建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2012年9月号〉

災害発生時の応急活動や復旧を円滑に進める緊急時出動マニュアル

── 浜中町海岸で施工中の防潮堤に3.11の津波が押し寄せ津波災害を防ぐ

赤石建設株式会社 代表取締役社長
赤石 眞 氏


――今年で創業80年を迎えましたが創業の経緯をお聞きしたい
赤石 昭和7年に私の父・赤石哲郎が浜中町の霧多布で創業しました。昭和54年までは建築一本でしたが、土木施工の認可を受け、土木も施工するようになりました。59年に長男の赤石勉が社長に就任し、65歳となった平成20年に会長へ退くこととなり、4男の私が社長に就任しました。私はそれまでで土木部門を担当していました。
――社長は昭和27年生まれですが、入社は何年頃ですか
赤石 昭和46年くらいのことで、その当時はまだ従業員も4、5人という規模でした。その頃は管内の酪農家も小規模で、経営は苦しく離農が相次いでいました。
――土木施工において、思い出に残る現場はありますか
赤石 私が最後に現場代理人を務めた現場は、開発局が発注した白糠町の道路工事でした。規模は小さく、DランクのJVの現場代理人として務めたのが最後です。完成後にその道路を通る度に思い出しますね。
 今では元請けと下請けの比率は半々くらいとなり、従業員は100人余りですが、基本的には直営施工の体制を維持する方針です。
――人口6,800人の浜中町で、それだけの雇用規模となれば、地域の雇用情勢への影響も大きいですね
赤石 その責任の重さは感じています。従業員は100人ですが、家族も含めると200人から300人にはなるので、会社は潰せず、なんとしても維持継続していかなければ、との思いは強いですね。若い職員もいるので、世代交代を担う側面もあり、親が努めていたことから、その子息が入社を志望する例もあります。
――6月28日に道が太平洋沿岸の津波浸水予想を発表しましたが、この浜中町琵琶瀬では国内最大級の34.6m級と予測されています
赤石 当社は高台にあるので災害協力はできますが、従業員の半数は海岸に住んでいるので、残った従業員で対策に当たることになるでしょう。海岸線に居住する人々のほとんどは漁業者ですから、34.6mとはいっても、いつ来るか分からない津波に備えて山側に住めとはなかなか言えません。したがって、せめて避難道が整備されればと思います。
 役場の支所が浜中にはありますが、その職員にも海岸線に住む人がいて、災害時には本庁舎(霧多布地区)に集結しますが、そこが孤立すれば連絡も取れず、携帯電話も通じなくなるのですから不安が残ります。
――平成5年1月15日発生の釧路沖地震の時は、被害状況はいかがでしたか
赤石 厚岸へ繋がる国道44号線で土砂崩れが発生し、道路も陥没して通行止めとなりました。そのため、厚岸町の宮原組と協力して両端から復旧作業に当たりました。災害査定を受けるまでは、現状復帰で通行できる状態に戻す以上のことはできないので、片側通行や迂回路で対処するしかありません。しかも、コンサル会社は多忙を極めるので、釧路開発建設部厚岸出張所の職員に協力し、直接、現地視察と撮影、図面作成に当たって災害査定を行っていました。
――4月の大雨による44号線の通行規制対応で表彰を受けましたが、その内容は
赤石 今回は2回目で、大雨で水位が道路路肩付近まで上昇し通行規制を開始しました。そして、昼夜を問わず、道路の維持補修の任務に当たったことを評価して頂いた結果です。本来は、この路線の維持補修の業務提携はしていますが、通常業務を超えて任務に当たったことへの感謝状です。
平成20年には大規模の人身事故があり、その救助に当たったこともありました。その時も災害救助の感謝状を受けたものです。冬季の降雪量はそれほどでもないのですが、このエリアは地吹雪で視界がゼロになるので、警察からも通行止めの指令が下ることもあります。
 地吹雪による通行止めでは、通行車両が雪に埋まってしまい、当社の従業員が寝食を忘れて救出に当たったものです。
