建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2009年10月号〉

interview

昭和20年代にPDCAサイクルを導入

――造船業から建設業へ大胆に転業

石塚建設興業株式会社 代表取締役社長 石塚 英資氏

石塚 英資 いしづか・えいじ
昭和35年9月28日生まれ
昭和59年3月 室蘭工業大学工学部土木工学科 卒業
昭和59年4月 北海道網走土木現業所 入所(興部出張所 配属)
昭和63年3月 同 遠軽出張所 勤務
平成 1年6月 同 事業課 勤務
平成 2年4月 石塚建設興業株式会社 入社
平成 9年4月 同 専務取締役 就任
平成17年4月 同 代表取締役社長 就任
公職
平成14年4月 学校法人稚内北星学園大学評議員
平成15年2月 社会福祉法人緑ヶ丘学園評議員
平成15年4月 稚内市社会教育委員
平成15年5月 稚内建設協会理事・建築委員長
平成20年2月 稚内市建友会副会長
石塚建設興業株式会社
稚内市潮見1丁目9番15号
TEL 0162-33-4956

 最北の地、稚内市において94年の歴史を刻んできた石塚建設興業。現社長の石塚英資氏は、4代目のトップリーダーだ。もとは新潟出身の創業者がニシン漁の全盛期に造船業を始め、戦後に、2代目が建設業へ業態転換し、今日の礎を築いた。昭和20年代に今日の管理手法であるPDCAサイクルを社訓に導入しており、先取の気性は石塚カラーとして今日まで脈々と受け継がれている。4代目の石塚英資社長に「石塚カラー」を語ってもらった。

