建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2007年12月号〉

interview

満州国で覚えたスピードスケートが後に開花

――栗林建設の支援にチャレンジ

東光グループ 東光舗道株式会社 代表取締役会長 河西 哲夫氏

河西 哲夫 かわにし・てつお
昭和30年4月 宮坂建設工業株式会社 入社
昭和52年4月 帯広舗装協会 会長就任
昭和52年9月 東光舗道株式会社 代表取締役社長就任
昭和56年11月 帯広カーリング協会 副会長就任
平成2年2月 東光舗道株式会社 代表取締役会長就任
平成2年2月 河西建設株式会社 代表取締役会長就任
平成2年2月 北海道道路保全株式会社 代表取締役会長就任
平成2年2月 東光生コンサービス株式会社 代表取締役会長就任
平成2年2月 東光コンサルタント株式会社 代表取締役会長就任
平成13年5月 帯広スケート連盟 名誉会長就任
平成13年6月 財団法人北海道スケート連盟 会長就任
東光舗道株式会社
帯広市西23条北1丁目1番16号
TEL0155-37-3181
表彰歴
平成5年  帯広市スポーツ賞 受賞
平成9年5月北海道建設業協会長表彰 受賞(対象:建設業発展に関して事業経営に永年携わった者)
平成14年より帯広市功労者
平成17年11月北海道スポーツ賞 受賞
平成19年5月全国建設業協会長表彰 受賞(対象:全道から推薦を受けて他の模範となる会員)
平成19年10月文部科学大臣表彰(生涯スポーツ功労者)受賞

