食彩 Speciality Foods

〈食彩 2008. 9.18 update〉

interview

泥炭地で最低の海抜の悪条件を乗り越えて耕作地は100パーセントに

――売れるだけでなく買ってもらえる米作り

水土里(みどり)ネットしのつ中央
篠津中央土地改良区 理事長 武田 八郎氏

武田 八郎 たけだ・はちろう
昭和48年 9 月 篠津中央土地改良区 総代 就任
平成 2年 4月 同 理事 就任
平成 2年 4月 同 川南機場運営委員会副委員長 就任
平成 2年 4月 同 総務委員会副委員長 就任
平成 7年 4月 同 八幡機場運営委員会委員長 就任
平成 9年10月 同 総務委員会副委員長 就任
平成18年 4月 同 総務委員 就任
平成18年 4月 同 八幡機場運営委員会副委員長 就任
平成18年 4月 同 副理事長 就任
平成20年 6月 同 理事長 就任

 篠津中央土地改良区は、江別市、当別町、新篠津村、月形町の4市町村にまたがる7,460haを所管し、全国的に評価が高まっている道産米を主力産物としている。幾たびの石狩川の氾濫の悲劇に見舞われながらも、全国でも珍しく耕作放棄地の無い優良改良区で、先代の南部理事長は全国組織のトップも務めた。この6月からは副理事長だった武田八郎氏にバトンタッチしたが、「あきたこまち」のふる里である米どころ秋田県の米農家に生まれ育ち、39年に本格的に北海道での米作りに参入した同理事長は、全国的に評価が高まっている道産米について、まさかこれほど品質が上がるとは思っていなかったと述懐する。現在は、ただ売れる米作りではなく、買ってもらえる米作りへと組合員の意識も変化してきているという。

