建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2010年3月号〉

特集

今に生きる岡ア流自然主義と捷水路の治水手法

石狩川治水100年の歩み


▲石狩川
▲明治31年9月9日砂川市街浸水の状況(北海道大学附属図書館蔵)


明治31年洪水で治水計画に着手
 石狩川は大雪山系の石狩岳を水源としており、アイヌ語で“曲がりくねった川”を意味する。流域面積は全国で2番目の14,330kuで、幹川流路延長は268kmと全国で3位の一級河川だ。
 石狩川の土地利用は、明治2年の開拓使の設置に始まり、下流域の低平地が農地や住宅地として開墾された。一方、北海道の治水事業は、明治13年に開拓使がオランダから雇い入れた技術士・ファン・ゲントによる石狩川の調査が始まりで、当時は水運利用が目的であった。
 しかし、土地利用の進行に合わせて、洪水による被害も深刻化していった。明治31年9月に発生した大洪水の被害は甚大で、氾濫面積は1,500kuに及び、死者112人、流失倒壊家屋2,295戸、浸水家屋1万6,000戸に上った。また、農業被害も耕地面積4万1,000haが浸水し、作物は全滅状態となったために入植者の一部は離農を余儀なくされた。この大氾濫が、本格的な治水計画の策定に向けた調査の契機となった。
 明治天皇は、片岡利和侍従に約40日間もの被害地視察を命じ、一方、近衛篤磨北海道協会会頭は治水の必要性を訴え、内務大臣をトップとする調査会の設置を請願した。これによって、旧内務省北海道廰に「北海道治水調査会」が設置され、11人の調査会員が発令された。
 この時、中心的役割を果たしたのが、北海道廰技師であった岡ア文吉である。


初代所長・岡ア文吉の功績
 岡ア文吉は明冶35年に、欧米視察を経験していた。北米ミシシッピー河をはじめ、ヨーロッパ各地の河川計画や工事例を収集し、石狩川の治水事業計画立案に役立てるためで、当時の欧米では航路維持のために、直線的な河道改修ではなく自然の蛇行を生かす工法が主流で、岡アはこの手法を石狩川の治水計画に適用しようと考えた。
 そして、37年7月に発生した大洪水では、石狩川の広範囲な氾濫域において詳細な水位観測に当たった。そのデータを基に、岡アは独自の計算方法によって下流対雁地点(現石狩大橋地点)の洪水量を毎秒8,350m3と算出。その算出方法とデータの精度は高く、他の河川では流量の改訂が相次いでいたにも関わらず、昭和40年の新河川法施行に基づく工事実施基本計画が決定されるまで、石狩川治水の基本データとして用いられた。
 北海道治水調査会は明治36年に廃止されたが、その後も調査会で収集された資料に基づき、石狩川治水計画は検討され、その成果は42年に「石狩川治水計画調査報文」として岡アの手でまとめられた。そして、43年からスタートした北海道第一期拓殖計画で、石狩川の治水事業は根幹事業として位置づけられ、本格的に実施されることとなった。
 その実施に当たる組織として、同年に「石狩川治水事務所」が設置され、岡ア文吉が初代所長に就任。これが現在の石狩川開発建設部の祖となった。本格的な石狩川の治水事業100年に及ぶ歴史の幕開けである。

