建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2016年9月号〉

 インタビュー 豊松吉工業株式会社 堀有紀社長

北海道職員の父と一緒に全道各地の土木現業所の官舎で育つ

社会資本の整備に力を注いで「豊な未来に貢献」


 豊松吉工業株式会社 代表取締役社長
堀 有紀
 昭和40年7月12日生
 昭和53年3月 札幌市立澄川西小学校 卒業
 昭和56年3月 札幌市立澄川中学校 卒業
 昭和59年3月 札幌市立平岸高等学校 卒業
 昭和63年3月 日本大学生産工学部 土木工学科 卒業
 平成3年4月1日 鞄V商 入社
 平成3年4月8日 旧松吉工業梶@取締役就任
 平成7年3月16日 北海道キング設計梶@取締役就任
 平成7年10月19日 鞄V商 取締役就任
 平成8年1月5日 旧豊建設工業梶@取締役就任
 平成13年4月1日 豊松吉工業梶A松吉工業轄併
 平成15年3月31日 豊松吉工業梶@代表取締役専務就任
 平成21年7月1日 鞄V商 取締役辞任
 平成23年12月1日 兜x士高通商 取締役就任
 平成25年3月25日 北海道キング設計梶@取締役辞任
 平成25年4月1日 兜x士高通商 代表取締役社長就任
 平成28年6月1日 豊松吉工業梶@代表取締役社長就任
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── この6月に社長に就任されましたが、今後の運営に向けての方針などをお聞きしたい
 私の父・堀典昭(創業者)が長く北海道土木部に勤務し、昭和50年に退官しましたが、私は幼少期からその姿を見て育ちました。後に大学を卒業した後には、父からは「土木の道へは進まないか」との問いかけもありました。土木現業所に勤務していた当時は、よく工事現場にも連れて行かれたりしたものです。技術部長や所長だった頃には、隣が官舎で近かったこともあって、土木の現場に限らず、土木現業所を多くの施工業者が訪問する情景に接してきました。  私自身は土木を学びましたが、個人的には土木に限らず、様々な分野に好奇心が旺盛だったので、外国へ渡ってみたいと思っていました。親は反対はしませんでしたが、出発するまでは、やはり「土木の道へ進まないのか」、「現業所の採用試験でも受けないか」と言われていました。採用試験は受けませんでしたが、出発日までの間に現業所のアルバイトを経験することとなりました。札幌市西区の札幌土木現業所事業課の現場で、長靴を履いて河川の測量に従事したものです。まだIT化は進んでいない時代のことで、私の自宅にはドラフターがあったので、それで図面を作成したものでした。そして、3年間は海外で過ごしたのです。  そうした経験の蓄積を以て、この会社を見ると、その規模からして急激な変化を求めることは無理だと感じています。先代からは、まずは本業の「土木」を大切にすること。異業種については、たとえ同じ建設業であっても建築などには手を出すなと教えられてきたので、この基本スタンスは守っていきたいと考えています。
── バブル期に差し掛かる頃ですから、建築投資もかなり増えていた時代でしたね
 周辺の企業の社長達も、いろんな分野に進出していましたが、私の親はそうした異分野で得た収入は泡銭でしかないと否定的でした。そうした父の教訓は、強く生きています。なので、極端な方向転換は図りたくないというのが基本です。まずは人を大事にし、裏切ることはしないということです。
── 父が道職員なので、全道を異動したものと思いますが、出生地は
 生まれは稚内市です。その時に、先代は建設課長でした。その後は函館へ転勤となり、そして帯広、札幌、再び函館へ所長として赴任しました。まだ46歳くらいの時だったので、本人の意思で退官したのです。
── 異動も多かったのでは
 私は札幌では平岸西小に半年ほど入学していましたが、函館への転勤で金堀小へ転校しました。その後は、官舎が松蔭町に移転したので柏野小へ転校し、最後はまた札幌の澄川西小で卒業しました。4回も学校が変わったことになります。  しかし、そうした経験のお陰で、環境を変えてどこに行くのも苦痛は感じることはなく、外国へ移住することを考えたのも、そのためです。親はともに自由放任主義で、干渉することがなく「勉強してもしなくても、困るのはお前自身だから」と言われてきましたが、転校を繰り返せば、いじめの一つも遭いそうですが、そういうこともなく過ごせたことも大きいでしょう。  豊松吉工業は、当初の社名は豊建設工業で、社員が豊になることを願って命名されましたが、企業として、納税しながら社会貢献するのは当然ですが、まずは社員を大事にすることが基本理念です。私は弱い者いじめが大嫌いな性格ですが、これまで先輩、後輩に恵まれ、大切にしてきてもらったので、会社としても社内コミュニケーションを大切にし、調子の悪い人には声を掛けて気遣うなど、風通しが良く、働きやすい環境を提供していくことを経営の基本にしたいと考えています。
── 昭和50年〜60年代は、いかついタイプの職人もいたのでは
 そういう人こそ、丁重に扱ってくれたりしました。私自身も人付き合いの心得は身に付いているので、やっていけると確信しています。
── 業務上、様々な工事現場を見てきたと思いますが、思い出深かったところはありますか
 父が札幌土木現業所に勤務していたときに、札幌五輪の整備した高速道路の現場写真などは、思い出深いですね。当時の話はよく聞かされましたが、土現としては南区真駒内本町に歩道橋を架けたのですが、施工にミスが見つかって大騒ぎになっていました。それでも父は施工会社を叱責することなく、むしろ気遣っていたものです。最終段階で対処できれば十分。  そうした気性ですから、この会社を興して独立した時も、いろいろな人に支えられ、助けられて、ここまで来られたのだと思います。
── インフラ整備に馴染んで育ったのですね
 そういう環境だったということですね。しかし、大学時代は大変でした。私は日本大学生産工学部に進学し、構造計算や擁壁工などの設計を学びましたが、とかく学生は時間があって余裕があると思われがちです。しかし、私たちの学部は遊ぶ時間もないほどでした。むしろ、卒業して社会人になってからの方が、余裕ができました。研究室に在籍したものの、様々な講義の中でも私は測量が最も苦手でした。  4人で大学の周辺を測量し、簡易図面を作成するまでは終了しない実技講習がありましたが、路上駐車が移動するまでは作業ができず、測量そのものに苦手意識があったので、この道は無理だと予感しました。  当時の日大生は、全国各地から、建設会社を経営している家庭に育った裕福な学生が多かったのです。家が建築会社を経営していながら、土木科に在籍している学生もいました。現在は年に一度か二度は日大に行きますが、近年は逆に家業が建設会社という学生の方が少なくなりました。しかも、かつては全国から学生が集まっていましたが、近年の傾向は関東圏在住の学生が多くなっています。家業は建設業ではないけれども技術を学び、手に職をつけようと考えて志望する人が多く、それでいて就職は建設業ではなく、地元の県庁など公務員志望が多いようです。  そして北海道出身の学生がいないか、学部へ確認してみると、1学年300人のうち1人か2人しかいないのです。その一人は北海道開発局へ就職しました。こうした状況ですから、民間企業にまで斡旋できる学生がいないというわけです。専門教育をする学校が減った分、学生も競争率は落ちましたが、それだけ学生数自体が少ないということです。
平班橋

