建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2010年10月号〉

interview

伝統的な家族経営で地域の雇用と安全を守る

――食糧生産基地で地域防災パートナーとして活動
  更別村の代表するイベント「国際BAMBA」の発展に貢献

株式会社 山内組 代表取締役社長 山内 信男氏

山内 信男 やまうち・のぶお
昭和29年 帯広市生まれ
駒澤大学経営学部、中央工学校土木建設科 卒業
昭和53年 株式会社山内組 入社
昭和57年 同社 専務就任
平成 元年 同社 社長就任
株式会社山内組
河西郡更別村字更別南2線94
TEL 0155-52-2311

 十勝管内更別村で創業して来年で50周年の節目を迎える山内組の二代目社長の山内信男氏は、山内義人創業社長(平成4年逝去)の健康上の問題もあって、弱冠34歳の若さで社長に就任、会社のけん引役として陣頭指揮にあたっている。「立志伝中」の人と言われた先代社長の経営方針を受け、家族的な経営で地域の雇用を守り、日本一の大型農業の更別村で社会基盤整備に取り組む。また、平成15年に始まった「国際トラクターBAMBA」を、更別村を代表するイベントに育て上げた。本業以外でも幅広く地域貢献してきた同社だが、公共事業の大幅な縮減や競争激化の中で、転換期に差し掛かっていることも否めない。老舗のカジ取りにどう立ち向かおうとしているのか、同社長に聞いた。

