建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2008年5月号〉

interview

地域の反対にめげずに成功した小樽運河再生

――道道小樽臨港道路の開通が起爆剤で全国に知られる観光スポットに

宮本土建工業株式会社 代表取締役 宮本 義久氏

宮本 義久 みやもと・よしひさ
昭和27年12月9日生まれ
昭和53年 3月 北海道学園大学工学部土木工学科 卒業
昭和55年 1月 宮本土建工業株式会社 入社
昭和58年 5月 常務取締役 就任
平成 2年 6月 専務取締役 就任
平成11年 6月 代表取締役専務 就任
平成19年 7月 代表取締役社長 就任
宮本土建工業株式会社
小樽市奥沢1丁目19番4号
TEL 0134-25-8787

 小樽運河はかつてはどぶ川と見間違うほど汚染し、廃れていた。今や北海道の有数の観光資源として再生し、リピーターも定着するまでになった。劇的な変貌を遂げた背景には、小樽港を通る道道小樽臨港線整備事業、これを機に運河の改善を発案した道の施策があった。その施工にあたった宮本土建工業(株)の宮本義久社長は「反対派の罵声の中で作業に当たった」という。たった一本の道道が、人口減少の進む地域を有力な観光地へ変えた、無二のモデルケースといえよう。長年、地域のインフラ整備に貢献してきた宮本社長に、道路整備と地域の変化などを語ってもらった。
――この小樽市で創業された当時の経緯からお聞きしたい
宮本
 創業者の宮本勇作が、現在の石川県羽咋市から明治時代に小樽に入植し、明治40年に宮本組を創立しました。当時は、河川砂利の採取販売と、馬車で運送業などを営んでいましたが、大正9年頃から砕石業を始めました。そして後には、土木工事も請け負うようになったのです。当時は馬車が輸送手段で、砕石は人力でした。そして昭和4年に会社組織とし、それを創業年として土木工事業を生業としてきました。  創業者の血筋では3代目ですが、私が会社に戻って来たのは30代からで、法人の代表としては7代目となります。学生時代、岩内から瀬棚方面に向かう国道229号線の道路工事現場で数年間続けてアルバイトをし、寿都町の歌棄地区の飯場で寝泊まりしていました。当時は、道路整備のために、発破で岩を砕いて道路を造っていた時代です。
――現職就任までの来歴と、業界情勢についてお聞きしたい
宮本
 大卒後は日本道路に2〜3年在席し、27歳になった昭和55年に当社に戻りました。当時は父が代表取締役専務に就任していました。私は1年か2年ほど現場に勤務した後、父が他界した58年に常務に就任し、平成11年に代表取締役専務、そして19年に現職となりました。
――近年の事業費削減で、社歴100年の中でも最も厳しい時を迎えたのでは
宮本
 今よりも創業当時の方が、さらに辛かったのではないかと想像します。今のところは大々的なリストラは、何とか回避してきており、今後もできれば避けたいと思っています。別会社で食堂やゴルフ場を経営していますが、それぞれに業界があり、競争も厳しいので、本業として土木工事と除雪業務・砕石業務を会社の中心として今後もやっていきたいと思っています。
――その除雪業務について
宮本
 除雪の場合は技術的なノウハウは必要ですが、基本的にはサービス業なのです。顧客たる発注者は国や道と自治体ですが、利用者は地域住民とドライバーですから、彼らが本当の意味での顧客であり、冬期間の家周りの環境を整え、車の出し入れと通行をスムーズにしてあげるのが目的ですから、その意味で除雪業はサービス業といえるでしょう。  その場合、地元に根付いた業者ならば、「あそこの角のおばあちゃんは一人住まいだから」といった、地域住民の生活事情を細かく把握しているので適切な配慮ができます。これこそ、まさにサービス業のノウハウといえます。かくして道路の維持業務は地域に密着し、地域に精通しているほど適切な対応ができます。
▲学生時代アルバイトをした227号歌棄地区
――建設工事も、基本的には住民のために行うサービス行為ですね。そうした数々の施工の中でも、印象深かったものはありますか
宮本
 印象深いのは、道道小樽臨港線の施工でした。昭和55年に私が会社に入り、昭和58年に現場に着任したのがこの現場で、当時は栗原健志氏が北海道小樽土木現業所長でした。浅草橋の架替と、水路工の工事を大手ゼネコンとJVを組んで、当社がサブの立場で参画しました。  この道道小樽臨港線が整備されてから、小樽は変わりました。当時は運河の埋立の反対運動が盛んで、運河の周りに報道陣や市民が集まった中での工事作業でした。杭などを打っていると、橋の上から反対派の人たちが「やめてくれー」と叫んできたり、壮絶に罵倒されたりといった喧噪状態の中で現場に当たりました。
――その頃の運河は、けっこう汚染されていたのでは
宮本
 かなり汚い状況で、昔の運河そのものの光景でしたから、風情などは微塵もなかったものです。水は汚く淀み、ヘドロとメタンガスの悪臭がひどく、どう見ても観光資源になどなり得ないと思いました。
――一連の整備工事が完了した昭和61年を小樽観光元年といわれていますが
宮本
 今となれば、北海道の政策判断は正しかったと思います。運河論争は小樽市民を巻き込み、商工会議所までも反対していました。結果として私の理解では、折衷案の形で全面埋立を半分埋立に変更したわけです。こうして道道小樽臨港道路を創り、運河も半分残して綺麗に整備したことで、今の小樽運河観光の基礎をつくったと言えます。道側も全面埋め立てに固執せず、反対派の主張にも屈しなかった決断は最良だったと思います。  皮肉なことに、今となっては、かつて反対した人達が「我々の成果」などと喧伝しており、何を言っているのだろうと、私は内心思いますが、当時の小樽土現の立場は大変だったでしょう。新聞に叩かれ、市民の監視も厳しいものでしたから。