── これまでは日大出身の北海道での経営者は多く見られましたが、今後は減少していくのでしょうか
 日大出身の経営者は、道内ランキングでも上位にありますが、今後は減っていってそう遠くない将来には上位にも入らなくなるだろうと思います。
── 技術者も行政職OBの臨時職員で補充するしかない情勢ですか
 まさにアルバイト要員の確保ですね。振り返れば、私の母も北海道庁の臨時職員で、母の祖父も北海道開発局で機械担当の部署に在籍していたそうです。このように親族は行政関係者が多かったので、縁が深いですね。
── 現業所のアルバイトをへてから渡航したとのことですが、訪問先は
 カナダのバンクーバーです。期間は昭和63年冬から約2年半です。
── 家業はかなり多忙を極めたのでは
 本当は帰国したくなかったのですが、さすがに家からは帰るよう言われたので、帰国しました。とはいえ、当時は社屋は自宅の隣のプレハブで、少人数で家族的だったので、スタッフとは高校時代から面識はあったのです。終業時になると、車も少なかった時代なので、みな道路に出て野球の練習やバドミントンをしたり、洗車を手伝ったりしていたので、抵抗なくスムーズなムードで入社できました。
── 平成7年頃までは公共事業も増えていったのでは
 最初は、土木用資材の販売会社の天商(堀グループ)に平成3年に入社、豊松吉工業には平成8年に取締役に就任しました。技術者が集まって施工検討会などを行いますが、最新の技術はさすがに難しく、技術用語も私たちが学んだ頃からは変化しているので、理解するのが大変です。最新の測量器械などは、もう扱えないですね。  だから、工事検定に臨んだ時などは、発注者の行政官が顔馴染みの人ばかりなので、ちょっとした意地悪をされます(笑)。最新鋭の測量器械を前にして「堀くん、ちょっと覗いて見てくれ」と言うのです。「とてもできません」と、尻込みをすると、「本当に大学を出たのか」などとアイロニー(皮肉)が飛び出すので、「出ていないかも知れませんよ」といった問答になったりします(笑)
美唄浦臼線美浦大橋新設(上部工) 架設状況

