建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2008年12月号 WEBのみの掲載〉

1,000兆円の赤字国債を抱えた1,400兆円の貯蓄を持つ国民

――夢があれば貧乏でも生きられる

北海道土地開発公社 理  事  長
小 樽 観 光 協 会  会     長
ゆらぎ物産株式会社 代表取締役
真田 俊一氏

真田 俊一 さなだ・としかず
昭和16年 三笠市生まれ
昭和38年 北海道大学水産学部卒業
北海道庁入庁
平成 3年 檜山支庁長
平成 6年 水産部長
平成 7年 商工労働観光部長
平成 8年 上川支庁長
平成 9年 北海道副知事
平成13年 北海道副知事勇退
       北海道土地開発公社理事長
       ゆらぎ物産(株)設立・代表取締役就任
平成14年 居酒屋・回転寿司「ゆらぎ亭」(小樽市)開店
平成19年 小樽観光協会会長

 今日のあらゆる国策の失敗と世情不安定の背景には、1兆円規模の赤字国債があり、このために全国的な財政難と、その対策による内需引き締め策によって国民経済も疲弊した。真田理事長は、韓国が通貨危機を短期で乗り切ったとき、FRBの融資だけではなく韓国民が自主的に私財を供出したという国民性を指摘する。それができない日本の問題点がどこにあるのか、かつて不採算地帯として見離された日本海の漁業の再生を成功させた現職中の経験を踏まえて、構造的な問題点を解き明かす。

(前号続き)

──戦後60年で、日本は良い意味でも悪い意味でも大変貌しましたね
真田 世の中はおおむね60年で変わるものです。それは金属疲労と同様に制度も疲労するからです。かつて大判、小判などの貨幣経済が起こった結果、農民一揆などの世直し運動が起こり、最後には薩長連合によって幕府は倒れました。そしてかつての貨幣は使用できなくなり、新政府によって全く異なる貨幣へと変更されました。  その貨幣経済に基づき、軍部の力が強大となって太平洋戦争に突入して敗北し、新政府の下に新たな円を中心とする経済へと移行しました。その結果、旧政府の発行してきた一銭を単位とする貨幣が、ただの紙くずとなりました。  しかし、このように変革を重ねては来たものの、これで困るのは誰でしょうか。国民は軍部への供出などで、すでに資金も資産も失っているのですから、今さら困ることは何もありません。困るのは溜め込んできた者だけです。物資という形で分配し、施しておけば良いものを、貨幣という形で独占してきた者の自業自得です。  政府も、財政が厳しいなら財力のある者に課税すれば良いものを、財力ある者は抵抗力もあるので、またも力の弱い者から搾取するという、かつての悪代官と同じ悪政を繰り返しています。だから、国民が憤慨して社会変革に向かうわけです。こうした歴史は西洋も東洋も共通です。
──何か本質を見失っているように思いますね
真田 日本は1,000兆円を超える負債を抱えつつあり、孫子の代まで支払っても返済できませんから、企業なら倒産という事態です。しかし、国民は14,00兆円の貯蓄を持っているのですから、国家が真剣に国民の幸福を考えているなら、国民はそれに応えて供出すれば済む話です。  ところが、政府が国民の生活や老後の医療を保証してくれないという不信感があるため、公共事業は無駄などと主張したり、一方、政府は地方交付金を削減する反面で地方税を増やそうとし、地方が疲弊しようとかまわないなどと主張する有様です。そんな国家のために、何を協力する必要があるのかと、国民が背を向けるのは当然です。卑近な例で言えば、家族の生活を考えてくれない親のために、なぜ貢いだり老後の面倒を看る必要があるのかということです。  かつて韓国が東南アジアに次いで、米ヘッジファンドの貨幣投機で破綻しかけたことがありましたが、韓国ではお祝い事で金属製品を贈答する習慣があり、国民はそれらを自主的に政府に供出したのです。総額は日本円で3,000億円で、国家財政の比重としては大きなものではありませんが、さらにIMFの融資によって、短期で再建を果たしたのです。  一般的には、高齢者は個人の資産を子孫に引き継ごうとしますが、相続税や贈与税が膨大です。それを子孫ではなく、全国民のために政府に供出すれば、むしろ国家が贈与税を払う立場になりますね(笑)
──その気持ちを国民に持たせられるかどうか、政治家と官僚の資質が問われますね
