〈建設グラフ1999年2〜3月号〉

北海道土木行政100年

昭和31年 建設中のテレビ塔 明治44年南2条通 後方に円山がみえる
土木行政機構の流れ
旧内務省から、旧北海道庁の官制を6部1署体制にせよとの勅令が施行されたのは、明治30年10月30日のことで、勅令第392号による。これによって北海道庁に、長官官房はじめ内務部、殖民部、警察部、臨時鉄道敷設部、財務部、土木部、監獄署が設置され、土木行政を司る土木部が初めて誕生した。
それ以前の土木行政は、明治2年に開拓使庁が設置されて以来、石狩河口改良係や媒田開採係、屯田事務係などによって行われてきたが、15年2月に開拓使は北海道事業局、函館県、札幌県、根室県の3県1局体制となり、3県とも土木課が専管することになった。当時の県の機構は、県令以下課制だったのである。
3県1局を廃止し、北海道庁へと統合されたのは明治19年。機構は第1部、第2部が設置され、はじめて部制が布かれたことになる。当初は2部制だったのが、後に4部体制となり、22年には3部体制に収束した。それが24年2月の機構改正で3部1署体制となり、組織名も長官官房をはじめ、内務部、警察部、財務部、監獄署と、業務を示す名称へと変更された。
そして30年の勅令により、殖民部、臨時鉄道敷設部、土木部が新たに加わって6部1署体制が出来上がった。まだ自治法施行前で、北海道庁は国政の外局機関だったが、これによって、初めて土木行政は部長を頂点に頂く専門部を持ったのである。
しかしその後も、機構は目まぐるしく改正を重ねることになる。31年1月に土木部は一度、廃止され、34年に復活した。また38年には、長官官房以外の部局は、以前のように第1部、第2部といった組織名に戻され、土木部は第6部と位置づけられることになった。43年の機構改正で、再び土木部の名称が復活したが、昭和17年には拓殖部と合併して振興部になり、土木部という組織と組織名が本格的に定着したのは19年7月の機構改正からである。
そして、22年に地方自治法が施行され、北海道庁は地方自治体となり、現在の北海道庁となった。必然、土木部も自治体の一組織である。42年には北海道開発法の施行に伴い、政府機関としての北海道開発庁と、その出先機関である北海道開発局が設置され、北海道土木部から分離する形で職員の一部が充当された。これによって、北海道の土木行政は国策と自治体政策との2層体制が築き上げられることになった。
その土木部も、平成9年の機構改正により、建築行政を専管してきた住宅都市部と合併することになり、組織名は現在の建設部へと改正されて今日に至っている。
歴代北海道土木部長
前職 任命年月日 氏名 転退年月日 後職 備考
M30.11.5 坂本 俊健 M31.10.31 非職
長野県事務官 M43.4.1 西村 保吉 T2.6.13 拓殖部長
勧業部長 T2.6.13 橋本 正治 T4.8.12 内務部長
新潟県警察部長 T4.8.12 白男川 譲介 T8.4.19 奈良県内務部長
福井県敦賀郡長 T8.4.19 原田 維織 T11.9.27 福岡県内務部長
和歌山県内務部長 T11.9.27 稲葉 健之助 T12.10.6 帝都復興院理事
栃木県内務部長 T12.10.6 古宇田 晶 T13.12.20 廃官
栃木県内務部長 T12.10.6 古宇田 晶 T13.12.20 廃官
長崎県内務部長 T13.12.20 大森 吉五郎 T14.9.16 内務部長
長崎県内務部長 T13.12.20 大森 吉五郎 T14.9.16 内務部長
福岡県内務部長 T14.9.16 加勢 清雄 T15.9.28 宮崎県知事
福岡県内務部長 T14.9.16 加勢 清雄 T15.9.28 宮崎県知事
内務大臣官房都市計画課長 T15.9.28 篠原 英太郎 S2.5.17 山形県知事
内務大臣官房都市計画課長 T15.9.28 篠原 英太郎 S2.5.17 山形県知事
福岡県内務部長 S2.5.17 山中 恒三 S4.2.6 富山県知事
福岡県内務部長 S2.5.17 山中 恒三 S4.2.6 富山県知事
大阪府警察部長 S4.2.6 村井 八郎 S4.7.20
大阪府警察部長 S4.2.6 村井 八郎 S4.7.20
宮城県内務部長 S4.7.20 井野 次郎 S5.8.26 沖縄県知事
宮城県内務部長 S4.7.20 井野 次郎 S5.8.26 沖縄県知事
旅順民政署長 S5.8.27 西山 茂 S6.12.26 内務部長
