建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2011年11月号〉

interview

順境におごらず、逆境に屈せず

――起重機船導入で海洋土木に参入

伊達市建設協会 会長
北紘建設株式会社 代表取締役社長
笹山 智市 氏


 伊達市に本社を置き「地域一番店」をめざしている北紘建設の笹山智市(ささやま・ちいち)社長を訪ねた。先代の父親が創業した同社は、来年で50周年を迎える。二代目は33歳の若さで社長に就任。財務体質の強化、社員教育の徹底による技術力の向上を最重点に会社を牽引してきた。現在、伊達市建設協会の会長、伊達建設事業協同組合の理事長を務めるなど、地元経済界の若手リーダーとしても人望を集めている。「国立公園の洞爺湖の温泉街が2000年有珠山の噴火から完全に立ち直っていない。洞爺の復興が地元の最大の課題」と強調した。
──まず会社の概要からお聞かせください
笹山 わが社は昭和38年3月9日、私の父親が伊達市で創業したのが始まりです。来年の平成24年で創業50周年を迎えます。
──先代の背中を見てきて、この道を志したのですか
笹山 そうですね。土木の世界は夢がありました。
──北大工学部に進んだのは、社業を引き継ぐ気持ちが強かったということですか
笹山 建築を選んだのは、いずれは土木も建築も手掛けたいという夢があったからです。建築工学科のなかでも材料工学といいまして主にコンクリート工学の勉強をしました。コンクリート工学なら土木にも建築にも共通の面がありますから。
──大学卒業後に就職したは戸田建設ではどのような仕事をされていましたか
笹山 主に建築の現場回りでした。勤務地は東京と名古屋でした。わたしが入社した昭和55年は、新宿アルタが戸田建設の単独施工で竣工した年でした。その点では思い出深く、建築の魅力を感じた時期でしたが、急きょ2年足らずで伊達に戻ることになりました。
──まだ戸田建設にいたかったのでは
笹山 そうですね。今になって振り返ると、北紘建設としては土木専業で今日に至ったのが正解だったように思います。
──戸田建設を退職後、すぐ北紘建設に入り、間もなくして総務部長に就任しています。経営学を身に付けさせようという、先代のお考えがあったのでしょうか
笹山 財務、経理を中心に内部体質をどう強化するか。それが私自身のテーマでもありました。当時の工事高は13億程度だったと思います。財務体質や社員教育の強化により収益性の向上を図り、「地域一番店」をめざすことを目標に掲げました。ISOの取得も社員教育の一環として取り入れたのが私の狙いでした。管内でわが社が最初にISOを取得しました。
──平成3年に30代で社長に就任されましたが、いろいろご苦労されたのでは
笹山 33歳でしたから私なりに苦労はありました。財務体質の改善、社員教育の徹底が私のルーティンになっていましたから、苦労はあっても楽しかった思いが強いですね。
──これまで様々な公共事業を手掛けてきましたが、社長として思い出に残っている現場は
笹山 一番思い出に残っているのは、やはり2000年の有珠山噴火の際、当社が最初の工事を受注したことです。災害査定を受けていない時で、維持工事として発注されました。洞爺湖町にある板谷川の砂防災害工事が一番の記憶に残っています。
──緊急災害復旧工事ですね
笹山 まだ噴煙の上がっている時で、1日の作業時間も限られていました。雨が一番怖かったですね。沈砂地のなかの土砂を掘削しましたが、中に入って私が現場を巡回している最中に石が跳ねるという状況のなかでの作業でしたし、現場の地面がまだ熱いという状況で、いまだに忘れられません。3か月ほどの工期でした。
──地元の会社でなければ対応できない工事ですね
笹山 災害等の緊急時には、他の現場を捨てでも真っ先に対応するのが地元企業の使命だと考えています。
──有珠山噴火での災害時、他に気づかれたことはありませんか
笹山 災害時の道路のインフラ整備が不足していることは2000年の有珠山噴火で明らかになりました。温泉街に入る国道230号線が分断されたので、230号に代わるバイパスが確保されていませんでした。
──起重機船「第1まさむね号」が平成6年に就航し、海岸港湾工事にも参入しましたね
笹山 これを機に水産土木の事業に参画できるようになりました。
▲起重機船(第6まさむね号)
──次に地域社会と建設会社の役割についてお聞きします
