建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2014年3月号〉


雪氷貯蔵「勇知いも」を原料にした稚内「激レアグルメ」が続々誕生

――幻のブランドで果物並の甘さを誇るスイーツの材料に全国から注目
北海道知事表彰(2013年度新分野進出優良企業)を受賞

 太平洋設備株式会社 代表取締役社長
 釧路市管工事業協同組合 理事長
 釧路市管設備事業協会 会長
 釧根空調衛生工事業協会 会長
 小坂 典行
─― 太平洋設備(株)設立の来歴から伺います
小坂 設立は昭和42年で、太平洋炭鉱の施設工事を一手に引き受けていた北拓設備工業の施設課が独立したものです。したがって、当初は太平洋炭鉱の坑内施設や社員住宅の設備施工のほか、太平洋炭鉱は学校、病院、武道館からプールなどの娯楽施設に至るまで、あらゆる施設を保有していたので、それらの施工・管理を担当していました。一方、炭坑の斜陽化が進んでいた時代でもあり、企業として独立する必要もありました。
─― それで公共事業にも進出したのですね
小坂 太平洋炭鉱からの受注が減少してきたこともあり、釧路市の公共工事を皮切りに道や国の直轄工事にも進出しました。ピーク時には、官工事が80%を占め、残る20%が炭坑関連の工事という比率になりました。
 当時の社会的なインフラの拡大に合わせて、実績も伸張していった感じです。
─― ゼネコンの協力施工においても、かなり実績を残してきましたね
小坂 民間工事では、ゼネコンやサブコンの受注工事が多かったものです。民間工事は見積もりが厳しいものがありますが、そこで揉まれたことで、企業経営の足腰が鍛えられた側面もあります。
 また、当社の独立以来のビジョンとしては「道東一」を目指すことにありましたので、そこで優れた技術を学ばせてもらう好機ともなりました。特にゼネコンの場合は、かなり高度な技術を要求され、また安全管理もかなり厳しいものがあり、地場ゼネコンとは比較にならないレベルでした。
施設施工(釧路商業高校)
─― 社長の略歴を伺いたい
小坂 私は昭和18年生まれの小樽出身で、70歳になりました。39年に北見工業短期大学を卒業し、日立の系列の日協設備へ配属されました。40年頃から、毎年1,000円ずつベースアップしていた時代です。
 その後は内外設備工業へ転職しましたが、私が前職にいた時の様子を知る人が太平洋設備に職工として出向しており、札幌市内で偶然にもお会いする機会がありました。その時に、技術者が足りなくて困っているので、来てくれないかとのことでした。私は小樽市に居を構えていたので、とても無理と断ったのですが、会社ではナンバー2の地位にある加藤常務が、私の出社後に家内の元に日参して「何とか説得してほしい」と懇願していたようで、「何とか考えてあげないと」と言われるようになりまして。元から私自身も、いずれは独立したいとの希望を持っていたので、3年くらいは手伝おうかと考え、要請に応じることにしたのです。
 最初は札幌営業所に配属されましたが、釧路市で8階建ての市営住宅の施工を担当したのが切っ掛けとなり、釧路に根を下ろすことになりました。
─― 印象に残る現場となったのでは
小坂 それが完成した後に、寒波でマイナス20度以下という真冬日が1週間以上も続いたことがありました。そのため、水道水を下の水道タンクから屋上タンクへ吸い上げる送水管が凍結してしまいました。しかも8階建で風当たりも強いので、建物全体が冷えて各世帯内の水道管までも凍結してしまったのです。そのため、各戸の玄関が並ぶ廊下は窓のないオープン型でしたが、窓を付設することにしたのです。
 小樽や札幌にある8階建てマンションと同じ構造で建設したのですが、寒さの桁が違いすぎて、完成した後になってから苦労することになりました。自然の威力は想像を絶します。これを機に、釧路ではすべてその構造で、市営住宅は一つの叩き台としてモデルケースになったようなものです。
─― 現職の社長就任はいつでしたか
小坂 平成11年の就任です。バブルが弾けた直後ですから、嵌められたような感じですね(笑)。平成10年にバブルの余韻があり、当社の最高受注高は29億円でした。目標は30億円としていたので、もう少しで手が届くところだったのですが、私が就任した11年から急激に受注高は落ちたのです。発注者側の行革が始まったこともあり、以後は毎年、1割弱の減少となっていったのです。
 そして、平成14年は太平洋炭鉱が閉山しました。これによって、親会社である太平洋興発からは、太平洋設備を売却すると言われました。やむなく社員を集めて事情を説明しました。みな辞職するか、身売りするかの選択を迫られましたが、買収されなければ会社そのものが消滅です。社員の意向は、事業継続でした。そこで会社存続のために、自社株を買おうと考えたのです。当時は株価総額は2,000万円くらいでしたが、当時の拓銀総研によると、3億2,000万円くらいの価値があるとのことです。そんな金額では、とても個人では手が出ません。そこでその半分であれば、社員一同みな買う努力をするので、ということで総株数の51%である1億6,000万円を保有し、残りは5%ずつを各銀行で保有してもらうように依頼しました。