 東光舗道の河西哲夫会長は、昭和9年北海道庁函館土木現業所勤務から満州国政府へ転職した父とともに満州へ渡り、そこで幼少期を過ごした。その頃に没頭したスピードスケートが後に開花し、自らインターハイで7位に入賞したほか、宮坂建設工業から独立して興した東光舗道ではカーリングチームを編成し、長野五輪出場や幾多の世界大会での入賞を収めるなど、スポーツ振興にも貢献してきた。そして今日の帯広市のスケート文化の確立やウィンタースポーツ振興への貢献が評価され、平成19年度の文部科学大臣賞も受賞した。一方、企業人としては、6社からなる企業グループを構築した実績を持つが、いかに高い経営力を持つ河西会長でも、今日の公共事業の大幅削減にあっては限界もあり苦悩している。常に背後で支えた父の足跡とともに、同会長の今日までの生き様を語ってもらった。
――先代は激動の昭和史とともに生きた人物でしたね
河西
父は早稲田大学を卒業し、旧内務省北海道庁の函館土木現業所に務めたのですが、昭和9年に函館の大火に遭い、先輩諸氏から函館にいるよりも満州へ行ったほうが良いとアドヴァイスされたことから、満州へ渡ることになりました。満州国は昭和3年に建国されましたが、日本では昭和7年頃から深刻な不況で、就職難の時代でしたから、みな大志、野望を抱いて満州に渡っていた時期でした。実際に、給料も日本の倍以上だったのです。そのとき、私は1歳か2歳くらいでした。 現地では満州国政府の国防道路建設局総務課長として務めましたが、土木現業所に相当する工程所が各都市にあり、父の赴任に伴って、私たちも各都市を転々としました。最初は哈爾濱(ハルピン)で、次は安東(アントウ)という北朝鮮との国境の町で、今では丹東(タントウ)と呼ばれています。その後は牡丹江(ぼたんこう=ムータンチャン)にも赴任しました。父は技術者ではなく事務吏員でしたが、工程所の所長にまで昇格しました。そして、最後には満州国政府特別建設団秘書課長として新京(シンキョウ)に赴任しました。新京は今の長春(チョウシュン)で、満州国の首都です。 同団の役職は幅広く、満州国中央銀行の統括も受け持っていたとのことです。そこで終戦が近いという動向を察知し、8月には実際にソ連軍が侵攻してきたことから、いよいよ終戦を迎えたことが分かりました。その時、同団は大胆にも中央銀行の資金を市民にばらまいたというのです。ソ連軍がいつ侵攻して来るかわからないから、自分達で身を守れという気遣いだったのでしょう。 一方、私たち6人兄弟を含む家族は、8月6日には満鉄で安東へ避難していました。朝鮮は親日的だったので、どんな事態が起こっても国境さえ越えてしまえば安全だと思われたからです。ただし、父は政府の役人で責任者ですから、一緒に逃げるわけにはいかず、現地に止まっていました。 そのため、日本に引き揚げるまで父を待つ予定でしたが、やがてソ連軍が全土を制覇し、そして安東にも侵攻してきて満州鉄道を押さえてしまいました。やむなくソ連軍高官に掛け合った結果、列車を一台借りて父のいる新京に戻ることになりました。
▲クリックすると拡大したものが開きます。
――ソ連に抑留されていたのでは
河西
いいえ、満州国民(現中国国民)が守ってくれていたのです。満州人には父の部下が沢山いて、家族ぐるみで付き合っていたお陰で、私たちが引き揚げるまでは父を匿ってくれていたのです。そのお陰で昭和21年8月15日に、私たちは無事に博多に到着しました。 父は命を助けてくれた人達に恩返しをしたいと、復員後にも彼らとは書簡をやりとりしていました。
――中国は共産制になったので、市民の親書でもリスクがあったのでは
河西
そうです。送った手紙が差し戻され、それを私も見ましたが、下は切り取られ、検閲後に改めて糊付けされた状態でした。父も「相手は共産国だから、その人が日本のスパイと疑われてはまずい」と話していました。 そして昭和46年に、私は再び満州を訪ねました。そしてその人を訪ねたのです。しかし、本当は現地にいたのかもしれませんが、ついに名乗り出ることはありませんでした。
――46年はまだ毛沢東政権で、日中国交回復前ですね
河西
北京経由で入国はできましたが、現地では白い目で見られ、街などは怖くて歩けなかったものです。
――復員後はどのように生活しましたか
河西
博多に上陸してから、国内にいる身内の消息を知るために連絡を取ろうとしましたが、なかなか連絡がつかず、電報をどこに打てば良いのか分からなくなりました。そのとき、父の義兄だった帯広の宮坂組(現宮坂建設工業)の宮坂寿美雄社長から、「俺のところへ来い」との連絡がありました。しかし父は、日本は荒れているので、山奥で寺子屋でも始めようかと考えていたようです。 北見市の中心部に4万坪の河西牡丹園があり、そこは父の兄である河西貴一が経営しており、私たちはそこに行きました。営林署が所有する4万坪くらいの土地も隣接しており、そこを麦畑にして、私は中学校に入学してから農作業を手伝ったりもしました。
――その後に帯広に転居したのですね
河西
