建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2012年2月号〉

interview

明治45年創業 100周年に当たり

地元企業としての社会的使命を果たし
地域振興の原動力になることを自覚

大野土建株式会社
取締役社長 大野 裕一郎 氏

――大野土建は創業100周年を迎えましたが、今日に至るまでの社史をお聞きしたい
大野 創業者は四国・高松出身の大野直吉という私の曾祖父です、明治45年(1912年)3月に上川管内の士別地域で砂利採取業を創業しました。
 私は昭和26年に生まれ、小学卒業を機に、士別の親元から札幌へ出されました。2代目社長の大野繁一という祖父が札幌の札建工業副社長に在任していたことから、中学、高校までの期間は札幌に住んでいました。その祖父から大野土建の会社来歴などを世間話のように聞かされて育ったものです。昭和38年頃のことで、祖父は午前4時に「リヤカーを引け」というのです。そして創成川の二条市場へ買い出しに向かうわけです。その道すがらで、「昔はな…」という形で聞かされた話というのは、「うちの会社はな、自宅前を通っている鉄道の敷設工事を手伝うため、天塩川の河川砂利を馬車で運び、工事現場に下ろしたのが始まりだった」とのことで、明治45年に、一頭の馬車を以て砂利の採取業から始まったというものです。
 曾祖父・直吉と一緒に作業に従事していた祖父・繁一は18歳くらいで、非常に真面目で勤勉だったため、現場監督に見込まれて「お前は、親父(直吉)とともによく頑張るな。そして知恵もある」と、声をかけてくれたそうです。当時は、みな砂利をただ馬車に積み上げて運搬していましたが、そこで祖父は木枠を作り、これを秤箱とすれば、どれくらいの砂利を投入したのかが計量できると監督に提言し、それによって収入を得ていたようでした。そうした発想力が認められ、「ただの砂利採集・運搬だけでなく、何人かの人員を集めて土木工事にも従事したらどうか」と、示唆して頂いたとのことです。そこから、「大野組」として当社の歴史が始まるのです。大正時代のことですね。
▲創業当時の鉄道土木工事
――そこが原点なのですね
大野 そして鉄道土木に携わるようになりました。祖父が笑い話に明かした後日談では、「最初の入札で緊張してしまい、入札金額を一桁間違ってしまった」とのことでした(笑)。一桁分、低く入札してしまったために、落札はしましたが後に監督に呼び出され、「お前、これでできるのか?」と心配されたそうです。そこで祖父は正直に「緊張のあまりに、桁を間違えてしまいました」と打ち明けたものの、「最初の仕事ですから、自費を投入してでも仕事は完成させます」と、男気を見せて請け負ったそうです。とはいえ、監督としても心配なので、時折、現場を見に来たりしたようです。
 それでも祖父は、「神様はちゃんと味方してくれるものだ」と言っていました。というのも、その工期中に台風が発生し、天塩川の木橋が流されたため、国鉄は緊急災害工事に当たることになりましたが、その時に監督が「災害復旧工事は大野に特命で当たらせろ」と進言してくれたそうです。それでその工事を請け負い、昼夜を問わずに突貫工事で施工に当たった結果、その施工結果が高く評価され、工事代金の決済に当たっては、桁間違いした入札の損益分のみならず、それ以上の利益分までも加算されていたとのことでした。そして、その利益が当社の資本になったとのことです。
――祖父・繁一は札建工業に移籍、昭和24年に大野土建株式会社を設立し、社長の父・大野忠義氏が3代目社長に就任しましたね
大野 父・忠義が社業を引き継いだのは32歳の時でした、偶然にも私が社業を引き継いだ昭和58年のときも、私が32歳の時でした。同じ年代の節目で経営者が交代したのは、運命を感じますね。
――そうして、戦後の高度成長期のインフラ整備を担ってきたのですね
大野 祖父・繁一は父・忠義に跡を継がせたくて学校に行かせ、父は建築業を専攻しましたが、絵を描くのが得意で、画家を志望していたのですが、祖父に絵を描くなら設計図面を描けということで、その分野に行かされたのだと言っていました。父は、大卒後に半官半民の満州産房公司に入社し、満州国建設に際して各官省の官舎や病院などの建設に当たって、技術者として満州に派遣されていましたが、そこで徴兵され、終戦後にシベリアに抑留され、舞鶴に復員してきたのが23年です。
▲昭和3年 士別尋常高等学校 上棟式
――よく無事に復員できましたね
大野 よほど過酷な環境だったのか、復員後もあまり戦争体験を話そうとしませんでした。
 ただ、シベリア抑留者の生活を描いた「シベリアからの手紙」というテレビドラマで、その撮影ために、父・忠義にセットの制作依頼が来ました。そこで父は、抑留された現地の様子を得意の絵に描いて送ったところ、制作側から「この通りにセットして欲しい」との回答で依頼を受け、当時の宿舎などを士別にロケ現場を作りました。
