建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2009年9月号〉

interview

地元(旭川)の橋本建設工業・川島建設とアサヒ道路の三社が平成15年に合併

――創立60周年記念でコンサートとがんセミナー開催

株式会社 橋本川島コーポレーション 代表取締役社長 川島 崇則氏
(社団法人 旭川建設業協会・上川農業建設協会 副会長)

川島 崇則 かわしま・たかのり
略歴
昭和24年 9月3日生まれ
昭和49年 3月 北海道大学大学院工学研究科修士課程 終了
昭和49年 4月 佐藤工業株式会社 入社
昭和52年 4月 川島建設株式会社 入社 取締役土木部長 就任
平成 7年 4月 同 代表取締役社長 就任
平成15年11月 (合併により)株式会社橋本川島コーポレーション 代表取締役社長 就任
公職
平成12年 8月 社団法人旭川建設業協会 副会長
平成13年11月 旭川商工会議所 常議員
平成14年12月 学校法人旭川大学 理事・評議員
平成18年 5月(社)旭川中法人会 会長
平成21年 8月 旭川北高等学校同窓会 会長
個人の主な賞罰等
平成19年 5月 社団法人全国建設業協会会長 表彰
平成19年11月 札幌国税局局長 表彰
平成21年 2月 北海道産業貢献賞(土木功労者・知事表彰)
株式会社 橋本川島コーポレーション
本社/旭川市旭町2条7丁目12番地90
TEL 0166-55-0001

 道北の建設業界で老舗企業の一角を占める橋本川島コーポレーション。平成15年、地元の橋本建設工業と川島建設、アサヒ道路の三社が合併して誕生した。前身の橋本建設工業と川島建設はともに昭和24年に設立・創業し、今年で60周年の歴史を地元とともに歩んできた。「建設業はあくまでサービス業に徹すべきだ」が川島社長のモットー。技術、品質、コストのほかアイデア、ノウハウ、コミュニケーションを通じてユーザーの「良きパートナー」をめざし、社是に「サービスの徹底」、「品質の重視」、「効率の追求」、「安全の優先」、「地域社会への貢献」を掲げる。