旅順民政署長 S5.8.27 西山 茂 S6.12.26 内務部長
元鹿児島県内務部長 S6.12.26 植木 寿雄 S7.6.28 休職
元鹿児島県内務部長 S6.12.26 植木 寿雄 S7.6.28 休職
大分県内務部長 S7.6.28 畑山 四男美 S8.7.21 福岡県知事
大分県内務部長 S7.6.28 畑山 四男美 S8.7.21 福岡県知事
大阪府内務部長 S8.7.21 泊 武治 S10.1.15 高知県知事
大阪府内務部長 S8.7.21 泊 武治 S10.1.15 高知県知事
宮城県内務部長 S10.1.15 二見 直三 S11.4.22 滋賀県知事
宮城県内務部長 S10.1.15 二見 直三 S11.4.22 滋賀県知事
総務部長 S11.4.22 中村 忠充 S14.4.18
総務部長 S11.4.22 中村 忠充 S14.4.18
大阪府経済部長 S14.4.18 近藤 壤太郎 S15.4.9 滋賀県知事
大阪府経済部長 S14.4.18 近藤 壤太郎 S15.4.9 滋賀県知事
内務省振興部長 S15.4.9 今松 治郎 S15.10.15 和歌山県知事
内務省振興部長 S15.4.9 今松 治郎 S15.10.15 和歌山県知事
京都府学務部長 S15.10.15 鈴木 脩蔵 S17.6.15 岩手県知事
京都府学務部長 S15.10.15 鈴木 脩蔵 S17.6.15 岩手県知事
広島県総務部長 S17.6.15 石井 錦樹 S18.7.1 土木部長・振興部長
広島県総務部長 S17.6.15 石井 錦樹 S18.7.1 土木部長・振興部長
京都府経済部長 S18.7.1 石原 専一 S19.7.8 経済第二部長
京都府経済部長 S18.7.1 石原 専一 S19.7.8 経済第二部長
道庁勅任技師 S19.7.8 岩崎 雄治 S20.2.14 土木部長
道庁勅任技師 S19.7.8 岩崎 雄治 S20.2.14 土木部長
神奈川県土木部長 S20.2.14 宮崎 正夫 S21.12.27
神奈川県土木部長 S20.2.14 宮崎 正夫 S21.12.27
道路課長 S21.12.27 池田 一男 S26.7.1 北海道開発局長
道路課長 S21.12.27 池田 一男 S26.7.1 北海道開発局長
旭川土木現業所長 S26.7.1 田中 彦敏 S31.9.15
旭川土木現業所長 S26.7.1 田中 彦敏 S31.9.15
土木部次長 S31.9.15 三丁目 喜一朗 S34.4.22
土木部次長 S31.9.15 三丁目 喜一朗 S34.4.22
北海道開発庁地政課長 S34.6.6 三島 勇 S38.5.15
北海道開発庁地政課長 S34.6.6 三島 勇 S38.5.15
札幌開発建設部長 S38.5.16 高瀬 正 S40.4.5 総務部付
札幌開発建設部長 S38.5.16 高瀬 正 S40.4.5 総務部付
土木部次長 S40.4.5 中村 稔 S43.3.30 退職
土木部次長 S40.4.5 中村 稔 S43.3.30 退職
道路課長 S43.4.1 小寺 一阜 S47.4.5 退職
道路課長 S43.4.1 小寺 一阜 S47.4.5 退職
土木部技監 S47.4.5 本間 四郎 S50.5.21 退職
土木部技監 S47.4.5 本間 四郎 S50.5.21 退職
土木部技監 S50.5.21 小野 中 S54.5.18 退職
土木部技監 S50.5.21 小野 中 S54.5.18 退職
土木部技監 S54.5.19 村田 孝雄 S58 退職
土木部技監 S54.5.19 村田 孝雄 S58 退職
札幌土木現業所長 S58 稲葉 壽夫 S59 退職
札幌土木現業所長 S58 稲葉 壽夫 S59 退職
土木部技監 S59 大屋 満夫 S62 退職
土木部技監 S59 大屋 満夫 S62 退職
留萌支庁長 S62 齋藤 省吾 H1 退職
留萌支庁長 S62 齋藤 省吾 H1 退職
後志支庁長 H1 伊藤 蔵吉 H3 退職
後志支庁長 H1 伊藤 蔵吉 H3 退職
留萌支庁長 H3 品川 忠豁 H5 退職
留萌支庁長 H3 品川 忠豁 H5 退職
日高支庁長 H5 鵜束 淑朗 H6 退職
日高支庁長 H5 鵜束 淑朗 H6 退職
空知支庁長 H6 細川 秀人 H7 退職
空知支庁長 H6 細川 秀人 H7 退職