――社長は札幌で高卒後には、どちらへ行きましたか
大野 父・忠義は私を技術者にしたいため、大学は国立の理数系以外は認めず、また私学も認めないという厳しい姿勢でした。理数系は苦手だったので、法律も会社運営には必要との口実で青山学院大の法学部に進学しました。
 卒業後は、本当は警察官を志望していたのですが、父はそれを察知したのか「会社が大変だから、すぐに帰省して手伝え」と伝えてきました。昭和51年の入社後は2年ほど経理を手伝い、3年目から営業を担当する次長職に就任しました。
 父は士別建設業協会長と、自民党の士別支部長を勤め、昭和58年の北海道議会議員選挙では、道議候補の選考に当たっていたのですが、どうしても候補が決まらなかったために、責任を取って自ら出馬したのです。「政治家には向いていない」と言っていましが、1万票の得票数で当選を果たしました。推されて就任した以上は、地域のために頑張るとの決意で一期4年だけは勤めました。一本気の気質なので「社長業と道議との二股は許されない。バッジを付けた以上はお前が会社経営に専念しろ」ということで、社長を引き継ぐことになったのです。
――昭和51年の入社から、6、7年の間に早くも社長就任だったのですね
大野 もちろん、私は頑なに固辞しました。そこで、父の弟である叔父の大野昭月が専務にいたので、社長業はそちらに譲って、私はもうしばらく次長に専念させて欲しいと話しました。しかし、父によると「昭月にも相談したが、俺がフォローするから息子に継がせろ」という話でした。そして、「俺が社長就任を指示された時も、32、33歳の時だった。やはりお前と同じようなことを考えた。しかし、世襲というのはどうしてもその目で見られるものだ。こういうものは習うよりも慣れるものだから、それを覚悟して受けろ。そのプレッシャーを跳ね返し、むしろ人心を掌握していくことが、お前に課せられた課題だ。それを背負うことも出来ずして、会社を背負うことはできない」と言われたのです。会社を背負うとは、そういうことなのだと言うわけですね。
▲社会資本整備の取組:平成4年 名寄市立病院
――100年も会社が存続してきた背景には、いろいろな人が関わり、いろいろなことがあったのですね
大野 初代から引き継がれてきた会社の精神は、「報恩感謝」です。「人の苦労に感謝の気持ちを持たなければならない」という教えが、代々に引き継がれてきました。
 私がなぜ早朝から二条市場へリヤカーを引いて行き、買い出しに出されたのか。祖父・繁一は「朝早くからこのように仕事をして、生計を立てている人がいる。お前は朝の朝食で、嫌いなものを残すが、それはこの人達の苦労を捨てることになるのだ。人々が苦労をして作ったものを、捨ててしまうようなことができるか」と言っていました。「“いただきます”という言葉は、そういう人達の苦労に感謝する気持ちを表すことで、それが自分の血となり肉となるのだ。だから、人は“ごちそうさま”“ありがとう御座いました”と言うのだ」とのことで、それを教えたかったわけですね。当時は、私は“そんなこと”と受け流していましたが、その時は分からなくても、いずれ年齢とともに分かる時がくるものです。
――100年の間には、災害対応などいろいろなことがあったものと思いますが、道の企業等防災サポーターバンクにも登録されましたね
大野 土木建設業を生業としている以上は、社会資本整備と緊急災害時におけるライフラインの確保という社会的使命と重責を担っている自覚を持って、臨まなければなりません。その意味では、祖父が災害時に突貫工事で主要幹線の復旧に当たった歴史を踏まえ、それを忘れず、そこに立脚して行かなければなりません。
 昨年の3月11日の被害に東日本震災を契機として、防災力を高めるまちづくりが求められています。当社としても、自らの意志と判断で「より生活し易く、仕事がし易い“まち"を創っていこう」という思いで行動することが基本と考えています。
 その実例としては、一昨年7月の記録的な豪雨の際には、士別市と建設協会との防災協定に基づいた出動要請を受け、市内各施設の応急措置を行うことで、被害の拡大を未然に防ぐことができました。  今後も関係機関と連携を取り合いながら、災害発生時の緊急事態の出動態勢を整え、出来る限り協力するための準備に努める考えです。そうして市民から頼られ、声をかけられるような存在価値のある企業にしていかなければならないと思います。
――そういう企業として、100年あり続けたのですね
大野 そういう企業にしていかなければならないという自覚の下に、名実ともに運営していかなければならないということです。職員についても、心を一つにする形で協力していかなければなりません。  だからいま思うのは、この厳しい時代にあっても企業姿勢がぶれないのは、先人達がみなぶれない人生哲学を以て、腰を据えて歩んできたからであって、会社も法人ですから、それと同様に経営哲学があり、それが会社の信条であり理念です。
