建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2011年12月号〉

interview

東日本大震災で起重機船を提供

――港湾の整備促進で北海道開発局功労者表彰を受ける

株式会社菅原組 代表取締役 菅原 徹 氏

──菅原組の創業の経緯と社長の略歴からお聞きします
菅原 昭和31年に先代が松前で創業し、今年で55年目になります。設立当時は新会社として実績はなく、仕事を確保するのは容易ではなかったため、他社があまり着手しない港湾土木を重点に参入していきました。業務の9割が港湾漁港です。
 港湾工事は、海が時化で荒れれば施工できなくなり、工期がズレたりするのでリスクも大きいためです。私は昭和26年に生まれ、日大工学部を卒業し49年には地崎工業に入社しましたが、翌年に当社に転職しました。学生の時から建設現場を手伝っていました。その頃は学卒ですぐに工事現場に出る人員はいない時代でした。
──同じ港湾整備でも、地域的な特殊事情もあるのでは
菅原 そうです。渡島管内は日本海側と太平洋側は異なり、特に太平洋側は干満の差があるので、岸壁の工事では引き潮となる夜間施工が中心となります。
──今回の3.11東日本大震災で迅速な支援活動を展開しましたね
菅原 地元での現場も抱えていましたが、日本埋立浚渫協会の会員の企業からはとりもなおさず被災地を最優先で、との要請なので、急いで3月18日に東北太平洋沿岸に向かいました。メンバーは当社の船員と協力会社のダイバー2人を含む9人体制でした。
 こうした場合は、被災地には宿泊所はないので、作業船は有利です。特に作業船を拠点に活動するスタッフは、その船で寝泊りができます。しかも、地元からの支援物資も積載して搬送できるので、函館建設協会が提供する生活必需品などの支援物資を大船渡市に届けることができました。
 また、函館市の要請により、当社の作業船を含む2隻で230隻の義援船を久慈市へ運搬し、協力しました。後日、久慈市長がわざわざ函館市役所や当社の社屋にも来られて、私たちは感謝状を頂きました。
▲義援船
──現地はどんな状況でしたか
菅原 現地入りしたスタッフの話では、まさに戦災による焼け跡のようで、酷い状況だと言っていました。現地当局の指揮で、瓦礫の撤去や啓開作業と航路確保に当たりました。ダイバーらによると、海底は濁っている上に、犠牲者のご遺体が浮上してくることもあり、過酷な作業だったようです。
──平成5年の北海道南西沖地震による港湾・漁港の災害復旧なども経験していますね
菅原 南西沖地震では、森町の港や松前港などで復旧に当たりました。その時は岸壁の大規模な液状化と亀裂などの被害が出ました。作業は原型復旧ですが、松前港であれ森港であれ、菅原組は、数十年にも渡って港湾施工に当たってきた実績はあり、複数の作業船を保有しているので、迅速に対応できたのです。
▲岩手県久慈市より贈呈された函館義援船入港記念盾
──今回の東日本大震災では、北海道・八雲町での影響が大きかったようですね
菅原 八雲町では、ホタテの養殖施設がかなりの被害を受けました。養殖施設が壊滅状況で、被害範囲は八雲町から森町にまで至りましたが、幸い森町の被害は軽く済みました。
 当社ではインフラばかりでなく、そうした生産施設の設置や、転覆した漁船の引き揚げなど、本業外でも地元建設会社と協力しながら作業船を活用してきたので、地域から高い評価を頂いています。震災復旧の最中ではあっても、養殖となると期間が限られるので、これは後回しにはできません。
──それを思えば、こうした作業船は海岸地域には必要ですね
菅原 確かに必要です。逆に、無くなれば大変なことになりますね。東北の復旧・復興にしても、あれほどの規模の港湾・漁港ですから、全国から作業船をかき集めて集結しなければならないでしょう。近年はそれほど大規模な工事が行われていませんが、日本全国の工事がゼロというわけではありませんから、全ての作業船が東北に集結することは無理でしょう。
──むしろ、公共工事が激減したので、全国的に作業船の数が減っているのでは
菅原 北海道で見ればそうでしょう。当社では横ばいです。今後とも港湾・漁港分野だけで生きていく方針ですので、作業船を手放すわけにいはいかず、もしも地元で工事がなくなれば、本州へ出ることになります。その分野に特化しているからこそ、これまで作業船に投資し、体制を維持してきたのです。
▲田野畑漁港 ▲山田漁港 ▲気仙沼港
──工事が減ってくると、営業エリアを変更していくしかないですね
菅原 今では最盛期の3分の1ですから、地元だけでは維持できなくなり、みな作業船を手放していますが、そうした会社の港湾関連の受注比率は、全体の2割程度です。
 反面、当社のように直轄も含めて港湾・漁港だけに特化していれば、その関連工事は6割に減ったり、半減することはありますが、ゼロになることはありません。その減少分は他のエリアで補足すれば良いのです。
──港湾・漁港整備の専門的立場として、新分野進出の可能性は
菅原 松前漁組のコンブ養殖事業が縮小していく中で、共同で当社も参画することになりました。3年前から検討していたもので、これに限らず当社はいろいろな分野に進出してきています。漁師も高齢化で低下してきており、組合としてもせっかく養殖施設に投資したのに水揚げは上がらず、大変な状況です。
