建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2008年8月号〉

interview

釧路沖地震の経験で役割の重さを再認識

――飼料開発により域内で自立した農業経営への貢献を目指す

坂野建設株式会社 代表取締役社長 坂野 賀孝氏

坂野 賀孝 さかの・よしたか
昭和34年12月16日 生まれ
昭和57年 3月 専修大学 卒業
昭和57年 3月 株式会社サミットストア 入社
昭和58年 6月 坂野建設株式会社 入社
平成 6年 4月 同社 専務取締役 就任
平成13年 4月 同社 代表取締役社長 就任
坂野建設株式会社
釧路市若松町6番2号
TEL 0154-23-0291

 釧路市に本社を持つ坂野建設(株)の坂野賀孝社長は、大卒後は都内の流通会社に勤め、日々、ライバル店との過酷な競争に凌ぎを削ってきただけに、帰郷して家業に携わったときにはビジネステンポの大きな違いに戸惑いを隠せなかった。だが、管内のインフラに甚大な被害をもたらした釧路沖地震を契機に、建設業の役割の重さを再認識したという。一方、釧路は関東圏への牛乳供給基地でもあるだけに、インフラ整備を与る同社としても単なる基盤施工だけでなく、独自に飼料供給体制の構築を目指し、域内で酪農経営が自立できる体制の実現に貢献しようとしている。