▲岡崎式単床ブロックの運搬 ▲単床ブロック工施工(締切堤法面) ▲単床ブロック工施工

▲石狩治水計画平面図
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岡ア式単床ブロックと捷水路
 岡アの治水における理念は、船運に配慮した欧米の治水整備の事例に則り、自然な川筋を維持しつつ流量を安定させる手法で、これを「自然主義」と称して、独自の学説を提唱していた。
 石狩川治水事務所長のほかに函館築港事務所長を兼任していた岡アは、その思想に基づき船運利用を促進するため、河道の湾曲部の決壊を防止する「コンクリート単床ブロック」を考案した。これは経済性だけでなく強度や耐久性にも優れ、河床の変形に対する適応性や勾配の急な箇所での安定性も高く、抵抗が少ないために断面を阻害することもなく、しかも組み立ては簡単で施工が容易であるという秀でた工法であった。これが「岡ア式単床ブロック」と呼ばれるもので、アメリカの技術誌「米国エンジニアリングニュース」に論文が収録され、後に日本だけでなく中国の治水事業でも導入されるほどの普及をみた。
 一方、自然主義の治水思想とは別に、もう一つの方策として見逃せないのは捷水路方式である。岡アは、当初、自らの治水思想に基づいて舟運に適した河道はそのままにして、不良な部分を改修し、洪水だけを新水路に流す放水路方式(2本の河道)を提案したが、その後、河道の改修方針は、大正6年に捷水路(1本の河道)方式に変更された。これは、大きく湾曲した流路を切り替えて短縮する手法で、流路を短縮することで河川の勾配を上げ、流速と掃流力を増すことにより、水位を低下させて安全度を高める効果がある。同時に、水位を下げることで湿地帯の排水を促し、住環境の改善や農耕地化を可能にする。支川となる放水路を新設した場合は、本川と同様に堤防整備が必要となるが、捷水路方式では本川だけで済む。このほか、捷水路方式に変更した理由として、道路や鉄道の建設が進み、交通機関としての舟運の依存度が小さくなってきたことが背景にあった。
 岡アの治水思想は、自ら「自然主義」と称した自然の蛇行河川を保護し、応用しようとしたことに表される。河川防御と同時に舟運を促進するため、河道の澪筋の維持を重視したものであり、河道を安定化させる単床ブロックの開発を行った。岡アが当初理想とした「自然主義」は変更されたかに思われるが、河床の変化や形状を考えた河川計画は、現在の改修にも引き継がれており、現代の石狩川に生き続けている。

▲エキスカベーターによる掘削(木製の五合積土運車で運搬) ▲エキスカベーターによる新水路の陸上掘削 ▲浚渫船「昭和号」(昭和2年配置・ポンプ船・浚渫能力300m3/h)
▲昭和50年8月洪水 石狩川左岸 大曲左岸築堤の越水破堤状況(美唄市)(「石狩川(下流)河川整備計画」より)

▲昭和56年 茨戸川への三川合流(伏籠川・創成川・発寒川)氾濫状況(札幌市)