真田 公務とは、出世したから忙しく仕事をするというものではなく、単に「人のために働く」ことを指して公務というのです。したがって、公務員は国民、住民のために役割が果たせているなら、昇進などしなくても良いのです。しかし、世の中の仕組みは、国民や住民のために努めてきた人の昇格を求めるものです。  かつて日本は、国民の食を確保するために近隣諸国を占領した結果、逆に太平洋戦争で敗戦しましたが、そこから焦土を立て直そうと並ならぬ努力をしました。そうして右肩上がりに成長しましたが、その時の法体系の制度疲労によって、今は右肩下がりとなっているのになおも当時の法体系のままで運用しています。  なぜそれを変えられないのかといえば、担当者である公務員が、先輩の作った法律を自分が変えてしまっては、自分が体制の中で生きていけなくなるからという理由で、こんな愚かな話はありません。法改正が社会のためになるならば、職場で生きられなくても良いではないですか。むしろ社会のために努力をした人が生きられない体制などは、社会が怒って許さないもので、逆にそんな愚かな体制を潰す方向に向かうものです。そもそも疲労を来したものは、いくら改修しても無駄で、そっくり取り替える以外にはないのですから。
──そうした当たり前のことが、主張しにくい世相になりました
真田 そのようにしたのはマスコミであり、国民の責任です。人間は神ではないのですから、良いことしかできない人間などはいません。良かれと思っていても、他人にとっては良くない場合もあります。良い面と悪い面の差が、その人の価値であり、悪いこともできるが、良いこともできるというのが通常の人間です。薬は副作用も持ち合わせている毒でもあるのです。  寄付ができる人は、それを稼いでいる人で、それが正当な収益ならば問題はありません。寄付ができないというのは、そのための準備も何もしていないということで、人のための備えすらもしていないことほど悪いことは無いでしょう。さらに、人のためと言いつつ私服を肥やしているのは最悪です。
──自らは水産を与る行政の道を選んだ理由は
真田 私は父親が教員で、漁業権を持っているわけではないので、行政官として逆に漁業権を与える側に立ったわけです。食糧難の時代を経験しているので、食に関わる公務に携わることにしました。  公務員だったのですから、社会の混乱を避けるための法律の重要性は認識していますが、基本的には法律などは不要です。人々が助け合って生きているなら、法律など必要ありません。しかし、必ず平等性を破るはみ出し者が出るので、制裁を与えるために法律が必要になるわけです。そのため、法律には罰則規定を設けなければならず、それを運用するための官庁組織や裁判所を設けなければならず、その罰則を執行するために刑務所も作らねばならず…と、非常に複雑で予算も必要となり、煩瑣な事態になります。それよりも、心を磨いて秩序を守り、助け合う社会を目指す方が手っ取り早いというものです。
──現職中に力を入れた政策は
真田 日本海の浜にはかなり足を運んだものですが、北海道を囲む日本海、太平洋、オホーツク海の各漁業者の所得はかなり違います。私が現職だった当時では、日本海の漁業者の年収は100万円か200万円で、太平洋は500万円から1,000万円、オホーツク海側は1,000万円から3,000万円という格差です。  したがって、オホーツクの富裕者といえば漁業者のことを指していますが、日本海側では貧困者といえば漁業者なのです。同じ漁業者でありながら、方や富裕層の代名詞であり、一方は貧困者の代名詞となっています。行政としてはこの格差を是正し平等にしなければならないという使命がありました。  そこで、留萌支庁水産課の係長だった当時、日本海の外海でもホタテの採苗・養殖、人工放流ができるよう、10tブロックを導入しました。それまでは3年ごとにホタテが流されてしまい、地元の漁家は先祖伝来の土地や山地を切り売りして、しのいでいたために貧困者の代名詞となったのです。  しかし、留萌で稚貝の生産を提唱したときは、水産庁、道水産部、漁連がこぞって反対したものでした。かつてホタテ種苗の最大供給基地は、陸奥湾や噴火湾、サロマ湖で、これらがドル箱として定着しているのに、採算性の合わない地域と見放されている日本海で新規参入するなど、正気の沙汰ではないというわけです。まして時節は生産過剰で、減船政策などにより出荷調整をしていた状況でしたから、反対は強烈でした。  そこで私は「貧乏地帯の漁師を救うための代案があるならば提示してほしい。それが納得できるものであれば、引き下がりましょう」、「行政としては貧困地帯こそ、その底上げをしなければならないのだから、代案が無い限りは断行します」と主張しました。  実際に、留萌で生産を始めた後に、すでに定着していた先の三地区で種苗がすべて斃死してしまったという事件がありました。このときに急場を救ったのが、留萌で栽培された種苗だったのです。現在では、道内で収穫されるホタテは全てが留萌産の種苗で、これによって日本海側の漁家は全ての負債を返済し、経営は黒字となったのです。