──この6月に理事長に就任しましたが、略歴から伺いたい
武田 昭和13年に米どころの秋田で生まれ、そこで親の営農を見て育ちました。戦中から戦後にかけては、日本も食糧不足の時代で、米を作ると強制出荷させられていました。稲が実れば、役所が視察に回ってきて割り当てを決めていました。  ただ、幸いだったのは、作物が蕎麦ではなく米だったことです。お陰でソバやひえ、あわなどを食べた記憶がなく、十分とは言えないまでも、常に米を食用できました。
──その当時の圃場は、用水路などは整備されていたのでしょうか
武田 その頃は溜池があって、自然流下によって利用していました。今日のような改良区はなく、10軒単位の農家が自力で山から水を引いて、圃場を作っていた時代でした。機械もない時代ですから、耕作も馬を主力とし、田植えは手作業でした。草取りも手作業ですから、年中休む閑もない状況です。北海道でも40、43年頃までは機械がなく、手作業でしたが、秋田では刈り取った後の脱穀その他の作業も足踏みで行っていたものです。  家屋には馬借り家という、厩と住居が一体となった形式でしたが、そうした伝統的な農家の風景は、今では見られなくなりましたね。時には秋田へ出向くこともありますが、かなり変わっています。  篠津地区で水田を最初に拓いたのは39年で、土地改良事業に合わせて開拓したのです。改良区の設立は32年で、それまでは各農家が独自に水を引いていました。
▲篠津泥炭農地開発の歴史を展示
「泥炭地資料館」
──この改良区の所管区域は泥炭地域ですから、米づくりにはかなり苦労があったのでは
武田 私自身はあまり苦労をしたという自覚はないのです。その程度では苦労のうちには入らないと思っているものですから(笑)  ただ、この改良区では泥炭地特有の地盤沈下があるので、毎年いやが上にも暗渠と客土の繰り返しになり、多いところでは客土を3回も行っている地区もあります。しかし、その暗渠と客土によって、道産米の品質は上がったのです。この改良区が設立して、今年で50年ですが、当時はまさか道産米が秋田米に優るとも劣らないものになるとは、想像もできませんでした。何しろ、その頃は品質に関係なく、獲れれば売れていた時期でした。とにかく品質よりも量の確保が最優先されていました。
──理事長が農業に従事することになった切っ掛けは
武田 昭和30年に、本格的に大規模な農業経営をしてみたいと思い、本当はブラジルへ渡りたいと思っていました。私の友人にも実際に現地へ渡り、成功した者が3人ほどいますが、一方では秋田、青森、山形、福島などから出稼ぎの農業労務者が石狩管内に行っており、私もその一員として江別市大麻に10年ほど滞在しました。その大麻は当時から比較的に裕福で、稲作だけでなく酪農も行われていたので、そこで定着しました。  そうして39年から本格的な造田が始まり、改良区全体が水田となったのは42年頃でした。さすがに秋田市本庄と江別市大麻とは、面積も営農規模も桁違いで、その広さには驚いてしまいます。自分の畑でも、隅々まで把握するまでには1年もかかるほどです(笑)  開拓当時から見れば、近年は営農規模の大規模化と機械化が進みましたが、それは組合員が大幅に減ってきたためです。したがって、改良区発足当初は5町から7町くらいが平均的な規模でしたが、今では13町くらいが平均で、大きいところは100町という規模になっています。
──最近は輸入食品の安全性の問題と、食糧不足による輸入困難の問題から国内農業が注目され、都市部からの就農希望者も多いと報じられます
武田 マスコミなどは安直にUターン農業ができるかのように報道していますが、退職して自分の食糧分だけを作るなら、それでもできるでしょう。本格的な農業をゼロから始めようとすれば、最低でも2億円の資金が必要になります。農地を買い、住宅を建て、作業場を確保して機械を購入しなければなりませんから。それを今後の営農によって回収するにも、現在の農産物の価格では到底無理なのです。  行政側も、建設業者のソフトランディングに農業を推奨したりしていますが、我々は40年、50年もこれに専従してきたプロですから、そんなに儲かるものではないことくらいは身を以て知っています。 
▲篠津中央土地改良区 事務所
──営農に最も追い風が吹いていた時期はいつ頃でしょうか
武田 40年代か50年代頃でした。作れば売れた時代で、しかも作れば作るほど価格も上昇していったのです。それだけに張り合いもあり、みな良い物を作ろうと競争していました。  それが平成に入ってからは、価格が下落し経営環境が厳しくなる一方です。今では限界以上に生産すれば、流通ラインに十分に乗らないなど、必ずどこかに落とし穴があるという状況で、豊作を素直に喜べない情勢です。必ず過剰投資のツケが回ってくるもので、マスコミ報道を見て、これほど簡単に農業ができれば良いのにと溜息が出ることがあります。  例えば、水田などは作付け期間はわずか一週間で、北海道は特にその期間内で植え付けを終えなければ収穫期が遅くなり、冷害を受ける可能性が生じます。麦でも雨が降れば芽が出てしまうので、一週間から5日間の間に収穫しなければ台無しになります。  そのためには、それに対応できる機械に投資もしなければならず、部外者が傍で計算するような、1+1が2となる算術のようにはいかないものです。
──北海道は食糧供給基地としてアピールしてはいますが、そうした困難を抱える農家がそれを乗り越えていくための意欲を、どう喚起していけば良いでしょうか
武田 様々な制度を、もう少し柔軟なシステムに変えてもらうことでしょう。今は生産者が政策に振り回されている感じです。50年代頃は我々も若く血気盛んだったので、米価審議会に向けての決起集会などでは、価格を上げろと叫んだり、補助金をもっと出せと要求したりしました。  国も道も努力はしてくれていますが、やはり商社に買い叩かれているのが問題だと思います。牛乳も米も肉も全てがそうで、彼らが相場を独断で決めているようなものです。
──この改良区は、近隣に大消費地である札幌市があるので、ビジネスとして有利では
武田 生産者が自力で二次加工、三次加工をして、店頭に並べるように製品化できるノウハウはありません。一部には、野菜でも米でも自信がある作物を、自力で大消費地に持ち込んでいる人もいますが、全員にそのノウハウがあるわけではなく、非常に難しいと思います。  また、今まで販売も資金も農協に頼ってきており、融資のクミカン制度もあるので、みなそれに依存していますから、それから外れるとほとんどの農家は廃業するしかなくなると思います。何しろ秋に一度しか収穫しないのに、肥料や飼料、種苗その他の機材は春に購入したり、更新しなければなりません。しかし、その年の収入を全て翌年の資金に充当できるだけの余裕を持つ農家がどれほどいるのかは疑問です。
▲石狩川頭首工完成予想図
──この土地改良土区には、何度か氾濫した石狩川が流れていますが、そうした時には収穫がゼロになりかねないですね
武田 私が昭和39年に入植して以来、何回も氾濫しています。そのため、改良区として独自に排水機を二機備えて、自力で汲み上げているほどです。この地域では海抜3mと最も低い低地で、内陸部の旭川市で豪雨があれば逆流し、氾濫した水が集中しやすいのです。そのため56年の水害では、水没した地区の農家は三週間も避難生活を強いられ、その年の収穫はおろか家財道具も全て台無しで、酪農牛も何頭かは死亡しており、悲惨きわまりない状態です。  それだけに組合員の結束は堅く、50mmの雨が降れば地区のリーダーは徹夜で地区を巡回し、水がつけば直ちに全員が集まって協議し対処しています。そうした土地柄ですから、排水機の増設・更新のために努力してくれたかつての改良区理事の松下新太郎氏の功績は、今なお忘れることはできません。
──そうした苦難を経ながら、全国に評価される米作りに成功したのですね
武田 単に売れる米を大量に作るのではなく、「篠津中央の米が食べたい」といわれるものを目指してきたのです。売れるだけの米は一部にしか通用しないもので、是非とも篠津中央の米を食べてみたいと思われるものでなければ、全国的な普及には至りません。したがって、組合員たちも、ただ食べてもらうための米作りではなく、「買ってもらえる米作り」をしようと、意識が変わっています。  また、この土地改良区は耕作放棄地が無く、100パーセント有効利用しており、それだけに自治体の首長も、農業を守ろうという意識が飛び抜けて強いのです。そうした地域ですから、これからも低農薬・低肥料で安全で優れた作物を提供していきます。
概 要
名   称:篠津中央土地改良区
所 在 地:石狩郡当別町金沢1363番地の21
        TEL 0133-23-2359
設   立:昭和32年7月1日
関係市町村:江別市、当別町、月形町、新篠津村
地 区 面 積:7,397ha
組 合 員 数:539名

篠津中央土地改良区ホームページはこちら
HOME