土木施工(泉川1号)

 一方、太平洋建設工業も同じ状況にあったので、等価交換で25%分の株の相互持ち合いをすることにしました。したがって、銀行と太平洋建設とで48%となりました。そして52%は社員の分担と私個人の名義による銀行融資で確保しました。ただし、負担比率は私も社員も全員均等としました。みんなの会社であり、全員が社長のようなもので、経営体制としては珍しい形でしょう。しかし、これで社員の愛社精神は高まったでしょう。
 しかし、その後も公共事業はまだまだ低迷し、平成16、17年辺りは最悪で、現在の会社規模では大変だと感じました。受注業務に比して職員数が多かったので、規模縮小の必要は感じ、社内会議でもそのことは伝えました。それで16年に退職金上乗せの好条件で20人くらいの希望退職者を募りましたが、一人も希望者はいませんでした。
 そのため、かなり辛い決断でしたが、やむなく指名解雇に至りました。その代わり、退職金は3ヶ月分を上乗せし、独立する人は資本協力するという条件です。このように会社としてもずいぶんと血を流しました。
 だから、存続する社員に話したのは、退職する人も血を流し、会社側も血を流さなければならないのだから、現職として残る社員も給与を下げて血を流そうということでした。その翌年から、V字回復に向かいました。
─― 釧路市も人口減で民間需要も見込めなかったでしょう
小坂 釧路市は毎年、2,000人ずつ減少していました。炭坑が閉山する以前は、年間に2,500人から3,000人が勤めたのです。私たちの仕事は人が相手ですから、人口の減少は直接影響しますが、それを想定しないまま体制を維持していたのです。それでも、市内では早期に人員整理に着手したので、やってこれたと思います。その効果がいま現れ、ある程度の内部留保もでき、資本比率も上がり、盤石な体制となっています。


アクアベール(外観)

