建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2011年12月号〉

interview

被災者を支援し雇用創出で建設業の新分野進出優良企業に

――奥尻島を愛する開拓4代目

奥尻建設協会 会長
株式会社海老原建設 代表取締役
海老原 孝 氏

──社長の略歴から伺います
海老原 生まれたのは昭和29年で、奥尻生まれの奥尻育ちです。私で四代目ですから、奥尻町内でも古い方ですね。奥尻島の南側に土地があり、先代の時に4倍ほどの面積に拡大しました。北海道南西沖地震の直後から離農者が急激に増え、遊休地となった農地の買い取りを要請されたので、やむを得ず取得したのです。しかし、活用しないのはもったいないので、葡萄の栽培や酪農に着手し、ワイナリーを整備したりしました。
──建設業者が葡萄栽培とワイン事業に参入するのは珍しいですね
海老原 葡萄栽培やワイン事業によって、雇用を生みだす効果が期待できます。何しろ、平成5年の北海道南西沖地震災害にともなう復旧・復興事業は5年だけとはいえ、そのために社員や作業員も増えました。その作業員らの中には、跡取りのいない漁師もけっこういて、漁船を手放して建設業に転職してきたのです。  復興が終わったために、その人々を全員解雇するというのはさすがに忍びないので、違う産業を興す必要がありました。それでスタートしたようなものです。
──昭和56年には集中豪雨もありましたが、全社挙げてのフル活動だったのでは
海老原 重機は今でこそ130台近く保有していますが、当時は3分の1だったので、フル稼動で出動しました。9月3日から4日までの2日間、その時の奥尻は過去最大級の321ミリの雨量で、人災は無く、道路や河川の氾濫など、施設関係の復旧が中心でした。青苗川は氾濫には至らなかったものの、周囲の水田が陥没するなど酷い状況にありました。
──そして昭和58年に日本海中部沖地震がありましたね
海老原 5月26日、津波が到達し、犠牲者が2名出ました。当社も直ちに現地での復旧に借り出されました。ちょうど私が函館に出張中にその地震が発生したのです。平成5年の北海道南西沖地震でも、函館に出張中に発生しており、奥尻町に居ませんでした。  それでも奥尻町の現地では、私の指令を待たずに全社員が自主的に出動できる体制はできていました。昭和58年の震災を経験しているので、迅速に対応出来る体制があります。
▲函館建設管理部 奥尻島線災害防除工事(稲穂)(補正)
──それでも地元島民は、より安全な地域へ移住する考えはないのですね
海老原 震災によって一次産業は衰退したとはいえ、国も自治体もその分、農業、水産分野にかなり公共投資をしてくれたので、その効果が現れていますから。  私たちの経営する牧場も、公営の大規模な草地整備を活用しています。ただし、今現在は、政府財政も厳しいので、投資予算は落ちています。
──今年で社長業も32年目で、奥尻建設協会会長という公職も務めていますが、管内はどんな防災体制が確立していますか
海老原 行政機関と災害連絡協議会を構成し、災害時の緊急出動について覚え書きを交わしていますが、管内の防災体制は、渡島・檜山管内の広域については函館建設業協会が中心となり、奥尻町では奥尻建設業協会が災害協定を結んでいます。  平成5年7月12日の北海道南西沖地震は、火災と大津波、土砂崩れにより死者172名、不明者26名、重軽傷者143名の甚大な被害をもたらしました。当時の災害連絡協議会では、役割分担を定め、対策の優先順位を決めるなど、会議が頻繁に行われました。人命救助を最優先として人員を増やし、道路復旧のための啓開作業、瓦礫を処理しました。地元業者ですから被災地の現場には最後まで留まり、すでに抱えている工事現場を全てストップして、会員が一丸となって瓦礫処理に当たり、およそ2ヶ月で終了しました。  地元業者ですから地元住民らとも顔なじみだったお陰で、人員も迅速に増員でき、復旧の優先順位についてもいろいろと譲歩してくれるなど、非常に協力的だったのは助かりました。おそらく島民独特の人情があるのだと思います。その意味では、奥尻はうまくいった事例かも知れません。仮設住宅も即座に設置され、避難者への提供には2ヶ月もかかりませんでした。当社の牧場に砂利を引き仮設住宅の土地の提供をしました。
▲北海道南西沖地震 奥尻町青苗地区 被災後の状況
──災害復旧の過程で、困ったことはありませんでしたか
海老原 みな気を張り詰めて災害復旧には当たっていますが、やはり親族を亡くしたりしているので、ふとした時に寂しい目をしていたり、肩が落ちている様子が見えたりします。島なのでみな親戚関係が多いこともあり、精神的な負担はありました。
──会社としての損害もありましたか