──水産の英知の成果ですね
真田 北海道の水産の主力はサケとホタテと昆布で、これらを人工的に養殖できるようにしました。サケは北洋で成長し、還る時には知床岬で分かれ、最初にオホーツクに向かいます。最も粋の良いサケが獲れるので、オホーツクの漁家は裕福です。ホタテは餌を与える必要が無く、プランクトンの豊富な静穏域で育ちますが、ブロックなどの魚礁がなければ、外海では季節風などで流され、採算性が合わなくなります。昆布は元から至る所に生息し、2年で食用になりますが、それを1年で成長する速成昆布として、利尻昆布、日高昆布などのブランドが確立されています。   サケの人工孵化放流は、明治時代に札幌農学校(現北海道大学)を卒業し、旧北海道庁技術吏員だった伊藤勝孝がアメリカのインディアン水車を視察し、導入したのが始まりでした。速成昆布の栽培は道余市中央水産試験場で開始され、ホタテも採苗、養殖を推奨して始めたものです。かくして北海道の今日の三大水産物は、道が開拓したもので、これによって今日の漁業者の生活が守られているのですから、ノーベル賞に値する成果だと思います。しかし、こうした功績はPRされていません。  「水産学も学問なり」と提唱したのは内村鑑三で、札幌農学校の卒業論文のテーマも漁業でした。水産学の大学院を備えているのは、世界でも札幌農学校の水産学部だけだったので、世界中で水産の専門家を目指す人々は、すべからく北大水産学部の門を叩くしかなかったのです。その水産学部が函館に置かれているのは、本校所在地である札幌に海がないからです。  札幌や旭川などの都市は内陸部にあるためか、海事にはまるで無関心のようで、札幌市民は海産物が海からではなく市場から来るとの意識があるでしょう。これは大都市・東京も同様だろうと思います。
──平成元年には余市中央水試の場長として赴任していますが、すでに留萌のホタテでの成功を背景に、さらにどんな事業展開を考えましたか
真田 その時に考えたのは、ニシンの人工孵化放流でした。しかし、戦後にニシンが消え去ってからは、研究者はニシンの研究に携わっておらず、稚魚もないので無理だと反対しました。そのため、後に檜山支庁長を経て水産部長に就任してから、いよいよ本格的に着手しました。初年度に下準備し、翌年度に5,000万円の予算を措置し、学術会議の名目でサハリンから稚魚を買い付け、実施に踏み切ったのです。  もちろん、通常は3年後から成果が見られるので、当初はすぐに効果が現れるものとは思っていませんでしたが、わずか2年後には群来(くき)るようになったのです。この結果、放流が定着し、浜からはむしろ規模拡大を求められている状況です。
──やはりその時も反対者がいたのでは
真田 その時の反対者に対しては、「ニシンが必ず捕れるという学術的な確証はないけれども、かつてニシンで栄えた歴史から、誰もがニシンと聞いただけで希望と夢を持ち、躍動感を覚えるもの。夢を持つことができれば、貧乏人でも生きていけるのだから」と主張しました。本物のニシンをもたらすことが、あるいはできないかも知れない。できても長い年月を要するかも知れない。しかし、夢を追い続けていれば、貧困でも生きていけるものです。  そうして、不安を抱えながらも始めてみれば、ものの2年で復活したではありませんか。この結果、かつてのニシン漁が甦る兆しが見られ始めています。
──そこまで日本海にこだわった理由は
真田 貧困地帯の漁家を救うことはもちろん、もう一つの理由は、日本の繁栄の源はそもそも日本海にあったということです。日本の国土は弓なりに日本海を囲む形状なので、国内の交易は日本海を縦断した北前船が主力だったのです。  しかも、その当時の国際関係は、アメリカが中心ではなく、中国や旧朝鮮、ロシアだったのです。ところが、後にロシアや中国は共産革命で共産国となり、仮想敵国になってしまったため、軍事産業や原油備蓄基地、その他の工業地帯など重要拠点を日本海側に配置しておけなくなり、やむなく太平洋側へ移したわけです。その結果、太平洋側を表日本と呼び、日本海側は裏日本などと呼ぶようになりましたが、それまでは日本海が中心だったのです。