網走支庁長 H7 菊地 昭憲 H9 退職
網走支庁長 H7 菊地 昭憲 H9 退職
後志支庁長 H9 尾形 浩 (建設部長)

道路、河川、港湾、漁港整備100年の歩み

明治初年の札樽道路の状況 昭和10年頃の札樽国道
軍事施設でもあった幹線道路
本道の道路は、開拓当初は海岸沿いに小道があるだけで、所によっては道路が分断され、その区間は波の静かな時期を選んで岩場を伝って通るといった状況だった。また内陸部でも、木古内-上ノ国間に横断道路として山道が開墾されている程度で、ほとんどは生活上の必要に伴ってできた踏み分け道路や壇信徒の通行のために宗教団体が開削したもの、または物流手段を確保するために民間企業が自力で開削したものくらいしかなかった。
だが、ロシアによる北海道侵攻の可能性が高まったことで、日露関係の緊張度が増し、このため国防上の理由から早急な道路網整備の必要性が高まってきた。
このため札幌-函館間、札幌-千歳-室蘭間、網走-釧路間、網走-忠別間などの道路が幕府によって整備され、明治34年には、当時の園田安賢北海道庁長官の立案で十年計画がスタートし、これらの改修や、新設道路の開墾などが精力的に着手された。ところが日露戦争の勃発で、事業の延期、繰り延べを余儀なくされ、工法もレベルダウンせざるを得なくなり、道路整備は簡易道路の開設に止められた。
そこで、日露戦争が終結してから第一期拓殖計画を策定し、改めて本格的に実施することになった。これに基づき、殖民区画地や未開発地の幹線道路建設、鉄道、港湾との連絡道路の整備にとりかかった。また、前十年計画で実現できなかった35本の橋梁建設にも着手する他、簡易道路として応急的なものでしかなかった既設道路の、本格的な改修工事も計画された。
とはいえ折からの不況による財源不足は深刻で、達成率は計画の70%程度に止まった。このため大正6年に計画変更し、計画最終年度を2ヶ年延期して、事業費の増額と同時に工程の簡素化を図ってコスト縮減に努めた。
この結果、道路新設は約5,800キロ、道路改修は約10万6,800キロ、橋梁2,400本に上った。
こうしてできた国道、地方幹線道路は今日のように単なる物流基盤だけでなく、軍事施設としての役割も持っていた。
治水事業によって初めて実現した北海道特例
開拓当初の河川は、ほとんどが改修も行われないまま放置された状態で、札幌村、篠路村、元村などの村民の飲料水と水田用水として利用される程度のものだった。治水事業らしき整備が行われ始めたのは、明治3年頃からで、豊平川の流量調節のために創成川が改修されたり、石狩煤田の開発のために石狩川が改修されたりしていた。
だが、ほとんどの河川は、川筋が複雑に曲折しているにも関わらず改修の手は入らなかったため、氾濫が頻発していた。一方では山林、農地の開拓が進んできていた情勢もあって、被害の度は増していった。
そのため、ようやく築堤、浚渫、堀割工事などに着手された。とはいえ、目的は応急処置でしかなく、本格的な治水事業としての河川整備が行われ始めたのは、明治30年に土木部が設置されてからのことである。
度重なる洪水被害を重く見た道庁は、31年10月に治水調査会を設置。一方、民間組織としても石狩治水同盟を組織して、河川に関する調査を行うと同時に、衆議院と貴族院に請願して調査費を確保した。
この結果、十年計画の一環として石狩、千歳、空知、雨竜、美瑛、忠別、十勝、釧路、留萌、後志川など、全道17河川に関する調査が実施された。これに基づき、流木の堆積によって氾濫などを起こしている石狩、十勝、留萌、後志、網走川などを整備したが、財政難がその進捗を阻んだのは、道路整備と同一である。
43年の第一期拓殖計画では、治水事業の徹底を図ることを方針とし、「組織的な治水工事は、石狩川に重点的に行い、これを拡張する」、「他の重要河川には応急的治水工事を施す」、「河川に関する基本調査を行って、迅速に工事設計を行う」、「河畔での開墾を防止する一方、河川流水の障害を取り除き、堤防を整備して管理する」といった基本方針が明記された。
これに基づき、河川管理者の業務は河川の調査、監視、浚渫、護岸整備、堤防敷地整理、そして石狩川の治水整備と規定された。一方、財源不足の影響はなおも深刻で、大正6年の計画改訂では計画年限を2ヶ年延長し、河川調査結果に基づいて総事業費を当初の計画よりも増額せざるを得なかった。
ただ、後の第一次大戦に伴う特需景気は国家財政を潤し、河川整備費も大幅に増額されたことで、治水事業は大いに進展し、第一期拓殖計画は大きな成果を収めた。
