建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2013年6月号〉

国内第一級の自然観光資源を持つ道東管内の道路河川整備に貢献

── 「阿寒国立公園の父」永山在兼氏の遺徳を語る


釧路建親会 会長
弟子屈建設協会 会長
辻谷建設株式会社 代表取締役

辻谷 智之 氏


──辻谷建設の創業の経緯から伺いたい
辻谷 初代の辻谷直作は明治32年に富山県の若栗で生まれ、大正8年に北海道に移り住みました。当初は釧路の広瀬組の下請けで、軍部の防空壕建設に従事していたとのことです。弟子屈町を本拠地として昭和8年に辻谷組を創業し、釧路・根室管内と現在の北方領土で土木工事をしていました。
永山在兼顕彰の碑(題字:堂垣内尚弘)
──永山在兼氏が計画された道路整備事業の施工にも従事してきたのでは
辻谷 当時計画した永山氏の功績は偉大で、当社もその施工には携わってきました。永山氏は東大(東京帝国大学工学部土木工学科)卒業後、大正7年に北海道庁釧路土木派出所の所長として着任し、昭和5年に自らの進退をかけ阿寒横断道路を完成させました。就任12年間で国後、択捉島を含む道東の道路の新設や改良工事で北海道の開拓に尽くしました。また、阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖を一大観光地に造り上げ、9年に国立公園の指定を受けます。55年には道路建設50周年を記念して、堂垣内尚弘北海道知事が題字し永山在兼顕彰碑が建立されました。弟子屈町は、永山氏の生まれた鹿児島県日置市(旧東市来町)と58年に姉妹都市で結ばれ、現在は、永山氏は「阿寒国立公園の父」と呼ばれています。
──創業者の辻谷直作氏は、どんな人物だったのですか
辻谷 口ひげを蓄えていたので、地域の人々から「祖父さんは威厳があったね」と、よく言われました。近寄りがたい存在だったようです。現場好きで、私も幼少時には現場によく連れられて行き、飯場で食事を取ったりしました。そして、自らスコップを持って、作業員に作業の手本を見せていました。
──創業者は昭和31年に功績が認められ、釧路建設業協会副会長に就任しましたね
辻谷 当時は弟子屈といえば当社のことを指しているのだ、と言っていました。
──辻谷社長は高校生時代にも現場を見ていたのですか
辻谷 高校時代は自社の現場でアルバイトをしていました。芝を貼ったり、作業員とともに作業に当たったり、誘導員などもしていました。
──高校生なりに土木の魅力は感じられましたか
辻谷 やはり竣工した時には、作業員なりに達成感はあったと思います。出来上がっていく過程を見ていますから、それなりの達成感はありました。
──日大卒業後に、最初に土木に従事したのは大林道路だったのですね
辻谷 平成2年のことで、公共工事よりも民間工事がメインだった時代です。茨城の筑波に居住していましたが、工場の外構工事やゴルフ場の管理用道路、砂防ダムの施工が中心で、そのために1年間も山間部のゴルフ場に籠もったりしていたこともあります。待遇の良い時代でしたが、その代わりに残業も多かったものです。
──その頃は筑波学園都市も建設途上でしたね
辻谷 大林道路の会社事務所の周辺は、最初は何も無かったものですが、着実に街が出来上がっていきました。
 しかし、卒業して数年後には帰郷することが、父との約束だったので、現場に区切りがついたところで退職し、Uターンしました。大林道路側とても、私の家業が地元建設会社で、いずれは後を継ぐことは了解していたので円満退職しました。
──夏場の現場作業はかなりきついものがあったのでは
辻谷 シャツが絞れるほどの発汗です。夏の舗装工事などは、目眩がしてきます。塩をなめながら水を飲まなければ、脱水症で倒れてしまいます。
昭和10年代の阿寒横断道路(撮影:松葉末吉氏)
──辻谷建設の工事量は豊富に推移してきたのですね