── 社長といえば、技術職のトップとのイメージがありますが、実際には社員の方が最新技術に通じているのですか
 さすがに、現場でも経理事務でもそうですが、実際に実務に携わる人には敵いません。したがって、私はそうした職能を尊重しつつ、最終判断を下すことが私の仕事なのだと考えています。
── 技術は日進月歩ですから、一人で追従していたのは際限がないですね。ところで、この1月を以て、創業40年を迎えましたが、創業者の人となりをお聞きしたい
 私の父は、私にだけは厳しかったですね。自由放任主義の一面もありましたが、意外と手厳しいことも言われました。現場についても「なぜ、この程度のことができないのか」と苛立ち、「お前から現場に注意しろ」と言っていたこともありましたが、私は磊落な気性ですから「仕方ないのでは」と宥めることもありました。ともかく生真面目な人で、それが厳しさとなっていました。  それでも「分かっている人間に任せておけ」と、スタッフを全面的に信頼する一面もありました。
── 現在は、全国の橋梁が10年後には老朽化が進むと予測されています。そのため、対策が急がれます、市町村では技術者の不足が不安材料となっています。橋梁土木を専門としてきた会社として、どう考えますか
 私たちは確かに橋梁を得意分野としていますが、土木工事の中での架橋という施工が、松吉工業の時代から得意だったので、この分野は大切にしていきたいと考えています、メタル橋は得意でも、PC橋は難しいといった限界もあるので、架橋という一分野は確保しつつ、豊建設は山の法面、落石ネットなど山間部の工事で伸びたので、橋梁工事に限らず治山・治水工事も扱うというスタンスで行きたいと考えています。  ただ、ライバルには大規模の会社もあるので、生き残るためには少数精鋭ながらどうするかを吟味していく必要があると思います。
── 概括的には、どの会社もベテランの技術者が高齢化で退職する一方、新人確保に難儀をしていて、人材にアンバランスが生じていると言われます
 確かに次世代への技術の継承が必要ですが、技術だけでなく、生き方、社会におけるマナーなどを引き継ぐことも至極大切なことだと思うのです。以前は技術者が高齢化しても、しばらくは現場に立てましたが、近年はIT化の進展で、ベテランでも追いつかないのは、無理もないことです。
── 優秀な技術者の確保が、やはり決め手となるのでは
 新人を確保するに当たっては、建設業界のイメージアップを図り、技術を引き継いだ上で辞められることがないようにと、企業としての努力はしているのです。しかし、現実は実態とあまりにかけ離れているので、少しでも乖離を圧縮する方向で取り組んでいます。
望月寒川

── そのために福利厚生を再構築した行動計画を策定したのですね
 人の暮らしには、収入は不可欠ですが、時間の自由度というものも必要でしょう。だから、少しでも休暇を与えてやりたいと思いました。私たちは50人弱程度の会社ですから、それほど難しくはないと思います。取引先の諸官庁の都合など、周辺環境とのかねあいもありますが、時間の自由度を持たせて少しでも休息を与えてやりたいと思います。
── ゆとりが出来れば、子育てに参加する余裕もできますね
 社員の夫人達を見方につけたいという考えもあります。「あなたの会社は良い会社なのだから」と、社員であるご亭主を諫めてくれるように、女性達や社員の家族などを見方にしたいと思います。
── 建設産業の魅力というものを、改めてどのように捉えていますか
 技術者としては、現場で施工した成果品に、自分が作ったものとしてのプライドを持ち、家族にも自慢できるところにあると思います。ただ不可視部分の少ない建築と違って、土木の場合は土に埋もれて見えなくなってしまうのが残念ですが、そこをプライドを以て臨んで欲しいと思います。
白鳥大橋