笹山 地域にとって建設業は必要不可欠な産業だと思っています。公共事業が激減している逆境に耐え、会社の財務体質を強化しながら淘汰されない会社づくりをめざすことが最大の目標です。高度な技術を持った技術集団になることで地域一番店をめざしたい。  これは私の持論ですが、財務体質が健全で高い技術力を持ち、地域から信頼され、必要とされる経営を行っている企業にとっては、これからが新たな発展のチャンスのはずです。私が昭和31年に生まれてからでも2回噴火している有珠山の麓である伊達市では建設会社が減少している現状にありますが、このような考えのもとで地域一番店になれば、一つのビジネスチャンスになると強く思っています。
──平成11年に伊達市建設協会の副会長、17年には会長に就任されましたが、この地域の現状についてお聞きします
笹山 私も含め、当社社員も2000年の有珠山噴火時に避難した経験があり、3.11の東日本大震災は他人事とは思えません。洞爺湖も有珠山噴火から立ち直ったように見えますが、温泉街は観光業として全然成り立っていません。洞爺湖サミット効果は一時的なものに過ぎませんでした。  大型ホテルの閉鎖が相次ぎ、どんどん疲弊しているのが現状です。このことを強く訴えたい。ハードなインフラ整備は当然必要なことですが、洞爺湖の観光産業の復興には、別な視点で国なり道なりの支援策が欠かせません。そうでなければ街は生き返らない。われわれが一番悩んでいることです。災害からの復旧はしても復興宣言は全然できていません。  胆振西部の1市3町は、昔から「北の湘南」と言われているほど、夏は涼しく、春と秋は晴天に恵まれている期間が長い。この地域特性生かした事業展開を行っていきたいと考えています。  私は伊達市建設協会の会長のほかに伊達建設事業協働組合の理事長を務めており、5年前、伊達市から組合として宅地造成に参画の打診があり、プロポーザルに参加して53区画の分譲を開始しました。伊達市認定の優良田園住宅建設事業で、「田園せきない」と称しています。既に50区画が完売しました。福岡、京都、東京、神奈川など1/3が道外で、道内も約1/3。カナダから移住したケースもあり、現在37世帯がここで暮らしています。移住定住者の宅地造成としては全国的にも成功した事例と自負しています。医療施設も整っており、伊達は「老後に住みたい街」としては全道一でしょう。
▲虻田漁港特定漁港漁場整備工事1工区
──温泉街は復興宣言に至っていないとのことですが、一方では移住定住者を積極的に受け入れるためのまちづくりを進めるため、宅地造成など建設業がその一翼を担っているのですね
笹山 新しいまちづくりを着々と進めながら、一方では噴火に対する危機管理にどう取り組むかが大きな課題です。洞爺湖サミットも洞爺湖有珠山ジオパークも洞爺湖温泉の復興の契機になりましたが、従前の活況には至っていないのが現状だと思います。当面は東北の復興が最優先ですが、3.11では噴火湾のホタテも被害を受けており、東北と同様に復興が必要です。
──会社の経営にITを大いに活用されているようですね
笹山 個人的にはアイパッドを活用しています。会社の22年から26年までの損益計画など各種はデータが入っています。入社時の誓約書といった文書管理にも対応できます。外にいても連絡はすべてメールで対応します。
──電気自動車も調達したとのことですが
笹山 今年2月に3台納車になりました。胆振管内の建設業界で一挙に3台入れたのはわが社が最初です。室蘭、洞爺湖方面の営業活動に利用しています。会社と社長宅に充電設備を設置しました。地域に根ざす建設会社としてエコでも貢献しようと思い、環境負荷の少ないEV(日産リーフ)の導入を決めました。  今後とも地域と共に歩む建設会社を目指して、社員一同努力していきたいと思います。
▲100%電気自動車 日産リーフ(胆振管内で初めての導入)

笹山 智市 ささやま・ちいち
昭和31年10月17日生
【略歴】
昭和55年 3月 北海道大学工学部建築工学科 卒業
昭和55年 4月 戸田建設株式会社 入社
昭和56年 9月  同 社     退職
昭和56年10月 北紘建設株式会社 入社(総務部長)
昭和60年 4月  同 社 専務取締役 就任
平成 3年 1月  同 社 代表取締役 就任
現在に至る
【公職】
平成 9年 6月 室蘭建設業協会 建築委員会 委員
平成11年 6月 伊達市建設協会 副会長
平成11年 6月 胆振水産上木協会 幹事
平成13年11月 伊達商工会議所 常議員
平成17年 6月 伊達市建設協会 会長
現在に至る


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