建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2008年8月号〉

interview

人間が居る限り建設業はなくならない

――昭和30年代の土木技術屋が日本の復興に大きく貢献

株式会社 田端本堂カンパニー 取締役社長 田端 真佳氏

田端 真佳 たばた・まさよし
昭和10年12月25日 滝川市生まれ
昭和37年 4月 (株)田端本堂カンパニー(現社名) 入社
昭和38年 4月 同社 専務取締役 就任
昭和39年11月 同社 代表取締役社長 就任
公職
 滝川建設協会 会長(昭和57年〜平成6年)
 (社)空知建設業協会 副会長(平成4年〜平成16年)
 滝川商工会議所 副会頭(昭和60年〜平成6年)
 (社)北海道建設業協会労務委員会 委員(平成4年〜平成14年)
受賞
平成 5年11月 滝川市市政奨励賞
平成18年10月 国税庁長官表彰
株式会社 田端本堂カンパニー
本社)三笠市岡山359番地1
TEL 01267-2-7300

 田端本堂カンパニーの田端真佳社長は、戦後復興期に早稲田大学を卒業し、川田工業社員として、まさに復興の基盤となる鉄道、農業土木などに従事した。その間に伊勢湾台風に遭遇するなど過酷な経験もしたが、のみならず先代の早世により、27歳にして経営を知らないままに社長職を引き継ぐこととなり、筆舌に尽くせない苦労を背負った。近年の公共投資の削減により、業界の先行きが見えない苦悩が若者の建設離れの一因と分析しつつも「人がいる限りは建設はなくならない」と、建設業の本質を指摘する。