海老原 当社も2人の社員が犠牲になり、私自身も親戚を失っています。社員のうち18人が住居に住めなくなったので、急きょ家族世帯が住める社宅を16戸分、整備しました。港に近い工事現場などでは波を被り、塩水に浸かってしまったので、資材その他は使い物にならなくなります。会社としては1億2,000万円程度の損失となりました。
──そこから復旧・復興に向かっていくわけですが、みな親族も家族も生活手段も生産手段も奪われ、再建に向けて気の遠くなるような状況下で、復旧・復興事業のための雇用創出は大きなプラスとなったのでは
海老原 直面している最中はあまりプラス要素は考えませんでした。被災者としての感情や気持ちの問題もあり、事業が増えて雇用創出が得られるとはいえ、大手を振って喜べる状況ではなかったですね。  むしろ、復興させるためのヴィジョンを早く作りあげ、そして早くスタートさせようという思いばかりでした。  確かに実際に仕事を失った人々がたくさんいましたから、被災者の雇用の場としてはメリットは大きかったでしょう。島内作業員だけでは、到底たりないほどの復旧・復興事業があり、島外で取引関係のあった建設会社に応援に来てもらいました。  また、搬入資材が激増するので、その遅滞にともなう工程の遅延などの懸念材料もありました。そこで協会としては、お互いに融通し合おうと話し合いました。何しろフェリーは一隻しかありませんから、建設資材ばかりを優先してもらうわけにもいかないので、会員は利己主義にならず順番待ちの必要な時は、役所からも協力を呼びかけてもらう形で調整し、スムーズに進めました。
──そして5年後の平成10年に完全復興宣言となりますが、みな納得しての宣言と言えますか
海老原 問題はそこからです。形としては、震災前よりは確かによくなっていますが、復旧・復興事業は終わるのですから、終わった後の島づくりをどうするかが問題です。震災前の産業構造に戻ることはできないでしょうから、違う産業構造を作るしかありません。  そのため、従来のアワビやウニといった特産品とは違ったもので、何かブランド品にできるものはないか。震災で人口は400人くらいが一度に減り、いろいろと産業構造が変わっていくのは見えていました。島全体の資本力の問題もあるので、一人でも多く雇用できるような新たな産業構造を考えてもらい、みんなでできることを、みんなでやろうと取り組んできました。
──島で生まれて四代目としての責任を負いながら、悪戦苦闘したのですね
海老原 そこで、平成13年から葡萄栽培に着手したわけです。ビジネスとして軌道に乗るのは、まだこれからで、投資分を回収するには、まだ2、3年はかかるでしょう。そこに踏み込むかどうかについては、様々な人のアドヴァイスを必要としましたが、とりわけ道からは補助制度について、かなりの情報を提供してくれました。  異業種参入は、近年になって道も後押ししている政策ではありますが、なかなか成功事例は少ないのが現実でしょう。しかし、当社はそれ以前から着所してきたわけです。
──そうまでしても奥尻に止まるのは、地域への愛着ですか
海老原 もちろん、愛着はあります。そこで生まれ育ち、知人もたくさんいて住みやすいというのは大きいです。不便なところもありますが、その不便さを楽しさに変えていけば良いとの考えもあります。むしろ、余りに便利すぎることが楽しさであるのかといえば、それは違うような気がします。
▲奥尻湯の浜温泉「ホテル緑館」
──そうした思いを支えにしながら、様々な異業種に着手していきましたね
海老原 北海道振興の奥尻湯浜温泉ホテル緑館が廃業しました、その建て直しの要請もあったので引き受けることになり、およそ9年で再建しました。しかも、島の最高峰・神威山の伏流水で、湧水は非常に良質とのことで、4年をかけていろいろと実験テストしたところ、良好な分析結果が得られました。  そこでワイン事業の先発隊として、ミネラルウォーターに5年前から着手しています。水で利益を上げるのが目的ではなく、これによって奥尻の知名度を高め、震災にまつわる暗いイメージを払拭し、明るいイメージに変えたいとの考えです。その主戦力として、葡萄をホテル周辺など至る所に植えて、人々が散策しながら眺められるようにしました。  葡萄園そのものは25haの規模ですから、かなりの量です。戦略としては、ワインを発売する前にミネラルウォーター「奥尻の水」で、不採算を覚悟で知名度を高めておくなど営業上の苦労しておき、次に登場する「奥尻ワイン」を売りやすくしようという狙いが当たり、成功したのです。平成20年度の北海道「新分野進出優良企業表彰」に当社は選ばれました。
──島の天然資源とうまく共存したやり方ですね