──副知事にまで昇格して退官してからは、土地開発公社理事長だけでなく、小樽商工会議所の会頭など、いくつもの公職を兼務していますね
真田 小樽市は保守的な地域柄なので、本来は域外の者が就任することはありませんが、かつて20万人だった人口が13万人にまで減少し、危機感を強めた結果だろうと思います。そこで、地元としても認識を改めることが必要です。かつては札幌市よりも繁栄した時代が確かにありましたが、その当時の栄華へのこだわりが今なお捨てきれずにいるようです。180万都市と13万都市を比べて、小樽が都市開発の発祥だからと称賛する人は、いまやいなくなっていることを自覚することが必要です。  それよりも、小樽市は後志管内の中心都市ですから、札幌にばかり目を奪われるのではなく、管内のリーダーとして郡部の町村に目配りし、それらが栄えることによって小樽市の中心部に移住してきたり、観光者が市内で宿泊するような連携を作り上げることが必要です。  現在は、小樽だけで孤立しているために、観光客が小樽に来ても、そこで定着せずに夜になるとススキノへ向かってしまいます。これが小樽近郊都市にまで足を伸ばすようになれば、夜は小樽に宿泊してもらうというパターンも実現可能になるでしょう。そのように各市町村が一体となって、客足を管内に定着させる体制が必要だと、私は主張しています。  道内を見る限りでは、どこの管内も中心都市は近隣町村から反目されて孤立しています。例えば管内で何らかの建設プロジェクトが企画されれば、何でも中心都市に配置すべきと主張しますが、それらを地方に禅譲し、管内全体で地域づくりをする意識に変えていくことが大切です。
──長年の行政経験に基づく広域的な発想ですが、その一方では小樽市内でゆらぎ物産(株)を設立し、居酒屋と回転寿司を併合した「ゆらぎ亭」の経営にも乗り出していますね
真田 退職金をすべて投じましたが、それで地元の雇用機会も作れたので、私個人の資産は減少したとはいえ、何らかの地域貢献はできたと自負しています。また、食材その他も、地場調達のためにすべてを地元の問屋を活用しています。本業のビジネスとして、この業界に長く携わっている人からは、愚かに見えるかも知れませんが、私としては資産は失っても、心は豊になったのですから後悔はありません。  アメリカに、サンシティという年金ファンドを設立した街がありますが、そこでは全てがファンドで運用されるので、あらゆるものが無料です。そのため住民は私有財産を抱え込む必要はなく、その都度、無料で借りれば済むので、みな幸せだと言っています。私財を獲得し、維持するための工夫は一切無用となった結果、彼らが選択したのは、純粋に「働く」ということでした。複雑で難しいビジネスをするというのではなく、園芸や絵画など、それまでにやりたかったことに専念するわけです。  もちろん、これが絶対に最上とは言いません。人間には百八の煩悩があり、多少とも働きには報酬が必要なものですが、私は国民総サラリーマン社会になることは、無責任社会になることでもあると思うのです。農業でも水産業でも商業でも、親が子に家業を継がせることは、親子が共働し、責任も共に背負って補い合いながら、共に生きることを意味します。そのために、親は少しでも経営状況を良好にして継がせようと努力します。それが高等教育を与えて大企業や、身分の安定した役所など、家業とは無関係のサラリーマンとして就職させれば、親は共同責任を放棄して負担を免れることができます。  しかし、大企業ほどオーナーにはなれず、従業員はもとより代表権を持つ社長ですら、雇われているサラリーマンです。そのため業績が下がると、役員会で相談するのはいかに経営を建て直すかではなく、いつまでに退職すれば、自分の退職金がより多く確保できるかという利己的なものとなってしまいます。そして、社員の処遇については、単にクビにしておけば良いという結論しかでません。  これは逆です。役員になれるくらいなら、他のビジネスでも生きられます。しかし雇用されている従業員は、その職場での仕事しかできないように研修教育してあるのですから、それで生きていけるように配慮してやるのが、経営陣として本来の使命でしょう。
──建設業界も倒産続きで、縮小再編の時代を迎えていますが、アドヴァイスはありますか
