建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2009年1月号〉

interview

厳しい自然条件下で土木の役割を果たす

――柔道の普及に尽力し郷土貢献彰受賞

北海土建工業株式会社 代表取締役 矢部 幸一氏

矢部 幸一 やべ・こういち
昭和13年 3月12日 生まれ
昭和31年3月 北海道立苫小牧工業高等学校 卒業
昭和31年4月 北海土建工業(株) 入社
昭和51年4月 代表取締役に就任、現在に至る
公職
平成 元年 社団法人 室蘭建設業協会 副会長
平成 2年 社団法人 苫小牧建設協会 副会長
平成11年 苫小牧柔道連盟 会長
平成13年 社団法人 苫小牧地域職業訓練センター 運営協会 会長
平成13年 北海道立苫小牧高等技術専門学院後援会 会長
平成16年 苫小牧商工会議所 建設部会長
受賞
平成 3年6月 社団法人 全国中小建設業協会 会長表彰受賞
北海土建工業株式会社
本店/苫小牧市栄町2丁目1番27号
TEL 0144-32-6381

 室蘭建設業協会副会長でもある、北海土建工業(苫小牧市)社長の矢部幸一氏にインタビューした。矢部社長は胆振・日高管内における建設業界の重鎮。その傍ら苫小牧商工会議所建設業部会長、苫小牧地域職業訓練センター運営協会長、苫小牧柔道連盟会長、苫小牧建設協会副会長等数多くの要職を務め、地域のボランティア活動にも熱心に取り組んでいる。「苫小牧発展の起爆剤は砂浜に造った掘り込み式港湾の誕生に尽きる」と強調する矢部社長に、思い出話や北海道の将来展望を語ってもらった。