辻谷 工事は国が発注した道路がメインでしたが、阿寒湖や摩周湖に通じる観光道路を施工していたと聞いています。かなりの寒冷地ですから、当時の施工も大変だったと思います。
 この地域は3本の国道が交差する要地で、ルートには大規模の美幌峠があります。交通観光の要です。国道の交差も多いですが、農地整備もパイロット事業で盛んに行われてきたので、弟子屈町内の地場企業は力を持ったところが多いのが特徴です。釧路建設業協会のメンバーとして、5社が加入しています。
──郷里に戻って、どんな職務を担いましたか
辻谷 最初は営業に就任し、公共工事の他、民間の宅地造成を担当しました。
──そうして4年後には早々と社長就任となりましたね
辻谷 釧路建親会に入会していたので、この仲間からずいぶん助けられました。30歳の社長ですから、まるで身よりもない状況でしたが、この会の諸先輩にいろいろと指導を受けて、助けられました。
 先代(2代目社長・辻谷博)が他界した時は、私は社長室長の役職で、それまでは年始の挨拶まわりに同行する程度の接点しかありませんでした。先代が嫌われ者ではなかったお陰で、ずいぶん助けられました。
──会社としては、営業の守備範囲も広いですね
辻谷 釧根だけでなく、網走でも農業土木に10年近く携わりました。しかし、就任した平成9から公共事業は右肩下がりで、厳しい情勢とは言いつつも補正予算でフォローされていた時代でしたから、まだ何とか続けていられました。その後に、どんどん減少しましたね。
──工事が激減し始めてからは、どんな思いでしたか
辻谷 当時から直営班を抱え、ピーク時には70人くらいを擁していました。春にはその人員のための業務確保に追われていました。受注できないために片づけばかりさせていた時は、辛かったものです。
 公共事業が減少していくのは、目に見えていたので、人減らししか考えていませんでした。実際に作業員を減らしても、結果的には同じ業務量をこなせたので、かなり余剰に人員を抱えていたようです。しかし、限界はありますから減らしてばかりはいられませんが。
──現在の規模は
辻谷 現在は21人で、直営作業員は3人の重機オペレーターしかいません。
──最も経営が苦しかった時期はいつ頃ですか
辻谷 平均10億円の受注だったのが、6億円にまで減少し、平成17年に町内の中井建設と合併に踏み切ったのです。この中井建設の経営者は、父の従兄弟だったので、父が他界してからもいろいろと相談に乗ってもらっていた関係です。後継者もいないとのことですから、こちらからお願いして合併しました。
 私が30歳の社長就任で、先輩から指導を受けることがなかったので心細かったのですが、中井建設の社長、会長からいろいろとアドヴァイスを頂き、心強かったものです。
 また、中井建設が工事実績を残してきた分野にも進出できるようになったので、営業エリアを広げることもできました。
──弟子屈は小田切栄三郎氏が酪農のルーツを作り上げた土地柄ですね
辻谷 小田切さんは、明治25年に札幌農学校を卒業して、北海道庁拓殖部に入り、御料局川上(現在の弟子屈町・標茶町)派出所の所長として弟子屈に着任しました。33年には「川北郡御料農地開拓計画書」をまとめ、現在の釧路根室地域を全国一の酪農王国に造り上げました。弟子屈は酪農だけでなく、屈斜路地域には畑作もあり、近年は摩周そばの品質が評価され、知名度は上がっています。
──長年、建設に携わってきた人生で、記憶に残っている現場はありますか
辻谷 釧路の外環状の改良工事で、釧路町の工区を担当しました。釧路から根室へ至る途中の山間部で、切り土が15万立米に及ぶ大規模工事でした。この路線は現在も整備中で、私は釧路建設業協会の根釧開発委員会副委員長なので、早期完成の目途をつけようと活動しています。
 私は摩周湖の世界遺産登録実行委員会の創設メンバーでもあり、その実現は困難という結論にはなりましたが、阿寒湖についてはまだそれを目指して活動が続いています。