真田 建設関係者が、建設業のことだけを考えていると孤立します。農業の発展、漁業の発展、商業の発展、地域の発展のために、業界としてのノウハウを提供して共に努力するという姿勢が見られれば、事業者側もなんとか事業費を準備するものですが、建設業は事業費を「もらう側」という意識しかないために、地域貢献が認められないのです。  地方商工会や商工会議所を見ると、そうした地域貢献を評価されて会長や会頭に就任しているのでなく、建設業者以外に財力のある人がいなくなったので、引き受けさせられている傾向も見られます。 そこで、建設業界が地域づくりのリーダーとなり、あらゆる産業の発展に共に努力するよう発想を変えれば、何を整備しなければならないのかが明瞭に見えてきます。  一方、ここらでみな認識を改める必要があります。無駄な公共事業をやめようというのが、今日の正論のようになっていますが、そもそも公共事業は即効性のあるものではありません。即効性があるものは、民間が商売としてやるものです。必要はありながらも、民間がやったのでは採算が合わないからこそ公共事業としてやるのです。それが公共投資というもので、実施したときには即効性はないが、将来には効果があるものです。ただ、予算上の都合から優先順位を考慮し、後回しにしたり、事業期間を延長するなら納得はできます。  また、この北海道は、元は一粒の米も獲れなかったため、海産物を政府に上納してきましたが、ここで米が獲れるように変えたのは誰だったでしょうか。もちろん農家の努力もありますが、収穫できる農地を作り上げるのは、農家だけではできません。水源確保のためのダムを建設しなければならず、それを利用するための灌漑用排水施設を整備し、圃場も整備しなければなりません。それを担ってきたのは建設業です。これは水産業も同じで、港がなかったら荷揚げも荷出しもできないのです。そうして建設業がインフラ整備に従事した結果、200%もの自給率となったのですから、そうした公共事業と建設業者が無駄などとはとんでもない話で、建設関係者はもっと自信を持つべきです。
──環境との向き合い方も変わりました
真田 河川も山地も獣道も、何億年をかけて最も無理のない形態にできあがっているものです。自然水には表流水と伏流水と地下水があり、この三つのバランスを人間が変えてしまったのでは、自然環境としての連関が破壊されることになります。河川などは氾濫を防ぐため、水がすぐに海へ流れ出るようにショートカットしてきましたが、これが海産物の生育環境を破壊し、国民の生活にも影響してきたことが判明しました。それが判ったなら、今度は環境に影響しないように氾濫を防ぐ手法に変えていくべきで、それを担うのが公共事業です。  それを先輩たちが整備したのだから、悪影響があっても変えることはできないなどという話にはなりません。  一方、アメリカでは、洪水をあえて防ごうとしない地区もあります。洪水の確率が50年か100年に一度ならば、50年間にその対策費を蓄えておけば対処できるのですから、むしろその50年間は水に親しんだ方が良いという発想です。それが100年であるなら、その間に着実に蓄えておけば、全ての家屋を建て替えることができるのですから。
──無理にコンクリートで固めて抵抗するのでなく、素直に避難しておけという自然体の発想ですね
真田 避難といえば、通常は学校や体育館などの公共施設が指定されていますが、それは地の利が良い場所に建てられているからです。さらに大切なのは、地元の行政庁舎で、学校以上に良い場所に建てられなければなりません。  ところが、近年の世論では、そんなに良い場所に庁舎を建てるよりも生活補償で配分しろなどと愚かな主張をします。もしも役所が炎上して消失してしまったら、個人が苦労して取得した土地や資産を証明するものは全て失われるのです。それでも良いから自分だけ良い家を建てさせて欲しいなどと要求したりしますが、補償そのものが無くなることも理解できていません。行政は住民の資産や家族を証明するシンボルでもあるのですから、脆弱な庁舎ではならないのです。  例えば、学校に炊事場があることを無駄ではないかと疑問視する声もありますが、避難生活においてはこれがなければ困ります。それを今すぐには必要ないからと、作らずにおいたら、避難生活の時にどうなるのか。そうした今すぐには必要が無くても、後に必要になることを見越して整備するのが公共事業なのです。  そして、いよいよ災害が発生したなら、その復旧のためにわざわざ入札などをしている閑はありません。地元で最も多く納税し、寄付もして貢献している地場建設業者に、早急に依頼すれば良いのです。

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