海老原 共存して何を産業として創りあげるのか、そこが大事ですね。奥尻で新たなブランドが生まれれば、頑張っていることが伝わりイメージアップにも繋がっていきます。  その他、当社には水田もかなりあります。アスパラも15tくらいは当社で生産しています。当社の牧場で飼育する「奥尻和牛」も、これを本格的なブランドにしようと目指し、6年ほど前にブランドとして公認されました。そして、ワインについては全国の中で、島で独自に生産されているのは奥尻島が初めてのケースです。  このように奥尻の良い景観を背景に、海産物も和牛も米もワインもあり、良いものがたくさんあります。島内で自給自足できるだけの産物があるのですから、それを高値で売りつけるのではなく、それらを広く発信し、島外にも出荷できることをアピールして、味見していただきたいと思っています。
──そのように異業種分野は順調でありながらも、本業の公共工事は削減により不振では
海老原 やはり、今年も公共事業は20%も落ちていますね。しかし、それを嘆いていても仕方のない話で、島内での雇用、産業振興などにおいて、私たちの責任は重いですから、どう繋いでいくかは努力するしかありません。公共工事が2割も減ったから、2割分の人員を切るという発想は、個人的には情けない感覚だと思います。その減少分は社内で議論し、なんとか産業興しができないかとという考え方に持っていきたいものです。  ただし、新分野とはいっても慎重さが必要で、本当にノウハウを持った人材がいるのかどうかが問題です。一次産業といっても、土地の問題もあり、気象にも左右されるなど実情は難しいものです。しかも、農地利用にしても、何の作物を栽培するのか。そこまで考えておかなければ、何でもいいから飛びついたところで出来るものではありません。奥尻島は平地面積が限られているので、地元ブランドとまではいかなくても、その土地に適したもので、奥尻ならではのものとしてある程度は受け入れられるようなインパクトあるものが良いと思います。 水産加工業も私たちが担っています。震災によって、従前の加工業者が経営に行き詰まったため、関係者から引き受けを依頼されたのですが、さすがに食品加工の業界はよく知らないので2回ほど断りました。しかし、3度目にはわざわざ本社にまで出向いてこられて、強いてでもとの要請だったので、やむなく引き受けました。今日、明日にも倒産しそうな会社でしたが、10年で再建しました。
──様々な業種の再建を成し遂げてきたのですね。今後はどのような経営ビジョンを描いていますか
海老原 先ずはグループ内の個々の会社について、独立採算を確立したいと思っています。すべてはそこからですよ。一気に着手すると、一つが崩れた場合に全てが崩れるという可能性もあるので、一つ一つ取り組んでいこうと考えています。そして、統合すべき分野は統合しなければなりません。
──グループとしての軸は、やはり建設業でしょうか
海老原 奥尻は公共事業依存度が高い町で、漁業の年間収穫は10億円、農業収益に至っては2億円にも満たないのに対し、土木事業への公共投資は30億円を超えているのです。町として何れかの産業に特化させようとしても、それが倍々ゲームとして発展し、雇用が倍増する見込みはないでしょう。したがって、新分野参入とは言っても、よほど将来性を考慮しなければ失敗します。私たちにとって有利だったのは、そうした各分野のノウハウを持った経験者が豊富だったからです。  ただ、葡萄に関しては、経験者が誰もいなかったのです。そのため、北海道ワインの嶌村彰禧社長と懇意だったことから、待遇は当社で責任を持つことを条件に、2人の社員の研修派遣を受け入れてもらいました。土づくりなどは、元もと私たちも農家ですから知識はありますが、葡萄の育成方法やワインの製法は知らなかったのです。そのため、ワインの製法に関しては、東京のコンサルタントにお願いし、4年間かけて習得しました。そうして、ゼロからスタートしたのです。
▲ワイン工場
──北海道の強風と低温の中で、よく実現しましたね
海老原 それゆえに面白い一面もありました。ミネラル分の強いブドウで作られたワインは、美味であることは知っていましたが、私たちの手がけたブドウは、北海道本土よりもミネラル分が5割増しで多いのです。そのため、ソムリエの感想では「潮の香りがしますね」とのことで、塩分が混じっているのは私たちも承知の上でしたが、香りでそれを嗅ぎ分けるとは、凄いものだと感心したものです。  その塩分を大切に生かして欲しいとのご意見でしたので、そこがこのワインのセールスポイントにもなっています。

海老原 孝 
昭和29年9月5日生
昭和55年5月 海老原建設代表取締役 就任
平成12年5月 奥尻建設協会会長 就任
平成14年5月 道南地区共生生産者協同組合理事長 就任
現在に至る

▲本社外観

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