も農業農村整備に予算配分してくれているのに、政治家の一人も出せないというのでは情けないと、私は考えています。
──都市経済の効率主義に偏ることなく、もう少し国内で内需拡大策を行っても良いと思いますね
眞野 前年比と同等の比率で予算配分してもらいたいと思います。北海道の今があるのは、北海道開発局があったからこそで、昭和25年に北海道開発法が制定され、局が組織され、10年ごとに長期の開発総合計画を策定し、それを内閣が承認した歴史を繰り返してきたのです。その結果として、北海道の社会資本の今日があるわけですから、それを担った開発局が、今になってムダだから廃止しようという議論は筋違いだと思います。  局による開発事業があったからこそ、高品質の道産米が獲れるようになり、河川もダムのお陰で氾濫しなくなったのです。三笠市の桂沢ダムなどは、後に開発事務次官となり、北海道知事となった堂垣内氏が、ダム建設事務所副所長として携わった多目的ダムの記念すべき第一号です。  このように、開発行政によって北海道が開発されたのは、単に道民のためではなく、それが国益のためでもあったからなのだと思います。そのために開発法を制定したのですから。
──そうして一般土木も含め、農業インフラも整った結果、今年は北海道が疎水サミットの開催地としてホスト役を果たしましたね
眞野 最初は参加者が600人くらいだろうと見込んでいましたが、750人の参加があり、調整池のある現地にも来てもらいました。  この他に、北海幹線を中心にウォーキングのイベントを開催しています。すでに三回開催しましたが、盛会でした。歩きながら田圃や転作畑を見てもらい、近隣の防風林の中を通るコースも設定しています。  今は故人となった東大の木村尚三郎名誉教授が調査会会長となって、食糧農業農村基本法が平成11年に制定されましたが、画期的なのは、農業の多面的機能を明文化したことです。農村の振興、農業の発展、食糧の安全保障とともに、多面的機能を加えて4つの柱としました。その多面的機能と多面的価値は、農水省の研究機関で8兆円と試算されています。それはあくまで計数化できる部分だけのことであって、それ以外の食農教育など心の問題となれば、さらに大きな効果があると思いますが、研究機関としては、そうした多面的価値を、我が国の学術会議に諮問したところ、それは当然と認められたばかりか、私が思っていた計数化できない部分の価値は、もっと大きいと承認されたのです。  昭和36年の農業基本法を制定した東畑精一東大教授は、戦後農政の権威者ですが、「農業は大地を耕すだけでなく、人の心を興す文化である」と主張しました。私はこの言葉に深く感銘しています。
──土地改良区の果たす役割は、単に農業インフラを施行・運営するだけでなく、多方面にわたることになりますね
眞野 近年はCo2削減も国際問題になっていますが、私はそうした問題の原点は、すべて農業にあるものと思っています。
概 要
名   称:北海土地改良区
所 在 地:岩見沢市6条西7丁目1番地
      TEL 0126-22-2400
設   立:昭和26年7月28日
関係市町村:岩見沢市、赤平市、砂川市、美唄市、三笠市、江別市、奈井江町、月形町、南幌町、栗山町
地 区 面 積:33,487ha
組 合 員 数:2,878名


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