石狩川治水事務所の変遷と治水整備の歴史
 明治43年に北海道庁内に設置された石狩川治水事務所は、大正11年に札幌市北1条東2丁目に専用事務所を新築移転した後、昭和3年には札幌第一治水事務所と第二治水事務所へと組織体制が拡充された。
 昭和7年に両事務所は札幌治水事務所へと統合され、14年に石狩川治水事務所へ改称。
 その後、昭和25年の北海道開発法施行に基づき北海道開発庁が発足し、翌年には北海道開発局が設置されたことにより、旧北海道庁石狩川治水事務所も北海道開発局石狩川治水事務所へと組織変更された。昭和39年に現在地の北2条西19丁目に移転し、40年4月から札幌開発建設部治水課を統合して、今日ある石狩川開発建設部へと改称された。
 堤防工事においては、滝川市街堤防を大正14年に完成し、深川市街堤防を昭和11年に完成させたほか、月形市街堤防も昭和12年に完成した。江別より下流域では、生振捷水路等の掘削土を利用した堤防工事を行い昭和14年に概成。河口付近では、来社導水突堤(水制)の工事を昭和9年から実施し、昭和14年に完成したが、戦争末期から昭和26年までは、治水事業が中断されたため、治水史の空白時代となった。
 昭和28年に策定した石狩川改修全体計画では、明治42年に岡崎が策定した石狩川の洪水量8,350m3/sを踏襲し、治水効果が早期に発揮できるように計画高水位まで盛土する暫定堤防、河道拡幅工事等を実施した。32年には、支川幾春別川に北海道初の多目的ダムとなる桂沢ダムを建設したが、36年7月と8月に大洪水が発生し、あらためて堤防未整備地区の解消を重点目標と定めた。
 昭和39年に新河川法が制定されたため、40年に策定された石狩川水系工事実施基本計画においては、石狩大橋地点における基本高水のピーク流量を9,300m3/sと変更し、うち上流ダム群により300m3/sを調節することで、河道への配分流量を9,000m3/sに設定。
 42年に支川空知川に金山ダムを建設し、44年には石狩川最後の捷水路となる砂川捷水路が通水。
 一方、河口部では砂嘴が発達して河口部の位置が定まらなかったが、48年の導流堤設置でようやく安定した。
 連続した堤防が概成してきた昭和50年8月には、計画高水流量に迫る大洪水が発生し、軟弱地盤上の堤防の沈下箇所からの越水・決壊により多大な被害に見舞われた。そのため、石狩川の美唄川合流点から夕張川合流点間は、我が国で初の激甚災害対策特別緊急事業により、災害復旧が行われた。
 これにより、計画高水位より0.5m高い堤防の盛土、河道掘削や護岸工事等の抜本的な改修を5ヵ年で実施。堤防は、泥炭等の軟弱地盤地帯に盛土するための基礎処理として、パイルネットエ法を開発した。この工法は高速道路や鉄道の盛土工事でも採用されている。
 さらに、昭和56年8月には、計画高水流量を大きく超える歴史的な大洪水が発生。石狩川本川及び支川で堤防が決壊する甚大な被害が発生した。このため、石狩川本川及び支川において、再び激甚災害対策特別緊急事業として堤防整備、河道掘削、護岸工事等を行った。また、この時に行われた洪水時の流量、河床形態の変化等の詳細な調査結果が、後の石狩川の計画の基礎データとなり、河川工学の進展に大きく寄与するものとなった。
 これらの洪水を契機に、57年3月に石狩川水系工事実施基本計画を全面的に改定し、石狩大橋地点の基本高水のピーク流量を18,000m3/sへと改訂。洪水調節施設により4,000m3/sの調節を行い、計画高水流量を14,000m3/sに設定した。  この計画に基づき、河道断面を確保するための低水路掘削や浚渫を重点的に実施し、併せて平成11年には支川空知川に滝里ダムを建設した。また、62年には石狩川中流部の砂川遊水地の建設に着手し、平成7年に完成した。
 一方、50年、56年と度重なる内水被害を受けた地域では、53年に滝川排水機場、深川排水機場、62年に美登位排水機場、平成2年に池の前排水機場、3年に新篠津排水機場を整備。また、平成2年より現在の多自然川づくりの先駆けともいえるAGS(AquaGreenStrategy)工法による護岸整備等が行われた。
 平成7年からは、江別市に洪水時の水防活動の拠点や避難地となる河川防災ステーションを整備し、また情報伝達基盤を充実させ、河川管理の高度化や防災体制を強化するため、光ファイバー網の整備に着手。順次整備を進めている。  そして近年では、平成9年の河川法改正に伴い、石狩川水系河川整備基本方針を16年6月に策定。この基本方針では、昭和57年3月に策定された石狩川水系工事実施基本計画の流量を検証しつつ踏襲し、石狩大橋地点の基本高水のピーク流量を18,000m3/sとし、洪水調節施設により4,000m3/sの調節を行い、計画高水流量を14,000m3/sとした。現在は、夕張シューパロダム、新桂沢ダム、三笠ぽんべつダム、千歳川遊水地群の洪水調節施設等の整備を順次進めて今日に至っている。
 かくして、明治43年石狩川治水事務所の開設とともに始まった組織的、計画的治水事業は、今年、治水100年を迎えることとなる。明治、大正、昭和、平成と2つの大戦を挟みながら4つの時代にわたり、道央圏の生活や産業、文化の発展の礎となった石狩川の治水事業は、時代の要請により組織を変えながら石狩川治水事務所から今日の石狩川開発建設部に受け継がれてきた。石狩川開発建設部は、今年4月、札幌開発建設部と統合することになるが、今後も石狩川の流域の安心、安全を担う石狩川の治水事業の役割は変わることなく、先人達の知恵や技術とともに引き継がれることとなる。

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