 私たちは直営施工なので、非常時には30分で職員が集結し、直ちに始動できるのが強みです。末端の建設業として実働部隊となる作業員を擁し、直接現場に当たる地場業者としての役割を担っています。
 こうして管内の動脈を守るのが私たちの使命で、従業員がそれを果たせるよう、季節労務者もなるべく長く勤務できるよう工夫しています。
▲浜中(海岸)防潮堤(後静地区)
――公共事業予算が半減されてきた中で、会社として雇用を維持するのは、並大抵の苦労ではないでしょう
赤石 確かに厳しいですね。建築が65%で土木が35%の収益比率ですが、その35%の半分は下請け受注ですから、それを通じて作業員を減らさずに雇用し続けている状態です。一時は土木の比率が半分にまで延びたこともありましたが、近年は公共事業削減でまた下がっています。
――十勝沖地震やチリ地震による津波も経験しているので、災害の恐怖を実感しているのですね
赤石 昭和35年のチリ地震による津波の時は、私が就学する頃のことで、霧多布大橋が流されて地域が孤立したり、自衛隊が浜中のグラウンドを基地にして、ヘリやトラックが物々しく行き交う中で、食糧の配給を受けた記憶があります。
――この地域では、全国でも初めての津波防災ステーションというシステムが稼働していますが、3.11の東日本大震災時には、防潮堤の施工に当たっていましたね
赤石 釧路建設管理部から受注した浜中海岸の後静地区の防潮堤工事を請け負いました。ちょうど波返しを施工し終えた直後に津波が来たのです。もしも波返しを施工していなかったら、市街地にまで水が押し寄せて大変な事態となり、当社の施工責任も問われていたでしょう。
――それを思えば、防潮堤の高さなどは早急に見直す必要がありますね
赤石 防潮堤の嵩上げは、さすがに34.6mという規模にはなりませんが、せめて1mか2mの嵩上げは必要ですね。3.11の時は、防潮堤の外にあった水産加工場や係船していた漁船が被害にありました。
▲陸閘(山側に見えるのは浜中町役場)
――3.11の地震発生時も作業中だったのですか
赤石 現場は後かたづけの段階でした。警報が鳴って大騒ぎになったのが3時くらいで、避難命令が出ました。津波は防潮堤波返しのやや下まで到達しており、ギリギリの状況でした。船留まりが破壊されたので、私たちはその復旧に当たりました。
――そうして社長は60年に渡って浜中に暮らしてきましたが、地域振興の役割を担う立場として、地域の魅力をどうとらえていますか
赤石 当社がこの規模に成長できたのは、浜中にいたお陰だと思います。町としても地場業者として助け船を出してくれたお陰もあります。それだけに、地元の建設業として生き残らなければならないという使命と責任感もあり、独自に重機を保有し、災害時には直ぐに出動する自負はあります。
 また、災害時にはクルマで避難する人もいるので、避難路は必要です。3.11の災害でも被災地の高速道路が役立ちましたが、釧路根室管内は茶内から霧多布までの道路の海抜が低いので、そこに高架道路を別に設置しておけば徒歩でも避難できるようになります。または、せめて既存道路が5mから10mくらい嵩上げされれば、状況は変わります。
 最も理想的なのは、漁業者も高台に居住し、仕事に従事する時だけ海岸線に出るのが望ましいのですが、なかなかそうもいかないでしょう。役場庁舎も霧多布から茶内に移転したらどうかとの意見もありますが、地元住民を置いて自分たちだけが逃避したとの誹りも受けるのではないかと懸念する声もあります。したがって、災害に適したインフラ整備というものが必要です。
――3.11のような想定外の災害発生に備えて、従業員にはどんな訓辞をされていますか
赤石 まずは逃げることが一番ですね。私たちは地域を守るためにも生き延びるしかないので、従業員には各自が頑張ってくれ、というしかないですね。従業員たちの意思疎通は十分あり、赤石建設として緊急時出動車両、緊急時使用可能資材、緊急時巡回方法など緊急時の体制及び対応マニュアルを徹底指導しています。従業員の災害に対する意識レベルは年々アップしています。
――霧多布には高層の建築物がないですね