――創業の経緯は
石塚 大正5年に曽祖父の石塚慶蔵が新潟県から当時の宗谷村富磯に移住し、造船業と漁業を開業したのが始まりです。昭和38年12月24日に、現在の石塚建設興業株式会社に改組し、4年前の平成17年10月に、創業90周年、創立60周年を迎えました。  私の先祖は新潟県で、北前船に関わる大工仕事をやっていたようで、宗谷がニシン漁で栄えていたことから、ニシン漁の和船造りに乗り出したと聞いています。夏場は宗谷にいて、冬になると新潟に戻るような生活だったそうです。  その後、ニシン漁が衰退してきたため、船大工の技術を生かして建築業へ転進したようです。道庁から分離して開発庁が発足した昭和26年前後から、直営の労務請負として土木の仕事を受注するようになり、今日の前身がつくられました。このため、昭和20年10月12日を「創立の日」と定めています。当時は「石塚造船建設所」という名前だったそうで、造船の名前が先になっていました。
▲本社社屋
――稚内市内の住宅も手掛けていますか
石塚 まだ解体されていないと思いますが、祖父が手掛けた住宅が現代も現存しています。船大工の造った住宅は気密性が高く、建付けが狂わないと褒めていただいたことがあります。
▲代表取締役会長 石塚 宗博氏
――それでは祖父やお父さんの背中を見て育ったわけですね
石塚 そうですね。夕食の時間になると、家の中で大工さんが酒盛りしているのをよく見ました。祖父の時代はそんな感じでした。  祖父は相当の苦労をして今日の建設業の礎を築き、昭和44年3月3日、祖父の死去に伴い、現会長・宗博が社長に就任し、高度成長の波にも乗って事業の拡大を図ってきました。
――当時の稚内のインフラ整備の状況は
石塚 昭和35年生まれの私が小学生の頃は、自宅前の道路は舗装されるかどうかという時代で、石炭を馬そりで運んでいました。底引き漁業が全盛期で、浜の道路には魚が箱ごと落ちていました。しかし、底引き船は最盛期に58隻あったのが、今では8隻程度に減っており、活気が全然違います。  戦後間もない頃、稚内には米軍のベースキャンプがあったので、市街地の活気はいまの規模ではありませんでした。私の卒業した小学校は8クラス、全校児童数が1,500人いました。いまは2クラスですから、四分の一以下です。戦後の復興期から高度成長期にかけては良い時代だったと思います。
――建設業界に入ったのは、やはり先代の影響ですか
石塚 そうですね。私たちぐらいの規模の会社では家業のイメージが強いので、何となく仕向けられていたと思います。
――学生時代はどのように暮らしましたか
石塚 勉強しろということで、中学3年から札幌に移り、叔父の家に下宿しながら高校に通いました。稚内に比べて、札幌は高校生でも大人っぽい印象がありました。  昭和54年4月からは室蘭で大学生活を送りました。当時は白鳥大橋の設計に入る頃でしたが、室蘭工大の恩師でもある杉本博之教授(現北海学園大学教授)が景観工学、構造工学等橋梁がご専門で、いろいろと研究していました。道央自動車道の室蘭登別間の工事現場を見学したこともあります。  また、胆振海岸のブロックが侵食して沈下するため、沈下防止の独楽型ブロックが開発されたと聞いた記憶が残っています。室蘭岳の麓ということで、都会から離れた恵まれた自然環境の中で田舎の大学生活を送りました。
――室蘭工大を59年に卒業して、道庁に入庁されましたね
石塚 大学では杉本先生の研究のお手伝い程度でしたが、コンピュータのプログラムを使って橋梁等構造物の材料の最適化が卒論のテーマでした。卒業後、道職員に採用され、網走土木現業所に入所しました。赴任先の興部出張所では、漁港の技術職員でした。先輩にも恵まれ、新しいことを覚える楽しみはありました。漁港にもいろいろな形態があり、網走管内は岩場や砂地、河口、湖沼(サロマ湖)に造る港があって、面白い地域でした。  災害時の対応で土嚢積みを行ったことも貴重な経験でした。道庁には6年間お世話になり、平成2年に稚内に戻り、父の会社に入社しました。  当時、神奈川県厚木市に支店をかまえており、冬季間は土木の技術者と作業員を派遣して冬の仕事をしていましたが、入社した年は技術者が不足していて、厚木に3か月滞在したこともあります。厚木と稚内の建設協会が移動就労の協定を交わし、昨年、厚木支店を閉めた後も冬季の派遣協力は今でも続いています。
▲第十八昭恵丸 ▲浅芽野小学校校舎改築工事
――社長から見て会長(平成11年稚内建設協会長就任)はどんな方ですか
石塚 息子が言うのもおかしいですが、とにかく真面目な人で、非常に冷静なタイプの経営者です。事業は拡大してきましたが、いつも身の丈に合った規模を追求しており、「企業は経営者の器以上にはならない」というのが信念で、どこか歯止めをかけているのが父親の経営方針でした。祖父も同じだったと思います。堅実なやり方がわが社のカラーです。必要以上に無理はしません。
――平成17年に4代目社長に就任されましたね
石塚 専務時代に経営計画の策定に携わっていましたが、社長として決断することが大変な面もあります。  社長交代後に施工ミスや労働災害という辛い経験をしましたが、そういう経験があったから、今は少し強くなってきたという気がします。多少いろいろなことがあっても乗り越えていけるという気持ちも出来てきました。度胸が良くなるということでしょうか?
――土木は北海道発展の原動力になってきましたが、近年は公共事業が大幅に落ち込み、かつての勢いがありません
石塚 建設業はマイナーなイメージがありますが、高度な技術が必要なことは間違いないと思います。これからの公共事業のあり方は、形こそ変わるかも知れませんが、なくなっていいわけではなく、次世代に継承していく必要性を感じています。安全・安心を担っていますから大事な仕事です。
▲宗谷岬公園整備 ▲宗谷岬ウィンドファーム建設工事
――稚内はまだ高規格道路が繋がっておらず、北海道は取り残されている感じがします
石塚 本州の都市部と北海道の道路は整備の目的が違うと思います。北海道の経済振興は公共事業による下支えをきちんとしないと、その火種になるものは生まれません。公共事業はそもそもそういう性質を持っていて、財政のために理屈として公共事業の役割の見直しが議論されているに過ぎません。国家基盤事業は予算があるなしではなく、国の経済発展、国を守るという位置付けから、きちんと行うべきと思います。
――「北海道家庭教育サポート企業等制度」協力企業として、子どもたちが参加する地域行事に協力していますね
石塚 最北の北門神社の子どもみこしが町内を練り歩きますが、本社社屋前にお休み場所を提供し、子どもたちにジュースやお菓子を振舞っています。  社員の親睦組織も町内やふれあい公園等で清掃等のボランティア活動をしており、それらも家庭教育サポート企業の下地になっていると思います。
――稚内開発事務所工事安全協議会の会長も務めていますね
石塚 協議会は工事受注企業で構成しており、安全パトロールは発注者の考えを知る機会にもなり、有意義だと思っています。今年は特に工事量が多いので、事故防止対策を一層徹底したい。
▲沓形仙法志鴛泊線久連 ▲沓形仙法志鴛泊線
――稚内土現発注の工事で、重点的に取り組まれているのは
石塚 利尻島の沓形仙法志鴛泊線の久連工区で、高波を受けて海岸線の石が飛んでくる道路があり、地元の念願で道路のかさ上げをするため、海岸に擁壁を新設する工事を行っています。しかし、これがなかなかの難工事で、矢板を曲げてしまうほどの高波に襲われることがあります。そういう意味では、この工事の意義は非常に大きいものがあると確信しています。
――最後になりますが、経営方針の一端をお聞かせください
石塚 当社の社訓に「基画」、「検討」、「実施」、「反省」、「応用」を掲げています。これは仕事の手順を表現しています。目標を設定し、達成させるために、基本的な事項をよく調査して計画しなければならない。その計画が本当に目標を達成するために最適なものであるか、あらゆる角度から検討する。決定した計画を速やかに実施する。その結果、目標達成の是非、達成の度合を反省する。そのことによって、仕事の精度が磨かれる。また、自己の能力を補完する方法は、他人の優れた点を応用することである。このことは文字どおり今日の代表的な管理手法である、Plan(計画)→Do(実施)→Check(点検)→Action(改善)のPDCAサイクルです。  この社訓を考えたのは父でも私でもなく、祖父です。昭和20年代のことで、その当時から、PDCAサイクルを考えている人はあまりいなかったと思います。その意味で、プロセスで仕事を行う考え方は非常に素晴らしい。祖父が作った社訓を石塚カラーとして継承していくことが大事だと思います。非常に頑固で真面目な人で、本を読むのが好きだったようです。造船業から建設業へ業態を変えるのは勇気のいることだと思いますが、果敢に挑戦するタイプの祖父であり、そこに父もついて行ったと思います。

会社概要
創  立:昭和20年10月12日 石塚造船所
設  立:昭和38年12月24日 石塚建設興業株式会社
資 本 金:7,000万円(平成5年)
社  員:82名(2009.4.1 現在)
営業種目:
 @土木建築工事の請負及びその他各種工事請負業
 A管工事、電気工事の設計・施工
 B土木建築工事の設計、設備、監理及び管理に関する事業
 C不動産業
 D前各号に附帯する一切の事業
建設業許可番号:北海道知事許可(特-20)宗第804号


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