 その基盤を作ってくれたのが先人、先達たちで、歴史的背景を顧みると、そこには会社経営の信条と哲学があり、経営思想が確立されて経営理念がありました。その経営理念があって初めて夢と希望ができ、それを実現するために目標や行動指針というものがあります。会社の背景は、こうして形作られます。
 こうした思想基盤があれば会社経営はぶれることなく、目標や目的がはっきりしているので、それに向けての身近な小目標が次々と立てられます。
▲社会資本整備の取組:昭和62年 士別市立病院
――100年の節目の時に、社内でどのようなメッセージを伝えましたか
大野 私たちは、皆さんがあって支えられてきたのであり、多くのパートナーシップを培ってきた絆は大切にしなければならず、さらにより強固なものにしていかなければなりません。それによって企業が成り立つということではなく、それによってこそ地域の持続的な発展が可能になるのです。父・忠義は、晩年「人を大切にすることは、人からも大切にされること」だと言って、諭してくれました。これが永遠に最も大切なことだと考えます。
 そして、地域住民にとっては、そうした企業が側にいてくれることで安全・安心が与えられます。つまり、地域住民との間に信頼と信用が生まれてくるのです。そして、それは地産地消につながっていきます。「大野さん、この仕事をやってよ」と、声をかけられ、要望されるようになるのです。
 これが地域振興であり、地方再生の原動力だと思うのです。この意識や気持ちを皆さんに理解してもらい、「一緒にやっていくぞ」とスクラムを組むことが重要だと思います。
 その地域社会と良好な関係を築いていくためには、人格形成と教育が必要不可欠であると考えます。そこで、企業で働く人たちや家庭教育の充実を図るために、次代を担う人材の教育とあわせて、子どもたちを健やかに成長させることが、とても重要だと感じています。当社では、従業員の子育て支援とその責務を果たすために「北海道あったかファミリー応援企業制度」等に登録し、家庭教育の一層の推進、及び育児と仕事が両立できる環境づくりに企業全体として取り組んでいます。
――100年の歴史を通じて地域に精通しているからですか
大野 当社は、創業以来の理念としてきた「顧客満足度を求めつつ社業の発展を通じ地域社会に貢献する」ことをモットーとして、技術の向上に全社一丸となって努めてきました。今後も地域の皆様とともに喜びを分かち合える「存在を期待される企業」を目指していきたいものです。
 それを実現するためには、社内においては三つの行動指針を掲げています。一つは「責任の気概を持つこと」で、向上の心を持つことです。企業として地域の持続的発展を目指しながら、常に企業の社会的使命を果たすには、一人一人が心技体をともに向上させなければなりません。
 二つ目は「地域と共生して生きていく気概を持つ」ということで、それには協調の心が必要です。相互理解と協力の下に、スクラムを組んで地域を担っていくことです。
 三つ目は各自がいろいろな考えを持っていますが、考え方が違うからと毛嫌いして排除するのではなく、自分から気持ちを変えてみるという「変革の心を持つこと」です。その理由は「活力の気概を持つこと」にもつながるからです。自分が変わることによって、周囲も未来も変わってきます。
 そのように意識や心を調整し、自分の周りに喜びと満足をどうすれば与えていけるか、そこに心を砕いて行動することです。商行為に喩えるなら、売り主と買い主があり、そこに地域社会があります。この三つが満足し、喜びが与えられるような商いに努めることです。そのためには自ずと変革の心が生じるでしょう。
 この三つの心を実践すれば、必ず周囲から信用と信頼が得られるでしょう。そして、会社が評価される以前に、会社の社員個人が名指しで評価されるようになります。そうした地域住民との絆を作っていくことが大切で、会社の評価は後からついてくるもので良いのです。まずは個人としての自分を、名前を売り込むことですね。
 企業があって街があるのではなく、地域があってこそ企業があるのです。地域を担っていくのは企業ですが、企業は地域によって育てられるのです。だから、常に密接な関わり合いを持つわけです。
 私はあくまでも経済人として歩んでいきたいと思っています。経済人として地域の持続的な発展を担い、企業としての社会的使命を果たしていこうと考えています。

大野 裕一郎 おおの・ゆういちろう
昭和26年1月2日生
昭和51年3月 青山学院大学法学部私法学科卒業
昭和51年4月 大野土建株式会社入社
昭和55年4月 取締役に就任
昭和58年4月 取締役社長に就任
現在に至る

大野土建株式会社のホームページはこちら


HOME