――田端建設の創業は
田端
 創業者の祖父・田端末太郎は宮大工で、明治10年に福井県に生まれ、18歳で北海道に渡り、大正3年に滝川に転住して土木建築請負業を始めたとのことです。昭和14年に田端組を創立し、棟梁として滝川神社や砂川神社、寺など神社仏閣を多く手掛けたそうですが、滝川第三小学校を代表作としていました。16年に田端建設工業所に名称を変更し、二代目の父・武が代表となりました。父は明治42年生まれで、建築を専門に滝川周辺の建築工事を手掛けました。  大戦末期のころは、建設会社も軍部の指導によって合併させられ、現在の中山組と田端組、武藤組の3社が合併し、そして赤平に近い平岸の辺りで戦闘機の工場の建設を請負いました。当時は電話もなかったのですが、それだけで軍部に非協力的だと怒られたものです。そして終戦を迎えましたが、工費も支払われないままに合併を解除しました。
――その動乱の時代に、東京の早稲田大学へ進学したのは、地元でも珍しかったのでは
田端
 かつては長男が家督を継ぐのは当然でしたから、早稲田大学理工学部土木科に進学し、33年に卒業してから東京都原宿本社の川田工業に入社しました。昭和32〜33年頃は、ひどい不況でした。初任給は1万円から1万2千円くらいで、半年は見習いです。しかし、大学を出ても就職できない人が多く、工学部の私たちも大成建設や鹿島建設などの大手は、コネのある人でなければ、入社試験すら受けさせてくれなかったものです。  私たちのように田舎から出てコネもない者は、前田建設、西松建設、佐藤工業、飛島建設、熊谷組などが受け入れてくれたのです。
――入社当初の仕事は
田端
 川田工業に入社して最初に辞令を受けたのは、石川県の能登半島への赴任でした。七尾市から輪島市、それから能登半島突端の珠洲市の工事に携わりました。日本国有鉄道岐阜工事局の管轄工事で、七尾市から能登半島の先端まで鉄道を敷設したのです。  当時の国会議員・益谷秀次衆議院議長が石川県能登町(旧能登飯田町)の出身で、益谷鉄道と呼ばれていたものです。私たちの工区は穴水町で、南部は七尾北湾の北辺をなし、波の静かなリアス式海岸でした。東部は富山湾に面しています。
――技術者として苦労されたことは
田端
 当時は、ブルドーザなどは、珍しいくらいのもので、しかも油圧式ではなくワイヤー式だった時代です。実際には土などをトロッコに積んで運んでいた時代で、一輪車にスコップ何杯で一杯なるか、その歩掛かりを先輩から指導されたものです。鉄道工事はトンネルあり河川あり、道路もありで、ほとんど全ての土木作業があったので、当時の経験が後にも役に立ちました。  しかし職員が夜逃げするくらいに作業は辛く、厳しかったものです。川田工業の現場所長を勤めていた先輩は、同じく北海道出身で、「お前では3ヶ月ほどしか勤まらないだろう」と言っていましたが、結局は3年も勤めました。  次には愛知用水公団の発注した仮設道路と水路の建設に当たりました。現場は三重県で、その所長は北大卒者でした。彼は5年か6年は全く昇給が無かったので、本社か支店に苦情を言ったところ、「なんだ、お前まだ居たのか」と言われたそうです。その後は給料も上がり、そうして所長までになったそうです。
――愛知用水公団の工事が農業土木との出会いですね。北海道の農業基盤整備との端的な違いはあります
田端
 本州は小さい面積で営農しているため、水路の位置などをめぐる農家の敷地争いが過酷です。農地で幹線道路を整備する際にも、センターが少しでもずれると大変です。1mずれると、50cmはどちらかの土地にずれるわけですから、農地が減ることになります。札幌や都会で測量を間違えたら大変なことになるでしょうが、同じことが本州の農地でもあるのです。
──愛知といえば、伊勢湾台風という過酷な災害を経験していますね
田端
 昭和34年に東海地方を襲った台風15号は、全国で死者・行方不明者合わせて約5,000人もの犠牲者がでるなど、未曾有の被害をもたらしました。海水は高潮となり、河川の水も急激に増え、人々が避難する間もなくものすごい勢いで水が押し寄せ、家も人も押し流 してしまいました。夜に襲ってきたので、暗がりに避難することも出来なかったのです。  私はその当時は豊橋市で、国道1号線の工事で、豊川市と豊橋市の間の橋梁下部工事に従事していました。その時は、日本で最初の工法を採用しましたが、橋のピア(橋脚躯体)を2基か、3基ほど施工したところで、伊勢湾台風に遭いました。豊川周辺は海に近く、川は海に続いていたので水がつきやすいのです。避難するにも建設地は従来の橋とは別のところで、田んぼの中でした。田んぼの水路は、水が入れば立てないほど深くなるので避難も出来ず、宿舎に一日中いたら、床まで浸水しました。避難場所の高台にある日本三大稲荷の1つである豊川稲荷が見えるところだったので、その丘まで逃げたいのですが、水路に落ちたら終わりです。その時初めて、全国からの援助物資を受け取りました。
──凄まじい経験をしましたね
田端
 そうして昭和37年に川田工業を退社し、滝川に帰省しました。川田工業が新幹線の静岡県大井川のピア(橋脚躯体)工事を受注し、北海道出身の人が所長として赴任することになったので、同郷人として私も同行しようと思いましたが、豊橋の現場の工期が3月頃に終わるので、それを区切りとして辞めました。
――帰省当時は、土木よりも建築が主業務だったのですか
田端
 建築が主体ですが、土木も多少は施工していました。しかし、39年に東京オリンピックが始まり、それが終わった後10月末に父が他界したのです。私が入社して2年位ですから、現場しか経験がなく、社業など何もわからない頃で、その後が大変でした。
――27才にして社長業を引き継ぐしかなかったのですね
田端
 金融機関の担当者とは面識もなく、取り引き先にしても、北海道内の業界の事情は全く知らず、ゼロからの出発でした。最も神経を使ったのは、すでに役所から受注している工事を、いかにきちんと完成させて引き渡すかということでした。これから商売を続けるためには、それを確実にしていかなければなりません。そうして工事を全て終わらせてから会社を整理し、再開しました。  当時は今ほど道内には建設業者は多くはなく、当社は函館、留萌、小樽、函館、室蘭でも施工していました。そうして振り返ると、北海道でもう50年になりますね。
──早大卒後、激動の人生でしたね
田端