 そこで、空いている施設を活用し、当社が独自に投資しすれば、雇用も生みだせると考えたのです。当社には元漁師だったスタッフも多いので、そうした人々が60歳になっても再雇用が可能になります。これまでは老夫婦が細々と携わっていましたが、会社として作業船を動員すれば、より大規模で効率的な漁ができるでしょう。組合としても、水揚げが増えれば売上げも増えるので、大きなメリットになります。
 松前は漁師の町であり、一町だけで13〜14もの港湾と漁港があり、ほとんどの港も当社で施工を手がけてきました。そうして地域からお世話になっていることもあり、地域を良くするためには前浜は大切ですから、当社としても貢献したいと考えています。
──養殖にも専門のノウハウが必要では
菅原 その分野の専門職が組合におり、そのノウハウをこの3年で導入したのです。ただし、農業の生産法人とは違い、あくまでも当社は組合員にはなれないので、組合との共同作業という形しかとれません。そのため今後は、どんな体制にするのが適切であるのか、思案しているところです。松前は漁師町ですから、地域とつながりを持ちながら、この事業が活性化に繋がれば良いと期待しています。
 もちろん、松前だけでなく函館もエリアですが、せっかく私たちが施工した施設が、活用されることなく遊休しているのでは、何も生み出しません。
 ただし、私たちはあくまで企業ですから、ただ手伝えば良いというものではありません。投資がともなえば、回収も必要になるので、組合とタイアップして助成を受けながら始めたわけですが、これが本格化すれば助成に頼れなくなるので、3年から5年という目途で取り組まなければなりません。そこで採算が合わないようであれば、続けることはできません。
──成功し定着して欲しいですね
菅原 養殖事業そのものは、収穫分を間違いなく組合が買い上げてくれるので確実ですが、それ以上に諸経費がかかるのが問題です。そのため、より高く売れるための加工や販路開拓など、工夫が必要で、そこに悩みがあります。
 研究開発にはこれまでも取り組んでおり、特許も得ています。子会社も設立し、体制も整っていますが、この不況下ですから平坦ではないでしょう。
▲松前町のコンブ
──農業の場合はTPP交渉参加に対応するために、手篤い保護政策がありますが、水産業にも必要になるかも知れませんね
菅原 もちろん必要です。日本海の前浜では、漁家の年収は200万円もあるかないかですよ。養殖でも厳しいですが、それ以外はとかく一攫千金で不安定です。ところが、日本海では時化が多いために、養殖が安定的にできないのです。そうした事情から、日本海側の漁家経営はもちろん、組合の経営も苦しく、農業の方が恵まれていると思います。したがって、漁業も農業と同じように、生産法人というものを認めてもらうことが必要です。
──今回の震災を機に、宮城県知事が漁業特区構想を打ち出しました
菅原 最初のうちはそれも良いでしょうが、しかし前浜はあくまで前浜単独で独立しているので、集約化は難しいのではないかと思います。通勤するように前浜に通うにも、燃料が割高になってきており、コスト面で難しいものがあります。それほど採算が合わない産業なのです。
──今後は被災地で復旧・復興も始まってきていますが、会社としての取り組みは
菅原 三次補正が決まり、復旧・復興工事も本格的にスタートするので、港湾・漁港分野に関しては視野に入れています。すでに現地となる大船渡市内には仮設事務所の設置を検討し、体制を固めています。直接受注は無理なので、地場ゼネコンと組む形となりますが、下請けであっても元請けと同じように、独自に全てをこなせるような体制づくりが求められています。
 何しろ、技術者も作業員も足りず、宿泊所もない状況ですから、全てを自給する必要があり、それができなければ、現地では受け入れられません。そして、作業は浚渫ばかりではなく、岸壁を含めて様々な施工に当たることになります。
──今回の復旧・復興事業は、会社としての存在意義を賭けたものになりますね
菅原 当初から港湾・漁港の分野で生きてきたので、利益は度外視しても貢献できます。まずは復旧活動をお手伝いすることが第一義です。
──そうした実績が生きて、今回は国土交通省北海道開発局から港湾施工に対して港湾関係功労者表彰されましたね
菅原 当社は港湾・漁港にかけては、技術と技能に優れた人材は1との自負を持っています。これまでの当社の経歴が認められ、このような賞を頂いたことに感謝致します。今回の受賞を足掛かりに、今後とも創意工夫を持って微力ながら全力を尽くして参ります。

菅原 徹 すがわら・とおる
昭和26年5月17日生
昭和49年3月 日本大学工学部土木工学科 卒業
昭和49年4月 株式会社 地崎工業 入社
昭和50年4月 株式会社 菅原組 入社
昭和55年度施行 函館土木現業所 白神漁港修築工事外の現場代理人
昭和56年度施行 函館開発建設部 松前港改修工事の現場代理人
昭和57年度施行 函館土木現業所 白神漁港修築工事外の主任技術者
昭和58年度施行 北海道教育委員会 北海道稜北高等学校新築外構工事の主任技術者
昭和59年 7月 常務取締役に就任
平成 3年 5月 専務取締役に就任
平成 7年 3月 代表取締役に就任
現在に至る


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