――その運河は、冬も夏も四季折々の姿を持つので、海外からの観光客も多いですね
宮本
 あの時に整備され、今の風情があるからこそ絵になるのです。その後、手宮地区もかつての運河の幅のままで整備されたので、昔の風情を楽しみたかったら手宮に来なさいとよく言われ、観光パンフレットにも推薦されています。こうした狙いがあって、石垣を積んで整備をしたのでしょう。  また、運河の舗道に石が敷き詰めてありますが、これは当社が4年か5年かけて施工したものです。石は、当社の会長が甲府塩山で採石した10センチ立方体の「ピンコロ石」と呼ばれるものを買い付け施工したものです。
――関係者らの努力の集大成で、美しい景観が構築されたのですね
宮本
 元から小樽には石畳のイメージがありましたが、この仕事に携わることが出来たのは、会社として誇りだと思っています。
――小樽運河のような発想で、さらに管内を整備すれば、観光産業の活性化も可能では
宮本
 可能性は十分にあるでしょう。それを各地域で考え抜くのが、最も大切だと思います。しかし、そのための道路整備の必要性を、建設関係者が主張してもあまり説得力はなく、建設業とは縁もゆかりもない人々が主張した方が、影響力は大きいでしょう。
――日本海側の道路などは、雨や雪が降れば通行止めとなり、非常に危険な地形ですね
宮本
 海と山の間のわずかな平地に住んでいる人々にとっては、道路の存否は死活問題で、それこそライフラインそのものです。「全ての道はローマに続く」という格言がありますが、有史以来、道路は人間の生活とは切っても切れないものです。生活物資や郵便物を運んだり、時には軍時に使われることもあります。いずれにしても、人や車や物が行き交う施設です。どこにでも無差別に踏み込んでいくのではなく、道路によって分け目を作り、その上を人間や機械が往来するのです。  そして、それは時代と共に用途もルートも含めて変わってきます。さらなる利便性や安全性を求め、環境問題への対応もあります。それを含めて、昔からある道路をそのまま使うのでなく、人々のニーズや世の中のニーズに合わせて作り変えていくことも必要だと思います。
──現在の小樽市内の道路網の現況を、どう評価しますか
宮本
 市内の道路整備状況は、まだまだ不足です。最初から小樽に都市を作ることを想定して開発したわけではなく、人が小樽港に到着し、今の信香町、勝納辺りに居住してから開けていきました。そして、南北東西に開拓が進んでできた街で、人が住みついた後から道路を造るという港まちだったので、道路網の全体像はかなり分かりづらい。
――そうなると、道路網の基軸は道道小樽臨港線となりますか
宮本
 5号線と道道小樽臨港線の2線です。5号線は一級国道の幹線で、渋滞解消のために長い年月をかけて改良してきました。臨港線は小樽の市域のスタートラインとして有効な役割を果たしています。また、交通容量の拡大で既存の市道を拡幅するのは、地権者もあって容易ではないため、この2線が小樽にとっての生命線だと思います。
▲道道小樽臨海道路と小樽運河
──道道小樽臨港線は、一本の道路がどれほど地域を発展させるかを示す恰好のお手本となりましたね
宮本
 臨港線が開通した後は、沿線にはホテルも建ち並び、ヨーロッパ風の景観ができたのです。そして堺町には、北一ガラスをはじめ様々な店舗が出店しました。  小樽市は人口が14万人以下に減っていますが、道路はそうした地域にとって生命線なのです。そして時代に合わせて変えていかなければ、地方都市は生き残れないのです。そうした環境を国や道に整えてもらい、その先は地域で有効に使うよう真剣に考えるべきで、地方都市が単独で道路を造れるわけではありませんから、その連携が必要です。  そうした環境があったからこそ、例えば屋台村などを小樽出抜小路に造ろうと発想したのです。もしもあの地域が二十数年前のままなら、そんな投資は全く考えないでしょう。
――ところが、最近は道路特定財源がやり玉に挙がっています
宮本
 廃止された道路も、その時々に人々の生活に密着して必要だったら存続していたでしょう。諸事情でルートが変わったり、使わなくなっても、当時は必要だったのです。そうしたものを、現代の私たちは大事にし、残していかなければならないと思います。一方、必要に応じて新しい道路も建設しなければなりません。何千年という人類の歴史の中で、私たちが存在する時間は微々たるものですが、道路も同じだと思います。  そう考えれば、特定財源論議で道路が悪玉の象徴のように批判されたり、無駄とされるのは非常に腹だたしい思いで、道路の資産価値をもっと知ってもらいたいものです。みな道路の恩恵を受けていながら、その価値を意識していない人が多いのです。そこに道路ができて、人が集まるようになったお陰で、商売をしている人もいるのです。ところが、みな恩恵を受けているのに、近年の報道や論議のあり方を考えると、腹立たしくなることがありますが、そういった誤解や偏見を解くことも今後の我々の仕事のひとつだと考えます。
会社概要
設立年月日:昭和4年4月
創立年月日:昭和4年4月
資本金:30,000,000円
年商:1,700,000,000,000円
従業員:30人
営業種目:土木工事70%
     建築工事 0%
     その他  30%

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