――橋本川島コーポレーションの成り立ちは
川島 橋本建設工業の設立は昭和24年10月。川島建設も同じ24年7月。それぞれ周年行事は、24年を起点に行っており、単体でも今年が60周年になります。アサヒ道路も同じ時期に合併しましたが、創業は昭和48年です。
――合併した時期は
川島 平成15年11月1日です。私が川島建設の社長、代表取締役副社長の川本英之が橋本建設工業の社長でした。
――それぞれ60年の歴史を刻み、北海道のインフラ整備とともに会社も成長してきたのですね
川島 昭和23、24年は建設業などいろいろな会社が市内で立ち上がった時期です。戦後の復興をめざして建設会社が創業したケースが多いのではないでしょうか。  川島は私の父が創業しました。土木と建築の両方を手掛けていましたが、どちらかというと建築のウエイトが高かったと思います。私も24年9月に生まれました。
――どのような父親でしたか
川島 父は事務屋でした。本家は旭川で味噌・醤油製造工場を経営していました。戦後は主に炭鉱に出荷していました。父はその次男で、戦後にビルマで捕虜となり、昭和22年に復員してきました。  実兄の長男が継いでいた味噌・醤油工場では、桶を造る大工を抱えていたので、それを分離して最初に建具工場を立ち上げ、その後、工務店を創業したようです。
――社長も北大では建築を専攻したのですか
川島 いいえ、土木です。将来は、会社を継ごうと思ったからです。父の知り合いから、「北大の土木出身者はいいネットワークを持っている」と勧められたこともあります。堂垣内尚弘元知事や高秀秀信元横浜市長も北大土木でしたね。
――ダム、トンネル造りに関心があったのですか
川島 そうですね。大きな構造物、ダムなどは、社会に役立つとともに、遺産的な側面もあります。  私は大学を出て、佐藤工業に入社しましたが、最初の現場は青函トンネルでした。昭和49年4月から51年5月までの時期で、竜飛岬の現場にいました。新入社員のわずか2年間ですから、経験というより現場の匂いをかいだ程度です。  その後、横浜支店に転勤し、東京湾岸道路インターチェンジの現場に10ヶ月いて、入社3年で旭川のいまの会社に戻りました。
▲社屋
――東京は土木工事の規模が北海道とは比較にならないほど大きいですね
川島 地下鉄などの地下都市土木の規模は、東京ならではですが、それ以外は東京も北海道も変わらないと思います。  北海道は土木の世界でいえば、とびとびになっている高規格幹線道路をつなぐことが最重要課題でしょう。函館から稚内、釧路、根室までつながることが絶対条件で、そうでなければネットワークになりません。もうひとつは新幹線を札幌まで延伸させることです。
――そう考えると北海道は10年も20年も遅れていますね
川島 もうすぐ新幹線が鹿児島まで伸び、道外の高速道路はほぼすべて完成しています。
――北海道はどう取り組めばいいのでしょうか
川島 公共工事は費用対効果で議論をしていますが、本来は便益を基準に行うことではないのです。人が住んでいる以上、また将来、観光や農業発展のためにも縦貫道路、横断道路を早く完成させることは当然のことで、これらは最小限のインフラ整備です。
――このままでは道外府県との格差がさらに広がりかねません
川島 昭和40年代から50年代当時は、国土の均衡ある発展を目指して整備する計画でした。  それが財政的に問題になり、優先順位を付けて整備するよう方針転換し、費用対効果の発想が出てきたことから北海道は後回しにされてきたのです。  しかし、それは社会構造や財政の問題であって、最初から北海道を切り捨てようしたわけではないと思います。
――旭川に戻ってきた昭和52年以来、状況は大きく変わったのでは
川島 オイルショックが49年から50年、そのあと景気が持ち直し、第一次建設冬の時代が56、7年にあり、その次がバブル崩壊で第二次冬の時代に入りました。  入社当時は建築8割、土木2割の比率でした。波があってもインフラ整備はそれなりに行われていたので、合併した平成15年は建築、土木の比率が半々になっていました。橋本はもともと100%土木の会社です。
――川島建設の社長に就任したのは
川島 平成7年です。父は全く干渉せず、好きなようにやれというスタンスでした。
▲創立60周年記念コンサート&がんセミナー
――合併の経緯は
川島 ちょうど橋本内閣の時代で、七・五・三で公共事業を減らす方針が出ました。全国的に公共事業の整備水準があがってきて、建設業の供給過剰構造が見えていました。供給カットは退場か合併再編の道しかありません。  そのため、先代同士が親しくしていた橋本建設工業との合併話が持ち上がりました。橋本の山田元社長が、私の大学の先輩だったこともあり、いろいろと相談させてもらいました。  合併当時の従業員数は180人ほどで、川島が60人、橋本が80人から90人、アサヒ道路が30人程度でしたが、今は130人です。一部リストラも行いましたが、新規採用をストップして減らしていきました。
――それでも、130人の従業員を束ねるのは並大抵ではないでしょう
川島 この11月1日で合併して6年になります。北海道は民需が少ないので、公共事業に左右されるので、どの建設会社も苦労しています。  合併のコンセプトは、供給過剰構造を是正しバランスのとれたなかで企業として生き残っていくことでした。このことは今も変わりません。そうして、今は土木が6割弱、建築は3割強、舗装は1割強という内訳です。
――北方型住宅の普及にも相当力を入れているようですね
川島 北海道の家づくりは高気密、高断熱、それに換気の良さの三つがポイント。引渡しの際、施主さんにデータを渡しています。
――土木で最近施工した事例は
川島 今年3月まで開発局発注の中越トンネル。高規格の紋別自動車道に携わりました。3社JVで、足掛け5年ほどの工事でした。  現場には私自身も足を運びました。建築と土木ではかなり違っており、土木は大半が公共工事で、ユーザーは国民や一般市民です。市民生活の利便性に役立つことが一番のやり甲斐です。
――今後の建設行政に望むことは
川島 道北、上川支庁管内でも、郡部ほど建設業は地域の産業としてのウエイトが高い。雇用の確保等の影響はまだまだ大きいと思います。その意味でも道庁が最低制限価格の比率を上げてくれたことには感謝しています。落札率は低いほどいいという考えには抵抗があります。
会社概要
資 本 金:92,000千円
完 工 高:土木・建築・舗装・住宅・企画開発  合計71億円
社 員 数:115名
事業内容:
 ・土木、建築、住宅、舗装工事の施工、測量、企画、設計及び監理
 ・舗装材料の製造販売
 ・不動産の売買、斡旋、賃貸及び管理
札幌支店:札幌市北区北7条西5丁目8番地 北7条ヨシヤビル
     TEL 011-727-1339
グループ企業:
  株式会社 アサヒ建設コンサルタント
  アサヒ警備保障株式会社
  株式会社 川建

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