その一方では、山林・原野の開拓も急速に進展していたため、治水事業の進展が追いつかないという状況だった。このため、昭和2年から20ヶ年計画の第二期拓殖計画をスタートさせ、道内重要河川・26河川について応急処置、維持改修、浚渫、調査、監視に当たるほか、石狩川を除く13河川について治水事業計画を策定。石狩川については、水系5河川を事業対象として新規に追加した。
ところで、この当時の重要河川は、まだ河川法の適用外であったため国費補助の対象とされなかった。だが、昭和9年の一部改正により、石狩川をはじめとする15河川がその指定を受け、いわゆる北海道特例がこの時、初めて認められることになったのである。
港湾は防波堤整備を最優先
開拓当初から北海道は、奥羽地方、北陸道とは水運で結ばれ、また京阪地方との海運交通も行われていた。特に松前-大阪間の海運は頻繁に行われ、顕著に発達していった。もとより今日のような海底トンネルのない時代では、唯一船舶だけが本州との交通手段だったのである。
しかし、当時はまだ航海の安全性も低く、日数もかかったため、わずかな距離の航海でも時間を要し、しかも命がけで乗組員も船客もかなりの覚悟を必要とした。このため、航海の安全性向上と航海時間の短縮は、船舶、港湾整備の至上命題であった。
特に船舶について、当時の開拓使庁は難破率の高い和船の建造を禁じ、徐々に西洋式船舶に転換していった。一方、北海道沿岸の地形は比較的単調で開発に適していたことから、着実に築港その他の港湾施設の整備を進めていった。
北海道庁による十年計画では、特に航路数の多い函館、小樽港に重点投資を行うこととし、後の第一期拓殖計画では補助航路の新設、整理統合を押し進めた。
後に第一次大戦の勃発で、海運輸送費の暴騰による収益の増加が期待されたが、現実には従来の50%程度の上昇に止まった。とはいえ、輸送会社や港湾関係者らに相応の利益をもたらしたのは事実である。また郵便の発達によって定期便の航路も新設されるなど、海運は着実な発展を遂げていった。このように、海運に関しては一時的に凶作、凶漁による影響はあるものの、全般には順風満帆で航路数も往復する船舶数も、取扱量もともに増加していった。
こうした情勢を背景に港湾整備の必要性は、必然的に高まっていった。しかし、当初は江差、小樽、室蘭、根室港で埋立や埠頭整備などが行われていたが、規模は小さく十分とはいえなかった。
そこで明治26年に北垣国道北海道庁長官は、12ヶ年計画を策定して、函館港や小樽港をはじめ11港湾の修築を実行しようとした。残念ながら、完全実施には至らなかったが、それらの事業は34年にスタートした十年計画に引き継がれた。
十年計画では、小樽港の築港だけでなく、道内主要港湾の築港事業に関する基本調査に基づき、さらに地形や深度、波力、潮流などの調査が実施された。だが、十年計画においてもなお、築港事業は思ったほどの進展が見られなかった。
そこで、その後にスタートした第一期拓殖計画では、港湾の地形や後背地の生産力、消費力を踏まえた上で、函館、小樽、室蘭、釧路、網走、稚内、根室港を商港に指定して修築に着手。海難非難地となる泊地の整備に当たっては、防波堤の整備を優先させて、陸海間の連絡施設整備は二の次とした。
第二期拓殖計画では、前計画から引き継いだ室蘭、釧路、留萌、網走、稚内港の整備を継続し、すでに第一期整備の終了した函館、小樽、根室港については、港勢に応じた拡張工事を施した。
漁港整備費の節減で全計画を完遂
漁港は、漁業基地ではありながらも遠洋漁業を支えるに足るだけの規模ではなく、沖合の水産資源を十分に利用することが出来ない状況にあった。
そこで、大正8年度から岩内、江差、浦河、沓形、紋別漁港の築設を計画。そのうち函館、小樽、根室、岩内、沓形漁港は、昭和元年までに整備が完了した。そして第二期拓殖計画によって、残る浦河、江差、紋別漁港の整備を完了させ、新たに余市、広尾、天売漁港の3港を追加した。
もちろん、財源不足の影響は漁港整備においても例外ではなかったが、事業費の節減や事業の繰り延べなどによって必要な事業費は確保された。
かくしてこと漁港に関しては、長期計画に計上された漁港はもとより、市町村所管の小規模漁港についても計画通りの整備は完了した。 

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