釧路湿原・阿寒・摩周シーニックバイウェイについても、登録当時から参加してきたので、観光産業にはいろいろと関わってきました。ルート運営委員長を務めシーニックバイウェイ登録のために、地元のことをいろいろと調べてみると、観光資源が豊富であることを改めて実感しました。住んでいるだけでは、なかなか気づかないものですが、改めて調べると魅力がいろいろとあることに気づきました。
施工実績「一般国道274号鶴居村幌呂法面」(平成24年度撮影)
──そうした地域を担う建設業の役割を、どう考えていますか
辻谷 弟子屈建設業協会に私が加入した当時は、14社くらいのメンバーでしたが、合併、倒産、退会などで現在は8社となっています。しかし、地域には峠も国道も多く、冬期間の除雪も大変で、地域に地場建設業者がなくなった時の恐ろしさは、途方もないものです。空白地帯が生じるほどには至っていないとは思いますが、もしも空白地帯が生じて、インフラを維持する者がいなくなるのは、地域にとっては不幸なことだと思います。
 今年は猛吹雪のためにクルマが立ち往生し、娘を庇って守りながら父親が凍死した不幸な事件もありました。美幌峠でも、何年かに一度はそうした事故も起きているので、人々の暮らしと交通を守らなければならないという使命が、地場建設業者にはあると思います。
──今後の経営に向けて、どんな方針を持っていますか
辻谷 これまで、人員削減しか考えていなかったこともあり、若手技術者を採用してこなかったので、釧路建親会でも、若手が魅力を感じるような業界として、もっとPRしなければならないと主張しています。工業高校の生徒も、建設業には就職しなかったので、建設業の魅力を伝えるために出前講座や現場見学会などを建親会として実施していきたいと思います。
 会社としても、従来は即戦力ばかりを求めて中途採用ばかりでしたが、もっと若手を積極的に雇用し、技術者を育てていかなければならないと思います。
──この4月には釧路建親会の会長にも就任されていますが、これは管内の業界としても同様の考えなのですね
辻谷 各社が地域を守るためにも生き残らなければならないので、建親会として相互に協力し、仲間を作りながら、存続するために学んでいかなければならないと思います。
 また、昨年には全国建青会が開催され、地域のホームドクターとして、地域から信頼される業界として努めていくことが決議されました。長年、みな縮小に縮小を重ねてきているので、技術者、作業員、鉄筋工などことごとく減少しています。しかし、かつての勤務地だった茨城などは、復興に追われているため、かつて勤務した大林道路からはいつでも営業所を出店するように要請がきているほどです。しかし、こちらも地元で業務が増えているので、通年で支援はできず、冬場に限定しています。しかし、こちらで新人を雇用し、先方に派遣して育成してもらうという展開も考えられます。
──大手ゼネコンの現場を体験できる地場企業としてのPR展開も可能ですね
辻谷 実際に大林道路など、大林系列の下請け工事も受注し、そうした現場に当社の作業員は出向するので、大規模の現場で勉強できます。
本社社屋外観
──弟子屈建設協会の会長でもあるので、単なる雇用創出だけでなく、この町内にいながらにしてゼネコンの大工事の現場を学ぶ機会を確保することができますね
辻谷 今までも建親会を通じて、人員の確保・提供をしてきました。北海道の技術者は、政府の直轄事業をメインとする会社が多いので、みな優秀です。



■社長経歴
辻谷 智之 つじや・ともゆき
昭和42年3月2日生まれ
平成 2年3月 日本大学工学部土木科 卒業
平成 2年4月 大林道路株式会社 東京支店 入社
平成 5年10月 辻谷建設株式会社 入社
平成 8年4月 辻谷建設株式会社 社長室長
平成 9年3月 辻谷建設株式会社 代表取締役
平成17年4月 弟子屈建設業協会 会長
平成22年4月 釧路建設業協会 理事
平成25年4月 釧路建親会 会長

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