建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2012年8月号〉

釧路市音別町で創業し88年目を迎える

── 釧路沖地震災害では当日の夜から復旧工事に当たる

釧路建設業協会 副会長、音別町商工会 会長、市橋建設株式会社 取締役社長
川村 利明 氏


──創業の経緯からお聞きします
川村 創業者の市橋佐市は新潟県佐渡から北海道に渡り、当時の音別村尺別炭鉱の関連工事を請負、大正14年に市橋組を創設しました。土木工事の施工に本格的に着手したのは戦後のことで、先代の父・川村喜代治が沢別地区から音別町に出張所を新設した頃からです。父は市橋佐市の次女の娘婿です。
 当社は鉄道工事など、鉄橋や橋梁の下請けからスタートしたのです。当時の土木といえば、鉄道と町村による工事がほとんどで、道開発局の国策工事が始まったのは昭和30年代後半頃からです。平成17年に音別町は釧路市と合併になり釧路市音別町となりました。
──社長は何年にお生まれですか
川村 私は昭和29年で、音別の出張所ができたばかりの頃です。まだまだ会社の体制は不十分でしたが、釧路鉄道管理局より指名を受けるなど従業員数も業務量もそれなりの規模にはなっていました。
 その後、52年に音別に戻りましたが、50年代といえば街づくりも盛んで、建設業界には追い風の良い時代でした。
 私が従事し始めた頃は、釧路管内では国道38号線の一次改良が終了し、392号白糠-本別線の開業が始まった時期でした。その頃を堺に、道路建設が盛んになりました。
 一方、音別川が二級の国の指定河川として国が河川管理者となったので、築堤の整備が始まりました。音別町内はこれら二つの事業がメインで、その他に駅前や尺別の道道整備が盛んでした。このように地元の音別、白糠で十分な工事があったので、管外へ出る必要はなく、近年のように遠方にまで遠征するなど、考えられない時代でした。
──近年は異常気象で災害が多発していますが、その頃は
川村 音別川は、私が幼少の頃から毎年のように洪水が発生しており、いつもサイレンが鳴っていましたね。それが整備されて治まったのが50年代で、それ以降は特に大きな災害はありません。
▲一般国道44号釧路町東陽改良工事
──音別町には国道38号線以外に市町村を抜ける道は有りますか
川村 どの道路も袋小路ですから、38号線が通行止めになると、どこにも行けなくなります。それは釧路沖地震の時にも実証されました。したがって、緊急時には物資が届かなくなる可能性があります。1日くらいなら良いのですが、本格的な大災害で2日も3日も滞ることになれば、地域住民の生活は機能しなくなる可能性があります。
 津波が発生した場合も、どこにも避難できなくなる可能性もあります。白糠に逃げることはできますが、そこに通じる道路は低く、町内の河川も同様に氾濫しているでしょうから意味がありません。そのために地域住民は、みな頭を痛めているところです。地震で道路が破壊されたから物流が止まったわけですが、一日半通行止めとなり、その間はどこにも抜け道がないというのが重大です。
──平成5年1月15日午後8時の釧路沖地震の時は、社長はどうしましたか
川村 この場所から尺別辺りまでは最も揺れが大きく、屋内の物は全て落下しました。その直後に開発局から出動要請があり、直ちに社内で連絡を取り合って体制を整え、地震後の一時間半後には出動し、国道38号線の復旧に当たりました。復旧は突貫工事で翌日の昼には片側の通行まで出来るようにしました。
 ただ、平成5年当時は重機が十分にありましたが、今では重機を保有する企業も少なくなり、トレーラーも一台しかないので、当社が複数台を保有していても、それを搬送するのは容易ではありません。そのため、当時のように一日で復旧できる保証はありません。
──6月28日北海道防災会議地震専門委員会は太平洋沿岸の津波浸水予想図を発表しました、巨大地震が起きた場合、釧路市音別町は最大水位27.8mの巨大津波を想定していますが、どう考えますか
川村 津波に対応できるまちづくりを考えると100年もかかるので、ただ発表だけでは不安を煽るだけになりますから、もう少し現実的に捉えられる考え方ができればと思います。対処としては、いかに早く避難するかということだけですから、避難に支障のある道路構造では困ります。そして避難先には駐車場その他の整備をしておくことですね。最も望ましいのは、他の市町村へと移動できる道路網の整備です。
▲根室浜中釧路線(B改-713)交付金工事(仙鳳趾地区)
──道には要望しているのでしょうか
川村 現在建設中の道東自動車道(釧路市音別町の山側を通過)と、音別地区の住民の避難道路が直接接続出来れば良いのですが。ただ、険しい山道なので、そこまで道道をアクセスするには予算がかかります。そのため、音別地区の3,000人弱の人口のために、そこまで予算を投入する効果があるのかと言われれば沈黙するしかありませんが、それでも3,000人が暮らしており、津波発生時に高台に待避した後に、身動きが取れないのでは困ります。
 したがって、普段は閉鎖していても良いので、災害時に通行できる高速道路へのアクセス道路を整備し、そこに行ける状況を確保して欲しいのです。
──公共事業が徹底的に削減されて10年以上になりますが、釧路建設業協会副会長として今後をどう展望しますか
川村 削減の影響は大きく、協会の会員数もかなり減りました。海岸線の整備についても地域要望はありますが、予算がかかるので優先順位もあり、そこまでの整備はできないでしょう。費用対効果で考えると、人が近寄らない所を整備する必要はないでしょう。ただ、今回の地震と新たに発表された津波予測によって、見直しもされると思いますが、全国規模でそれに対処できる整備をすれば途方もない予算が必要となるでしょう。