――会社の概要から伺いたい
山内 昭和36年4月に親父が更別村で砂利採取業を始め、翌37年に建築業を登録し、役場から維持工事や牛舎の建築などを請け負うようになり、44年には有限会社山内組として法人化しました。
――「立志伝中の人」と呼ばれた先代は平成4年7月、62歳の若さで亡くなられましたが社長からみてどのような存在でしたか
山内 父は福井県からの渡道二代目で、帯広市郊外の大正地区で農家の八男として出生しました。当時は祖父の跡を継いで農業を営んでいました。親父は若い時分から建設業に興味があったようで、昭和33年、私が5歳の時に新天地を求めて更別村に移り、役場からの払い下げのトラック1台で建設業の第一歩を踏み出しました。  親父と従業員の2人だけのスタートだったようです。早朝に弁当5食分を持ち、寝る間も惜しみ一心不乱に働いたそうで、当時は役場から頼まれた道路の補修維持の仕事が中心だったようです。
――社長は最初から先代の仕事を継ぐつもりでしたか
山内 東京で一度生活してみたいと思っていましたので、都内の大学に進みましたが、文系でしたので、4年の時に土木建築の専門学校に通って勉強しました。53年に卒業して帰郷、山内組に入社しました。当時の年商は5億円でしたが、公共工事の発注量も伸びていた時代で、3年間の現場経験を積み、その後は営業活動に専念していました。
――十勝管内の建設業界でも若くして社長になりましたね
山内 親父が体調を崩したので、平成元年、34歳で専務から社長に就任しました。
――来年で創業50周年ですから、会社の歴史のほぼ半分は二代目が作ってきたことになりますね
山内 実弟(山内俊男)が副社長で頑張ってくれています。お互いの役割分担を決めていますが、他人同士よりもかえって気を遣う面はありました。社長の私が営業の前線に立ち、副社長が会社を守る関係はしっかりと構築したつもりでいます。「血は水よりも濃い」だけに、信頼関係さえあれば兄弟の強みを発揮できます。
――建設業を取り巻く経営環境は厳しいものがありますが、山内組の社長として今後の会社経営のカジ取りをどのように考えていますか
山内 会社の年商はピークの平成12年で22億円に上りましたが、その後は、下降線をたどり、昨年は12億円弱、今年はその半分ぐらいと予想していますので、会社の規模を縮小しないとやっていけないかもしれません。  官庁工事は最低制限価格が設定されていて、落札するのが難しい。十数社の企業が同額のため、くじ引きで決めることはよくあります。落札は至難の業です。いまの体制では、下請業務を受注しても赤字が膨らむばかりです。元請と下請のバランスを考えて、経営体制を改革することも真剣に考えなければならないと思っているところです。  ただ更別本社で60人、季節労働者を除いても50人弱の従業員を年間雇用しています。会社の規模からして従業員は多いほうでしょう。景気のいい時期は「更別村に定住」することを条件に社員を採用していた時期もありました。地元の「安全・安心」を守るのは、当社だけという自負もあります。車両、機械も合わせて100台ほどありますから、他の元請会社とは会社の形態が少々違います。  車両の燃料だけでも年間の調達額は1億円になります。親父からも「よそ様には迷惑をかけるな」「地元の商売を脅かすな」と言われてきましたので、地元のガソリンスタンドから仕入れています。「地元で可愛がられる会社」を目指してきましたので、何としても更別に根を下ろして頑張るつもりです。
▲トラクターBAMBA
――更別は総面積の70%が耕地という代表的な農業地帯で、災害時の対応にしても建設業は地元になくてはならない存在ですね
山内 大雨でも降ればいつでも出動できるよう社員を待機させます。社員は会社の近くに住んでいますので。運転手にも「今日は絶対に酒は飲むな」と念を押し情報収集に努めます。「山内組に連絡すれば15分、20分で来る」と、関係機関からも頼りにされています。河川が増水し農地に被害が及ぶ恐れがあれば、明渠に土のうを積んだり、河床を掘削して農地冠水を防いだり、また春の融雪時期に出動することもあります。
――これまで多くの工事を手掛けてきていますが、特に社長が印象に残っている現場は
山内 例えば、暗渠排水工事などは、建設機械が埋まるような現場で工事したことがありますが、暗渠の効果で農地の生産性が一気に上がり、農家さんには大変喜ばれました。  上流部で開墾や森林の伐採で耕地面積が拡大すると、降雨量に関係なく河川の水量が増え、それまで森林が吸収していた分が明渠に流れたりするので、二次改修が必要になります。道路の舗装工事のようなもので、農地整備を一度行っただけで放置したままだと荒地になります。
――更別は昭和40年代にそれまでの農耕馬に代わってトラクターの導入が本格化し、1戸あたりのトラクター保有台数は4.4台と日本のトップクラスです。国内初のトラクターレースが注目を集めていますが、社長は「国際トラクターBAMBA」の実行委員会でも活躍されていますね
山内 更別の地域資源は観光、農産物ぐらいしかありませんでした。観光といっても、自然豊かな景観だけではリピーターは来ません。そこで更別の活性化のアイデアとして生まれたのがトラクターレースのイベントです。十勝のばん馬競争に更別のトラクターを引っ掛けました。  平成15年の第1回目は、商工会の副会長だった私がイベントの陣頭指揮にあたり、100人を超す実行委員は各界各層から参集しました。公務員も企業経営者も農家も、青年も同じレベルで取り組んで実現しました。昨年まで7回続き、ここ1〜2年は1万人以上の人出でした。今年は口蹄疫の影響で中止しましたが、来年は開催の予定です。
――地域の活性化にも取り組んでいるわけですね
山内 更別村の中心市街地から6kmほど離れた地域で、更別村が団地造成(上更別オークヴィレッジ)を計画し、プロポーザル方式で業者を公募しました。帯広の不動産業者トラッド鰍ニ共同事業体を結成して取り組み、結果的に当社が採用されました。  区画数は19区画で、1区画当たりの面積は213坪から413坪で、さまざまなライフスタイルに対応できる広々とした団地です。東京・羽田空港から1時間30分で帯広空港に着きます。帯広空港からは15分程度の所にあり、「首都圏域と隣接した田園・更別村」の移住・分譲地です。上更別オークヴィレッジは『広大な日高山脈が眺められる上更別の地で「だんらん」「やすらぎ」「交流」のスペースを提供する 宅地分譲地。都会では叶うことができない、ときめくような生活を築き出せる空間です』 というのがセールスポイントです。  役場には、別荘等の利用条件の見直しをお願いしているところです。
▲Berg(ベルグ)
――共同住宅の建設にも着手していますね
山内 まちの中心部に賃貸住宅(Berg・ベルグ)を建設しました。3階建てのおしゃれなデザインで、地元に喜ばれています。会社としては感謝の気持ちで取り組みました。更別村賃貸住宅建設促進事業を活用した住宅です。オール電化で駐車場は1戸2台分です。
――道は建設業界の新分野進出を後押ししています
山内 新分野への進出が注目されていますが、私としては慎重に考えています。
――来年の50周年の記念事業は計画していますか
山内 わが社は親父の代から恒例の大運動会を開催しており、これまで24回続けてきました。毎回家族を含めて200人が参加していました。景気も悪いので3年前から自粛しています。40周年の時は夫婦ペアで十勝川温泉旅行招待を実施しました。来年の記念事業については、実施を含めてどうしたらいいものか悩んでいます。

会社沿革
昭和36年4月 砂利砕石運搬業 山内砂利開業
昭和37年4月 建設業知事登録 土木請負業着手
       山内組に改名
昭和44年3月 有限会社山内組に法人化
昭和48年6月 砂利砕石プラント工場落成
昭和54年1月 株式会社山内組に変更
昭和59年8月 帯広に営業所開設


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