──社歴と社長の略歴から伺います
坂野
 当社は昭和17年に創業し、30年に株式会社として設立しました。創立者は祖父の坂野重吉です。私はその4年後の34年に生まれました。  祖父は釧路建設業協会の前身である釧路建設工事組合の発足に努力しており、業界を束ねる立場として、オイルショックの頃には地元のテレビ番組にも出演したとの記憶があります。私が中学生の頃には、祖父の叙勲の祝賀会にも出席しました。  私は東京都内で大学を卒業し、1年間は建設とは無縁の流通業界に勤めた後、58年に入社しました。
──58年当時の業界情勢はいかがでしたか
坂野
 情勢としては、最も良い時期で、仕事をすればするほど仕事が増えるという繁忙を極めた時代でした。当時兄が当社に在籍しており、また弟は技術者ですが、私は技術者ではなかったので、管理部門を担当していました。次兄だったので、後継者の自覚はあまりありませんでしたが、兄が病気により他界したので、私が引き継ぐことになりました。社長に就任したのは平成13年で、3代目となります。
──近年は公共投資の翳りで、経営にもご苦労があるのでは
坂野
 社長就任した当初は、年商が27億円くらいでしたが、その後に改革政策を進めた小泉内閣が誕生し、政府の方針が大幅に変更されたので、3年間は毎年20パーセントずつ減少するという状況で、今では4割近く減収しています。
▲社屋
──釧路市は入社当時から見ると、かなり変わりましたか
坂野
 私が上京した当時は、保守市政が誕生し、5年間の在京期間の間に都市インフラの整備が非常に進み、街が近代化しました。釧路は特にインフラの後れが著しかったので、かなり変貌し、人口も22万人くらいでした。いまでは周辺町村と合併しても19万人くらいで、大きく目減りしました。  一方、釧根地域は酪農地帯ですが、東京都内にも地元の牛乳が行き渡っています。釧路港から生乳を出荷し、都内の工場で加工し、関東圏内で納入するという流通体制です。これも港が整備されているお陰で、それによって北海道はいわば外貨を得ることができます。
──先代社長からは、様々なことを学びましたか
坂野
 父は建設協会の会長を勤めていましたが、実直な人で、私には真似ができませんね(笑)。初代の祖父は建設一筋ではなく幅広く手がける人でしたが、父は堅実で、建設一本に打ち込んでいました。事業の多角化などは考えず、ひたすら公共事業に専念し、高級車に乗るわけでもなく、運転手を抱えることもしませんでした。バブルの時代も本業以外に関わったことはなく、舞い込んでくる観光ホテルの工事の建築依頼など、誘惑にも乗らなかったのは感心します。  当社は土木だけでなく、建築工事も請け負っていますが、たとえ工事金額の張る物件でも、裏付けがなければ父は受注しようとしませんでした。そうした堅実な精神は、今でも守り続けています。
──長引いた不況で、様々な産業が苦戦していますが、釧路の現況をどう見ていますか
坂野
 私としては、昔に戻ったと感じています。いわば昭和30〜40年代の状況に戻ったようなもので、人口も当時は15〜18万人程度でしたから。  同じく、社業も先祖返りしているように感じます。初代は「仕事は量ではなく質」という考え方で、量をこなすよりも内容を充実すべきと主張していたそうです。いまはそうした時代に戻ってきているのだろうと感じており、そしてこれが私の経営理念でもあるのです。
──釧路といえば、かつて釧路沖地震を経験しましたね
坂野
 数年おきには発生していますが、平成5年の釧路沖地震はさすがに衝撃的でした。家内の実家も、室内は酷く散乱し、向かいの家は家ごと崖下に崩落致しました。私はそのときは常務で、営業と内務に当たっていましたが、地震発生時に窓ガラスがあちこち破損していた釧路開発建設部に急行したところ、部長室にはすでに災害対策本部が設置されており、4台の電話を備え、若い職員が対応に追われていました。  それまでは行政から受注して施工に当たる通常業務だけで過ごしてきましたが、災害でインフラが破壊されると、私たちのような業界はやはり必要とされているのだと、改めて痛感させられました。これを契機に、私自身の仕事への姿勢も大きく変わりました。  当時、当社は道路整備に当たっていたのですが、災害で国道が破壊されたので、災害復旧工事に取り組みました。また釧路川も地震でズタズタとなったことから、地元の建設会社が企業体を構成し、4工区に分かれて復旧に当たっていました。みな24時間体制で、人的被害はそれほどなかったのですが、インフラの被害はかなり深刻でしたから、来る日も来る日も現場の復旧に明け暮れる状況でした。しかし、その後もさらに東方沖地震も発生しました。  したがって、新潟の震災や、最近の仙台地震など、震災のニュースを見ると、ゾッとします。
▲磯分内地区農地造成工事(企業体)
──地震の場合は、農業基盤も被害を受けるのでしょうか
坂野
 農地そのものの崩壊は聞かれませんでしたが、牧草地の下には配水管があり、それが被害を受けました。特に送水管の被害は大きく、それらの復旧事業はかなりありました。牛に与える水の質が悪くなれば、農家経営に大きく影響します。ライフラインでもあるので、工事は急を要します。
──近年は建設業界の再編が進められていますが、災害時の対応に不安も生じるのでは
坂野
 建設業界は平時では一般市民との接触が少なく、馴染みは薄いのですが、いざというときには地元に配備していなければ対応できない業種です。したがって、そうした役割を今まで以上にPRし、建設業の存在感を示していくことが大切ですね。もしも業者数が半減したなら、たぶん万全の対応はできないでしょう。  酪農により、生乳などを地元釧路港だけでなく、陸路を通じて苫小牧港からも毎日、首都圏へ輸送している供給基地ですから、地震による復興が後れれば、それだけ供給も後れることになります。
──農業基盤整備を通じて、実感したものは
坂野
 私が入社した50年代後半当時の農業土木は、山を崩して農地に転換する工事が多かったものです。開墾し、測量して山を切って面に変える工事で、その時の現場代理人は、夕方になると泥だらけで会社に戻ってきたものです。農業土木に携わる人々は、建築工事などとは違って、泥まみれで作業に当たっています。けれども、そうしてやればやるほど、結果が出る時代でした。  一方、私自身は現在、農業の研究会を組織しています。仮称ですが、EAE(エコ・アグリ・エナジー)研究会というもので、環境と農業とエネルギーをテーマに、穀物価格の上昇により、道東地区の酪農業は穀物相場に左右されて営農が厳しい状況にあります。道東地区は第一次産業の景況が良くなければ、地域が発展しません。  そこで、私たちも単に基盤整備に携わるだけではなく、高騰する輸入飼料に依存しないため標津地区で試験的にとうもろこしを栽培し、それを飼料に転用して、域内で循環できるシステムを構築しようと実験しています。もちろん失敗することもあると思いますが、そうして授業料を払ってでも取り組み、学んで酪農経営をサポートしていくべきだと考えています。  中標津町で道立の根釧農試にも足を運び、行われている品種改良などを学び、実験もしていきたいと思います。公立の研究機関と、私たち民間企業と釧路公立大学が連携しながら地域振興の底上げになるよう貢献していきたいと思っています。  やはり農業も建設業と同じで、一般市民との接点が少ないので、どんな取り組みが行われているのか、PRを疎かにすべきではないと思うのです。そこで、そうした情報発信機能を担っていこうと考えています。
──経営環境は厳しい情勢ですが、どんな企業像を目指していますか
坂野
 地元で長く続く企業でありたいと思います。たとえば首都圏に移住した人が、帰郷したときに、やはりここに変わらず会社があったと思われるような長続きする企業で、職員も安定して活気良く働き続けることのできる会社が理想です。
会社概要
創   業:昭和17年3月25日
設   立:昭和30年2月25日
資 本 金:50,000,000円
年間完工高:23億円
許 可 番 号:北海道知事(特-14)釧第125号
許 可 業 種:土木、建築、とび・土工、管、舗装、造園
社 員 数:39名
出   先:鶴居出張所、帯広出張所
関 連 会 社:有限会社 北翔

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