 それでも、強靱な国土づくりは進めるべきと思いますのでインフラ整備の再構築には期待します。それは建設業で働く者としてだけではなく、地域に住む者として、当然お願いしなければならないことです。建設業界としての仕事が増える以前に、津波で住人が死滅したのでは困るのです。それをよく弁えているのも、地域のインフラを作ってきた建設業者です。
 したがって、協会としては今後ともどんなものを要求していくべきなのか、それを探るための委員会を中心としつつ、新しい仕事を創っていかなければなりません。例えば、ほとんど手つかずとなっている釧路管内の西部圏をどうするかも課題になるでしょう。釧路市から十勝管内浦幌町にかけてどうするのか。ある程度の道路整備と緊急避難場所は確保していく必要はあるでしょう。津波はわずか20〜30分で到達するとの発表ですから、通常は閉鎖していても緊急時には開放して山に避難できるルートを、10qに一カ所は整備してはどうかという考え方もあります。
──会社としては、今年で創業88年になりますが、今後をどう展望しますか
川村 88年ですから、さらに100年を視野に入れて、それをどう迎えるかですね。そこで、「ほっかいどう企業の森づくり」に取り組んでいます。それは当社の100周年を意識して、地域のオンリーワン企業を目指してのことでもあります。この音別という地域の成り立ちも重要で、地域が崩壊して当社だけが生き残っていても意味がありませんから、この地域、この町に育てられてきた会社としては、逆に地域を支えていかなければならないと考えています。その意識を込めて松の木の他にこぶしを600本近く植樹しました。十数年後に一斉に開花すればいいな、と思っています。
 一方、向こう十年で業界の再編は起きると思いますが、それは覚悟しています。そのためには、個々のスタッフが技術を身に付けていなければ、会社に所属しているだけで生き残れる時代ではないと思います。現代は下げ止まりがどこであるのかが見えないので、ただ頑張るしかないのですが、いずれは底を打つものと思います。これ以上、下がるようなら、もはや業界側が対応できなくなります。
 しかし、道路でも橋梁でも老朽化して酷い状況ですから、一般者でも感じるものはあるでしょう。道路を走行していると、穴だらけでいつまでも補修されていなかったり、雑草だらけで見苦しい印象があり、そういう道路が地方に行くほど増えています。そうなると、普通の市民感情としても、何とかして欲しいと感じるでしょう。
 かつては、その市民感情の視点では、こんなものはいらないという意識だったのです。今では逆に「このままでは…」という人が増えてきたので、初めて庶民とともに行動を起こせる状況にはなっています。そこで、全道的な立場で総意を国に陳情するべきだと思います。国土強靱化政策においても、北海道の役割と面積を考えたら、重要な位置にあります。人口比だけで考えるなら、広大な国土を放棄することになりますが、それが今日までの北海道に回されたツケというものです。
▲地域貢献事業として取り組んでいる「ほっかいどう企業の森づくり」(植樹後の記念撮影)
──そうした建設業受難の時代ですが、社として守ってきたものもあるのでは
川村 祖父・市橋佐市は「カネを出しても良いから、良いものを作れ」という主義でした。施工現場を視察した時には「発注者の評価は関係ない。一目見ておかしいと思うところは直せ」と主張する人でした。そのため、例えばすでに出来上がっている水路溝をわざわざ壊して、ジャッキで移動して修正したりしていました。そのための資金はかかりますが、カネの問題ではないという考えの人で、そうした品質重視の姿勢と工期を守ることにおいては厳しい人でした。
 そういう気質の社長は、当時は多かったですね。しかし、中でも祖父は厳格だったので、先輩たちからは、些細なことも絶対に手を抜かない姿勢を教えられました。「見えないところほど手を抜くな」というのが、祖父の教えです。お陰で儲のない会社でした。
──音別町商工会会長としての取り組みについて
川村 しんこう音別鰍ニいう会社を立ち上げました。この会社は建設業者が集まり、地域振興に寄与するために、一社では実現できない構想の受け皿となる組織です。建設業者は4社、電気工事業者が1社、林業から1社、下水や清掃に携わる衛生関係の業者が1社という構成で、世代は40代半ばから60代半ばまでの7人です。寂れていく町ですが、何かできないかという発想で始まり、そして最初に着手したのがアパート経営でした。みんなでアパートを建設し、独身者向けの住環境の整備と、さらに新たな展開も企画しています。
 その他に、新産業としてエミユという動物の飼育に着手しています。釧路市の補助を得ながら網走で研究段階に入っており、2年目を迎えています。来年までの期限で、飼育に成功するなら本格化したいと思います。
 また、町内は空き家が多くなっていますが、釧路市には長期滞在する旅行者が増えています。この音別は釧路と十勝の中心に位置するので、空き家をコーディネートして提供することも考えています。
 このように何かをやろうとしても一社ではなかなかできませんが、個人が集まれば気軽に話し合える上に、必要な業種が揃っているのでほとんどのことは自前でできます。全国的に人口が減少しているのですから、地方の人口が減少するのは当然ですが、地域に魅力があれば人は定着します。今後は釧路管内の西部圏にどんな開発構想が起こるか分かりませんが、その時に受け入れる体制は必要です。そのためにも、どんなに人口が減っても若者がいる町にはしたいものです。そこで、私たちは雇用の下支えをする責任があるのだと考えています。
 そして、7月には音別川の環境美化などに取り組んできことが、全国建設業協会(浅沼健一会長)の2012年度社会貢献功労者に選出されました。
川村 利明 かわむら・としあき
昭和29年6月生まれ
昭和52年4月 市橋建設株式会社 入社
平成 3年4月 取締役副社長
平成 6年5月 取締役社長
現在に至る
▲本社社屋


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