赤石 町長もそのために避難塔の建設を提唱していましたが、無理ではないかとの意見も出ています。そのため、高台の霧多布温泉まで逃げるしかないですが、高齢者は大変でしょう。道路も2本はありますが、ともに渋滞になり、霧多布大橋の方面もやはり渋滞が予想されています。橋梁も2本はありますが、1本は防潮堤の外側にあり、水門が閉まってしまうと通行できなくなるので、結局は道道の橋梁が1本しかないという状況です。
▲水門(琵琶瀬地区)
――しかし、温泉地に避難しても全町民を収容するのは無理では
赤石 無理ですね。だからクルマで遠くへ逃げる人もいます。ただ、霧多布から茶内の湿原道路の湿原センターに至る区間は平地なので、全線高架化が無理ならば、せめて片側だけでも二車線にして拡幅したり、嵩上げして山間部へ逃避できるようになれば津波被害も避けられると思います。
 3.11のように津波警報が発せられた以上は、災害救助に行けと指令することはできず、通行止めの措置をするのが精一杯です。しかし、平地に住む従業員は避難後に対策に当たりますが、高台に住んでいる従業員は直ちに急行できるので、機敏に行動できます。これが直営施工できる地場業者の強みです。
――ところで、社長の名刺にはアニメ「ルパン三世」のロゴなどがデザインされていますが、この趣旨は
赤石 ルパン三世の原作者モンキー・パンチは浜中町出身で北海道霧多布高等学校を卒業しています。町立浜中診療所のレントゲン助手として務めていました。昭和40年当時、週刊漫画アクションにルパン三世が連載され、浜中警察署とか霧多布刑務所などの名前が出てくるので楽しみでした。浜中の振興に向けて商工会が町とタイアップして取り組んでいるので、私たちもそれを支援するために、このデザインにしたのです。私自身が商工会の理事であり、地元建設協会の会長でもあるので、地域振興のために極力、地場調達を心がけています。町おこしのために「ルパン三世」を誘致し、JR浜中駅にもアニメキャラクターが掲示され、住民の間でも定着しています。
▲浜中町のPRのためにルパン三世を取り入れている
――新分野へ進出する取り組みは
赤石 エーシーフリープラン社とALTC社と、2社の別会社があります。後者は運送業に進出したばかりですが、建設重機や大型車両などを運搬する事業で、当面は社内契約が中心となります。
 エーシーフリープランは設立して10年近く経ちますが、本業を補佐しつつ賃貸アパートの建設と経営に当たってきました。経営はACで施工は赤石建設という体制で、すでに十数棟に上ります。その他に、昨年からは農業サポート業務にも進出しました。農協が経営する「酪農王国」という牛舎や育成牧場に人材派遣したり、コントラ事業にも参画しています。
 農家は人手不足の一方、建設業は人手が余ってきているので、お互いに需給がかみ合っていますが、新規参入ですから土木作業と違って不慣れの面もありながら、何とか10年以上は続いています。そのため、トラクターもハーベスターなど数台は自社で保有しています。
 このように一次産業と助け合いながら、建設業を維持していこうという考えです。何しろ100人の人員を扶養しなければなりませんから、あらゆることを手がけなければならないと考えています。
――そうして80周年になりますが、職員にはどんな訓辞をしていますか
赤石 80年に拘ってはいませんが、「来年も生き残ろう、維持継続していくためにみな協力して欲しい」と話しています。やはり職を失いたくないし、リストラもしたくないので、一人一人の力が結集されてこそ生きていけるのだから、と訴えています。
とにかく経営基盤の強化と安定化を図り、この地域で頑張って生きていきたいというのが本音です。国や道は業者を減らそうとの意向は感じますが、業界自体がなくなるわけではないので、そこに生き残るのが我々の願いです。直営施工が可能で、災害時にも対応できる業者を少しでも残してもらえるような体制づくりを望みたいですね。


赤石 眞 あかいし・まこと
昭和27年6月11日生まれ
昭和46年3月 道立厚岸潮見高等学校卒業
昭和46年8月 赤石建設に入社
昭和53年4月 赤石建設有限会社 取締役に就任
平成20年4月 赤石建設株式会社 代表取締役社長に就任
現在に至る

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