――社長は苫小牧のご出身ですか
矢部 生まれは門別町(現・日高町)富川ですが、苫小牧で育ちました。昭和13年3月の生まれですから、今年の誕生日で満71歳になります。光陰矢のごとしで、月日の流れは早いとつくづく感じています。  地元の苫小牧町(現・苫小牧市)東小学校に入りましたが、空襲が激しくなってきたので、早来町(現・安平町)に疎開し小中学校とも早来で過ごしました。戦前から王子製紙があったので、米軍に狙われたのでしょう。  わが家は祖父が徳島から旭川近郊の鷹栖に入植しました。その後、早来町の遠浅の藪農場の開拓が進められ、そこに入植していたので、自給自足できると考えたようです。
――建設業の道に進んだのは先代の影響ですか
矢部 父親が建設業を興したのは終戦の年だったと思います。昭和22年に、会社組織にしています。その頃、安平川の改修は道の直轄事業で行われていましたが、建設業といっても当時は人夫を集めて現場に送り込む人入れ稼業でした。  私は昭和31年3月5日に高校を卒業し、5日後の10日には建設現場に行き、農業排水の土木工事を手伝った記憶があります。確か工期は3月25日まででした。作業はすべて人力で、100人以上の作業員が総出で地面に張り付くように土をスコップで動かし、モッコやリヤカーで土を運び出す作業の繰り返しです。当時、一日の作業も請負制で与えられた仕事量をいかに早く行うかみんな競ってやるのが当たり前の時代でした。
▲胆振海岸保全工事の内 錦岡外緩傾斜護岸工事
――苫小牧は昨年、市政施行60周年を迎えました。道央の海の玄関口である苫小牧港は陸地を掘り込み、海を呼び込んだ港湾です。世界でも例を見ない画期的な事業が今日の苫小牧発展の起爆剤になりましたね
矢部 掘り込み式の苫小牧港は、自治大臣や国家公安委員長などを務めた篠田弘作先生(1901年〜1981年、北海道4区選出、連続11回当選)の発想です。苫小牧港建設促進運動の中心だったのが、商工会議所の会頭などを努めた、岩倉組の創業者である初代岩倉巻次氏です。昭和21年、戦後初の民主選挙の際、篠田さんが岩倉さんの工場前で街頭演説をしたのが縁です。二人は昵懇の間柄だったようです。その後、昭和24年の衆議院議員総選挙にて初当選を果たし、以降、苫小牧港建設に尽力されております。また、昭和31年に元道議であった西田信一さんを参議院議員候補に擁立し、助力の結果みごと国会の場に送り出すなど、篠田さんは選挙にまつわる話題は事欠きません。
――昭和38年4月24日に石炭専用船2隻が処女入港した苫小牧港の開港は、その後の地域発展にどのような影響を及ぼしましたか
矢部 掘り込みのお陰で浚渫した土砂を、湿地帯だったウトナイを含む鉄北地区の埋め立てに活用し、大規模な土地造成が行われました。いま大型商業施設(イオンショッピングセンター)が立地している所から山際にかけての一帯です。港で発展した町は本来、東側から発展するケースが多いのですが、王子製紙が市街地のほぼ中心部にあるため、当時の大泉源郎市政が職住分離の一環で西部地区を住宅地として開発したことと、鉄北の東部地区が湿地帯だったため開発が遅れました。  昭和38年に永年の夢の苫小牧港が正式に開港し道央の海の玄関と期待されました。苫小牧でインフラ整備が本格化したのは40年代に入ってからでしょう。市役所職員の大量採用は確か昭和37、8年から45年にかけてでしたね。 苫小牧の人口が大きく伸びたのは港に尽きると言っていいでしょう。また、道路等のインフラ整備も進み、地価が安い割に札幌まで1時間というロケーションが幸いでした。道央自動車道が開通してからは、苫小牧は完全に札幌圏です。
――王子製紙の城下町として景気は良かったのでは
矢部 昭和32、3年頃には、王子製紙の職員住宅にトンボのようなテレビアンテナが林立し、その光景は道内一の勢いを感じました。街頭テレビに一般市民が群がって、力道山が大活躍するプロレス中継に歓声を上げていた時代ですから。  王子製紙は労働組合が強く、第一組合と第二組合が激しい闘争を繰り返すたびに、オルグにやって来た期炭鉱の組合員が苫小牧の町を闊歩していました。なにせ威勢がよかったものです。
――苫小牧は長年、革新市政が続きました。他都市に比べて組合員の比率が高いと聞きますが、苫小牧の政治風土とも関係ありますか
矢部 初代市長は小学校長の出身で、決して革新系の人物ではありませんでした。田中正太郎市政は、実質的に大泉源郎助役が仕切っていました。その後の大泉市政は5期連続の長期政権でしたが、決して王子製紙の言い成りになっていたわけではありません。
▲社屋
――建設業の将来展望についても伺いたい。北海道開発局の廃止が取り沙汰され、道内経済に大きな影響を与えると心配されています
矢部 開発局がなかったら北海道の社会資本整備はもっと遅れていました。やはり補助率をかさ上げする北海道特例のお陰です。道路整備を例に挙げると、積雪寒冷のため凍結深度が深く、本州府県に比べても凍上を防ぐための路盤整備がコスト高になります。国の直轄工事では、受益者負担をかけないようにしてきたために道路整備が進みました。冬期の除雪にしても、道庁だけでは対応できません。 北海道は巨額の歳入欠陥があると言われています。これまでは政府の助成で歳入不足を穴埋めしてきましたが、どうすれば生産性が上がるか、残念ながらそれが見えません。道庁自体にもビジョンがない。独立してでもロシア極東の石油資源を確保し、一大工業地域にするとか、苫小牧を日本一のエネルギー基地にするといったビジョンを持たなければ、北海道の将来はないでしょう。
――苫小牧は石油の備蓄基地になっています
矢部 昭和48年のオイルショックを機に整備されました。日本経済の安定のためには欠かせない施設です。苫小牧は国内では最大規模の備蓄量を誇っていますが、建設時の計画に比べてもまだ半分の備蓄量です。原油価格にして5千億円相当と聞いています。
――会社の最近の業績を見ると、平成16年度に樽前山火山砂防工事遊砂地建設工事、18年度には胆振海岸保全工事(錦岡護岸工事)で開発局優良工事施工業者表彰を受けています。本業外では、17年度に柔道連盟役員としての功績が認められ、苫小牧市の郷土貢献者に表彰されました。長年にわたり建設業を経営されていて、何かエピソードでもあればお聞かせください
矢部 苫小牧港は砂浜に港を造ったことは世界でも例のない港ですから、苫小牧港をモデルとして見習ってほしい。ホッキやカニが生息しているのも港のお陰です。苫小牧港の生みの親である篠田先生とは、選挙の度に話す機会がありましたが、砂浜に港を建設する構想に当初は同僚の国会議員からも笑われたそうです。
――長年の経営を通じて確信していることは
矢部 仕事は一つ一つ心を込めて丁寧につくるものです。本業は土木ばかりですから変化が多く、北海道はこれからの時期、厳しい自然条件下で仕事をします。暮れは日没時間が短くなるし、凍結します。外で行う仕事はおのずと限られてきます。  しかし、私たちは地域社会の基盤づくりに役割を果たし、安全で安心な社会づくりに貢献するように取り組んでいます。
――地域の建設会社がなくなったら災害時の対応にも影響が心配されていますね
矢部 地の利が分からないと即応体制にも支障をきたすでしょう。室蘭建設業協会は、地域のために会員企業が負担する災害積立金を用意しています。緊急時に応急復旧工事を行う場合、必要な経費は協会で一時的に立て替える方式を考えています。
会社概要
創  業: 昭和 2年 8月 矢部組 創立
設  立:昭和22年12月 北海土建工業(株)
資 本 金:3,000万円
従業員数:28名
売 上 高:18億円
営業種目: 土木工事業、とび土工工事、舗装工事業、水道施設工事業
支  店:  札幌支店/札幌市白石区北郷4条1丁目3-18


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