─― それによって、新分野にも乗り出しましたね
小坂 14年の炭坑閉山の時から考えていました。このままでは建設業もじり貧になると分かっていたのでアイデアを募ったら、いろいろと発案はあったのですが、経費がかかりすぎて採算が合わず、スタートできませんでした。
 しかし、平成20年に釧路日商連が60億円の負債で倒産しました。関連の宴会場「アクアベール」関係者は残された従業員の行く末を心配し、事業と従業員を丸ごと引き受けてくれるところがないかと悩んでいました。一方、私は新分野への進出はすでに宣言していましたので、即断しました。そして、帳簿は大雑把な内容でしたが、それを見ながら、これは大化けするかもしれないと予感し決裁しました。そして、多目的ホール「アクアベール」の運営に乗り出しました。
─― どのように取り組みましたか
小坂 1年間は従業員に対してお客様第一の精神を教え込みました。例えば、宴会が行われた後に、料理が余ったのはなぜか。量が多すぎたのか、不味かったから余ったのか、そこを追究しなければなりません。
 料理の食材は、遠方で獲れた高級食材ばかりを使用していますが、冷凍してあるので新鮮ではなく、味が良いはずはありません。そこで、近郊のものに限定するように変更しました。そして、新しい料理を考案し、役員らで試食して検討しながらメニューを決めていきました。
 その結果、価格はリーズナブルで美味との口コミが広がり、お陰で1億3,600万円くらいの売り上げだったのが1億8,000万円に上昇し、今年はさらに増加する勢いになりました。たぶん2億円くらいまでは伸びる余力はあるものと思います。採算ラインは1億5,000万円くらいですから、黒字転換したと言えます。お陰で、若い女性向けのイタリアンレストランも新たにオープンしました。
 そして、一昨年の7月からはLED事業部を立ち上げ、中国工場と提携しています。昨年3月までの間に、2億円相当のLEDを出しました。電気代はどんどん上がっていくので、コストダウンは有利だと思います。「コーチャンフォー」の店舗設備を太平洋設備で手がけました。
─― 設備施工の対象が拡大しましたね
小坂 私の企業理念は老舗として永続する100年企業を目指そう、ということですから、そのためには本業に拘らず、何をしても良いと考えています。
─― 釧路市管工事業協同組合の代表理事を務めていますが
小坂 同組合は平成4年の設立で、給排水工事を行う事業者(組合員)が、給排水設備等の修理及び保守事務を行っています。釧路市と、大規模災害時における応急給水、応急復旧による水道機能の早期復旧など、防災協定を結んでいます。
 また、釧路選出の伊東良孝衆議院議員に同組合顧問になっていただきました。昨年発足した自民党水道事業促進議員連盟の北海道世話人も兼ねています。


LED事業(コーチャンフォー旭川店)

─― 釧路は震災を経験していますが、水道施設を含めライフラインなどは大きな影響を受けると思いますが、東日本大震災の時は、市内の様子はどうでしたか
小坂 東日本大震災の時は、釧路市が震度5くらいの地震がありました、釧路市管工事業協同組合の関係者は全員が組合事務所に一度集結、すぐにその場で応援に乗り出す準備に取りかかりました。
 災害時は、まず自主的にメンバーが組合に集結し、そこで市から要請が入りますが、釧路市内が非常事態ですから、まずは地元対策をしなければならず、私たちも給水車で出動しました。
 それでも、東北には応援隊を出す考えはあったので、班の役割分担を決めたり、初動は迅速だったのですが、日本水道連盟の出動要請がなければ出発できません。最終的には、出動の指示が出たのは1週間後でした。苫小牧から秋田に入りましたが、福島原発事故の発生の報もあり、若い組合員を行かせるべきかどうか、場合によっては責任取らなければならないだろうと、かなり悩みました。
 
─― 今年は7月16日に全国管工事業協同組合連合会の全国大会がこの釧路市で行われますね
小坂 700人から750人くらいが参加します。昨年の鳥取大会には、蝦名大也釧路市長も出席して挨拶してもらったり、この新年の全管連の賀詞交換会でもPRしてもらいました。派手なことはできませんが、心に残る大会にしたいと思っています。
─― 釧路市のPRすべき魅力をどうとらえていますか
小坂 災害の少ない街です。降雪も降雨も少なく穏やかな気候です。夏は涼しく、冬も極端に寒くはなりません。炭坑のある港まちで人情に溢れています。花粉症とも無縁で、暮らすには快適です。市内には釧路湿原、阿寒の2つの国立公園を擁し、また、豊富な海産物、野菜や乳製品は最高です。ゴルフ場は阿寒カントリーなどロケーションが優れています。太平洋を眺め、目前には雌阿寒岳、雄阿寒岳が迫り雄大な環境にあります。

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