 早稲田大学の卒業50周年を記念して、同窓会の案内が来ていました。これが最後の同窓会になるとのことで、びっくりしました。みな年齢は73以上で、同窓生には入社した当時の会社にいまなお在籍している人もいます。  私たちの卒業した頃(大成建設など大手ゼネコンが株式上場した時期)は、日本が本当に底辺の時代でした。だから同年代の人々の頑張りが復興に結びついているものと思います。今でこそ各企業も大きく成長しましたが、その伸び盛りの時に入社して、本人達も企業も頑張ったのです。同窓会に出席してみると、そうした人々がたくさんいました。
▲社屋
――昭和30年代というのは、現場で施工している人々に信頼を置いて、かなりの権限を与えて任せていましたね
田端
 そうです。しかし、Uターンして会社を引き継いでからは、資金繰りや営業などの心配ばかりしていたので、友人から技術屋としての扱いは受けませんでした。やはり、最も難しく健康にも悪いのは、金の心配です。本業の苦しみは、自分の選んだ道だから仕方ないが、資金の問題だけはどうにもなりません。
――施工であれば、工期が終わった後に達成感もあると思いますが、経営者の場合は工期などありませんからね
田端
 こんな時代になりましたが、会社に縁あって一緒に働いている職員がおり、彼らの生活と家族設計があるのですから、会社を潰すことはできません。
――最近は技術者が年配になって退職する一方、後を継ぐ若い人が少なくなっていると言われます
田端
 新人にとって、中小建設業は魅力がないのかも知れませんが、それ以上に経営者を始めトップの人達にとっても、今の建設業の先が見えないことにも原因があります。今は苦しくても、何年か我慢すれば、いずれ展開が拓けるといった展望が全くありません。経営者自身がいつ辞めるか、チャンスを探っているような情勢下では、働く人も躊躇してしまうでしょう。公共工事が減っているのは仕方がないが、その中で自分たちがどうして道を拓いていくのか展望が持つことが必要です。  例えば、これからの北海道は農業だとは言っても、本業の建設業を放置して農業に参入するなどは、大変だと思います。職員が2、3人くらいの零細企業なら展開がきくと思うけれど、ある程度の規模になると、農業に転換するのは難しい。建設業者の給与は、他の産業より高く、特に農業と比べるとかなり高いものです。会社が潰れて仕事がないので農業に参入するというなら、給与が半減しても文句は言わないでしょう。ところが今の体制で農業に転換するから給与が下がるとなると、これは同意しないはずです。  かくして、44年も経営に当たってきましたが、今までの苦労とは全く別ものです。先が見えないという苦労です。
――平成16年に本堂建設工業と合併しましたが、業界の将来性を案じた結果ですか
田端
 当時はこんな情勢になるとは思わなかったのですが、結果的に良かったと思います。あの当時、両社の年商を足すと60億円で、当社は建築でスタートしたものの、後には建築工事を全て止めてから38年になります。一方、本堂建設は建築施工をしており、農業土木も請け負っていたので、お互いに業務補完ができたわけです。  そうして、ともに年商を60億円から70億円と見込んでいたのが、今は半分です。したがって、本堂も田端も、ともに合併せず、単独で30億円の年商が10億円にでもなったら、さらに大変だっただろうと思います。
――合併時は、職員数を圧縮したのですか
田端
 これは中小企業の合併の最大の問題点ですが、同じ街で合併するなら良かったのですが、田端は滝川市で本堂建設は三笠市です。市町村の工事は、本社が自治体所在地にないと受注できませんから、本社を三笠に置き、滝川は本店としています。このため本店と本社が一体なら事務経費はかからないのですが、それができないので、これは私としては想定外でした。  労働基準監督署にしても、三笠は岩見沢監督署で、滝川は滝川基準監督署ですから、労務担当者も二人いるわけです。このために事務員の合理化ができず、これが当社における合併のデメリットです。
――先行きが不透明な情勢ですが、社長としての今後のビジョンはありますか
田端
 建設業は、人が集まるところでは絶対に仕事がなくならないものですから、技術を磨き、地域の一般住民が評価できるような会社にしていけば、何とか生き延びていけると感じています。  したがって、社員には、会社が将来変わっても生きて行けるように、当社で培った技術を真面目に磨きなさいと言っています。人間が居る限り建設業はなくならないが、ただし、自社がそれを受注できるかどうかは別です。  しかし、ほとんどの企業はどう行動したら良いのかが分からないのだと思います。私も含めて、企業のオーナー自身がどうすべきか分からずに迷っているのですから、下にある者がわかるわけがないと思います。  若い人というのは可能性があり、夢を持っています。自分が努力すれば、そうした壁は乗り越えられると思っています。私たちもそう思って仕事をしてきました。しかし、なかなか簡単にはいかない。確かに農業も良いけど、農業法人というのはそう簡単にできるものではなく、当社も実験的に農業を3年前に始めましたが、かなり精力もいるし難しいものです。  例えば、農業地帯に建設業者が1社しかなく、農閑期などには農家に作業を手伝ってもらうようなところは、建設業が潰れたら農家の現金収入がなくなるので困る。そのために町を挙げて応援するわけです。町から補助金も出るし、農協も担い手がいなくなると困るので、農業法人を認めるなど、農協・町・商業者ら全てが応援するわけです。
――そうした地域にとっては、建設業が地元の経済を支えており、地域から頼られているのですね
田端
 そうです。どこの街でも、恐らく建設業者が支えているものと思います。建設業者から人を出さなければ、地域のお祭りもできず、夏の盆踊りもできなかったりします。しかし、中規模の街となると、そうした建設業者の影響が薄いのがネックですね。
会社概要
創  業:大正3年10月
資 本 金:75,000,000円
従業員数:80名
売 上 高:年商35億円
営業種目:土木、建築一式工事・下水道路設備工事、不動産の売買業務、産業廃棄物運搬業
滝川本店:滝川市東町2-1-50 TEL 0125-22-4177
札幌支店:札幌市東区北41条東1丁目 TEL 011-751-3008
その他の支店等:函館・旭川・石狩・苫小牧

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