〈建設グラフ2001年1月号〉

特集 建設省 北陸地方建設局


治水・砂防事業が水害を制圧

大規模土石流を抑えた「左俣谷第1号砂防ダム」(神通川水系) 被災前の左俣谷1号砂防ダム

◆水害との長い闘いの歴史

 近年の水害は平成10年8月4日の豪雨が記憶に新しい。新潟県北部に停滞していた梅雨前線に向かって、南西方向から暖かく湿った空気が入ったため、活発化した梅雨前線の影響で新潟市周辺は4日未明から雷を伴う激しい雨が降り続いた。
 この豪雨は、新潟気象台観測で時間最大雨量が97 mm、日雨量265mmとなり、観測史上の最大記録を塗り替えた。
 これによって、籐見町では東北電力籐見変電所のライフラインが寸断。全国都市緑化フエアの新潟会揚となった清五郎(鳥屋野潟南部)は水没。新潟市栗山4丁目と上木戸地区、寺尾西5丁目及び大堀幹線で家屋浸水した。
 新潟県消防防災課の調べによると、全体で約10,300戸の家屋が浸水し、約4,000haの農地が水没した。
 この他にも、過去をさかのぼると、幾多の水害の歴史に行き当たる。

死者を出した昭和44年の水害
地域を守る「三国川ダム」(信濃川水系)

◆ダム・砂防ダムが果した役割

 10年8月4日の集中豪雨により、新潟県両津市北川では、土石流が発生したが、昭和51年に完成した砂防ダムが約3,200立方メートルの土石流を捕捉し、月布施集落を土砂災害から守った。しかし、隣接する東立島川では、砂防ダムが無かったため、土石流により7戸の家屋が一部損壊などの被害を受けた。
 9月22日の台風8号と7号による集中豪雨では、岐阜県上宝村にある神通川水系の土石流危険渓流「左俣谷」の右支渓「穴毛谷」から約10万立方メートルの土石流が流出。下流には、年間200万人以上が訪れる奥飛騨温泉郷のひとつ「新穂高温泉」や新穂高ロープウェイなどがあり、年間を通して観光客や登山者で賑わっている。このため、ひとたび土砂災害が発生すると、甚大な被害が発生する恐れがあった。
 だが、この土砂を下流の「左俣谷第1号砂防ダム」が食い止め、被害を未然に防ぐことができた。
 新潟県六日町の信濃川水系三国川の上流部は、高度差が大きい上にV字形の険しい谷をぬうように流れている。そのため三国川の歴史は洪水の歴史といってもよいほど、大きな被害を及ぼし続けてきた。
 三国川ダムができる以前の昭和39年、44年、53年、56年は洪水のくり返しで、中でも44年は農地や家屋が消失し、死者や多数の重傷者が出るほどの被害が発生した。反面、逆に渇水で米作りに打撃を与えた年もあり、治水事業は地域の命運を左右する課題であった。
 しかし、平成6年に三国川ダムが完成してからは、幾多の洪水に対しても絶大な効果を発揮してようやく人々は安寧を得た。
 平成10年9月16日の台風5号では、昭和56年の魚沼地域の大洪水を上回る出水となったが、ダムの洪水調節により、下流の魚野川と三国川には被害が全く発生しなかったのである。
 信濃川水系破間川は、その名が示す通りの暴れ川で、昭和30〜40年代にかけて相次いで氾濫し、甚大な被害を及ぼしてきた。
 このため、新潟県入広瀬村に破間川ダムが建設され、昭和61年10月に完成。8月4日は、入広瀬や守門の山間部で総雨量280mmの集中豪雨となり、破間川ダムでは、最大流入量622.37立方メートル/sを記録し、560立方メートル/sの洪水調節を行った。
 この結果、広神村では水位が橋げたにまで迫ったものの、洪水氾濫に至ることはなかった。
 台風7号は、9月22日13時過ぎには和歌山県北部に上陸し、その後も強い勢力を保ちながら速度を速めて、18時に富山市付近に達した。それに伴い、9月22日夕方を中心に短時間に激しい雨が降り出し、梯川水系の赤瀬ダムでは、18時38分に最大流入量526.3立方メートル/sを記録し、405.5立方メートル/sの洪水調節を行った。
 その結果、梯川の埴田水位観測所では、20時頃には既往最高水位を記録したものの、ダムの洪水調節により、洪水氾濫には至らなかった。