── その意味で、プライドを以て自慢できる橋梁はどれでしょうか
 芦別市と赤平市を結ぶ平班橋は、札幌建設管理部発注でよく見に行きました。個人的には、海に架かる橋が好みですが、当社の規模ではどうしても河川橋の工事ばかりとなります。室蘭市の白鳥大橋では、下部工事の下請けとして携わりましたが、私自身は管理する立場だったので、現場にはなかなか行けませんでした。いつかは海上橋を施工できるようになればいいな、と希望を抱いています。  今後、北海道新幹線が札幌へ延伸されるようになれば、大手施工会社のサブとして、現場に入れたら、と思います。もちろん、技術面での対応はできます。会社の規模は小さくても、見所のある若い技術者もいます。  ただ、分野が偏らないように配慮はしています。今日は総合評価方式が採用されているので、昨年、札幌市の工事を担当した職員は、今年は道を担当したり、開発局を担当するなど、一つの分野に偏らないようにローテーションしたいところです。たとえ本人には不得意であっても、河川改修の現場を担当させるなど、なるべく工夫していますが、今日の発注方式であれば、それも容易ではありません。  当社の後藤常務とも話し合ったりしますが、事務屋、技術屋の垣根を越えて、双方の気持ちを理解し合うことが必要なので、たとえ技術職であっても、上層部に立つ者は1年でも2年でもいいから、総務担当部署に在籍し、逆に総務担当の事務職はきつくても一時的に現場に出るなどの人事交流が理想だと思っています。  私自身が、営業職も好きだったので、海外では服飾関係やスポーツ用品店の販売の経験もあります。やはりいろいろな世界を知っていれば、必ず何かの役には立ちます。土木の世界も同様です。
── グループ企業間で、そうしたローテーションは可能では
 実行したいところですが、同じグループといえども、行きたがらない人もいるし、人手が足りなくて出向させられないといった事情もあります。本人の希望もあるので、強引には実行していません。  この業界は、特に内弁慶で真面目な人が多く、部外者と交流して情報収集するのが不得意な人が多いので、その点でアドヴァイスして、生きていくための糧を伝授してやりたいと思うのです。  最近は会議の場でも、飲み会の席でもゆとり世代への批判が出たり、懐古的な話題が出ますが、個人的には好まない話題です。それは時代によって異なるし、私も幼少期は大人に疑問を感じることもありましたが、先人の蓄積とその時代の手法をミックスして実践できる人は、特に土木においては少ないものです。
── 公共事業のほとんどは土木であり、そこには国土強靱化や、IT導入など、様々な要請があります。そうした土木の多様性や特殊性と魅力を、事業者にはもっと的確に発信してほしいところですね
 それは痛感します。その点を適切に実行すれば、土木でも建築でも優れた知恵を発揮すると思います。その意味でも勿体ないですね。
(株)橋梁サービス・橋梁点検

── やはり人材確保は、困難ですか
 昨年も日大で学生の斡旋を依頼しようとしたものの、無理と言われました。私が訪ねるより以前に、開発局からも問い合わせが遭ったとのことで、官庁でも人材は札幌市が有力で、人員確保に苦労をしている様子が伺われます。
── 人材確保に向けての、独自の戦略はありますか
 毎年、2人ずつくらいは最低でも採用したいと考えています。極端に増やす考えはありませんが、豊松吉工業が50人、北海道キング設計、天商を合わせて100人弱くらいですが、それくらいの規模で管理するのが、私の限界だと感じます。それ以上になると、目が届かなくなり、内情が分からなくなる不安があります。  私はいろいろなフロアに出て、社員と雑談をするのが好きで、そうしたコミュニケーションを通して社員の名前や誕生日などを覚えたり、家族構成を把握して家庭の事情を聞いたりするのが好きなので、あまり社員が増えすぎると手が回らなくなると感じるので、現況の規模で行こうと思っています。

── 道路法改正を受けて平成26年7月より、道路管理者は全ての橋梁、トンネル等の点検・診断をすることになりました。市町村の技術者不足が問題になっています、土木技術の有資格者を抱える堀グループの今後の取り組みについて
 当社の橋梁工事の技術力は、官民問わず高い評価をいただいております。 近年は、高度経済成長期に建設された橋梁などは劣化が進み、維持補修の時期をむかえています。 そうした維持補修における公共事業の必要性は高いものです。 平成27年2月に葛エ梁サービスを新規に設立しました。豊松吉工業で培ったノウハウを十分に生かした、橋梁実施設計、橋梁補修実施設計等の履行実績があり、点検車を導入、オフィスは南区石山です。まだ体制は6名人体制です。  私たち豊松吉工業は、道内各地で公共土木工事に携わっております。  建設業界は、技術力を厳しく問われる時代になりました。私たちは「豊な未来に貢献する」という経営理念のもと、これらの公共事業にも目を向け、 地域の人々が安全で安心して利用できる社会資本の整備に力を注いでいきたいと考えています。  時代とともに変化する社会のニーズに応え発展する企業を目指します。

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