昭和23年に、宮坂建設の宮坂社長から「土木現業所の勤務経験があるのだから、来て欲しい」と要請をいただき、帯広に行くことになりました。そして父は支配人に就任し、私は帯広中学に転校しました。 帯広の人々は気質が良いので、冷たい扱いは受けませんでしたが、私自身は僻みっぽくなっていました。何しろ、他の学生は靴を履き学生服とマントを着て通学しているのに、私は貧乏のため下駄に軍服のような奇妙な出で立ちでしたから。 しかし、後になってから父は、ゼロからスタートして宮坂建設に尽くし、ついに60億円規模の企業に成長したと感慨深そうに話していました。
――父の姿を見て、法政大学の工学部を志望したのですか
河西
工学部を目指していたわけではないのです。当時は教員が不足していたため、教員資格を持たない者が代用教員を務めたりした時代でした。そこに、父が寺子屋を始めようと考えていたこともあったので、早稲田大学の理工学部だけでなく教育学部も受験しました。しかし、理工学部は不合格だったので、教育学部へ進学しようとしたところ、父が「教師になってどうするのだ」というのです。そのため、同時に受験していた法政大学工学部に進学したわけです。
▲東光舗道 本社 ▲創立者 河西十二郎氏の像
――その当時の東京都内の様子は
河西
空襲は、焼夷弾による攻撃が中心だったので、爆弾で道路が掘り返されている状態ではありませんでしたので建物は次々と建設されていきました。私も、日比谷ビルの建設現場でアルバイトをしたものです。そのビルが今でも残っているのですから、日本の建設土木技術は昔も非常に進んでいたと感じます。 また、代々木には米軍将校たちの社交場だったワシントンハイツクラブがあり、そこでもアルバイトをしましたが、みな生活レベルは高く、見たことも無いものを食べており、こんな国と戦争したのでは勝てないと思いましたね。いまでこそ日本も生活レベルは高くなりましたが、終戦直後はラーメンも無かった時代で、そば、うどんが主体でした。しかも、粉の質は悪くボサボサしたものでしたから。
――その後、昭和30年に帯広に戻り、翌年に宮坂組に就職したのですね。その当時は38号線や日勝峠、狩勝峠は舗装されていましたか
河西
日勝峠はもちろん無く、狩勝峠だけが道央に結ぶ唯一の道路でした。しかも線形はジグザグで、鉄道も石勝線が無い時代です。それを大改良し、その後に石勝線が開通したのです。
――入社してから深く印象に残っている現場はありますか
河西
高度成長する以前で、まだ国家予算がそれほどなかった時代でしたが、38年に帯広市で初めての舗装工事を担当しました。 帯広市は、駅前通りや緑が丘方面に、軍が作ったコンクリート舗装の道路がありましたが、その改良工事を土木現業所が発注し、宮坂建設が受注して私が主任技術者として携わったのです。 その頃はセメント一体が50キロで、それを2つ背負って運んだものです。最近の作業員は腕力が乏しいので、セメントも30キロに変わりましたが、それすら2つは担げないという人もいます。昔は小樽港などに陸揚げされたセメントは汽車で搬送され、帯広の操作場に到着したら、そこから馬車で運んだものです。しかし当時のセメントは、ミキサーで練っても均質にならないため、施工後に亀裂が生じたりしました。
──扱いが難しかったのですね
河西
そのためこれは駄目だと思い、舗装業を創業しようと考えました。その時、私は宮坂建設取締役に就任していましたが、社長である父に、これからは全ての道路が舗装されるようになるかもしれないと主張しました。父は「そんなに予算があるわけではない」と否定的でしたが、昭和40年には舗装会社を設立しました。それが現在の東光舗道です。
▲北海道道路保全株式会社 ▲東光生コンサービス株式会社
▲河西建設株式会社 ▲東光コンサルタント株式会社 ▲クリーン開発株式会社
――実際に36年頃からは、総合建設業から道路部門を分離する動きが見られるようになりました
河西
そうです。私としては、本当は総合建設業にも進出したかったのですが、宮坂建設と競合しては、恩を仇で返すことになるので、北見市で河西建設を設立しました。ところが、諸官庁の担当者からは、ゼネコンよりも舗装業の方が有利だと言われ、実際に社名は河西建設でも8割は舗装工事しか発注してくれませんでした。 こうして東光舗道と河西建設と二つの会社を設立することになりました。
――インフラ整備が盛んになりつつある時期ですね
河西
当時はインフラ整備は盛んではありましたが、公共事業が将来減少すると予想されることと、他のこともやりたいという思いがあったので、北海道道路保全(株)、さらに東光生コンサービス(株)、東光コンサルタント(株)、クリーン開発(株)などを次々と興していきました。 建設業界が不況の中にあってグループ各社も伸び悩んでいる状況ですが、お陰様にて子会社はこの厳しい状況を乗り越える体力が備わり、次第に育ってきたものと喜んでおります。
▲札樽道自動車道朝里〜手稲間舗装補修工事 ▲一般国道38号 新得町狩勝峠舗装補修工事 ▲道東自動車道 帯広管内舗装補修工事
――確かに道路整備と舗装が終わった後は、補修が必要になりますから、グループ会社で業務を分担できますね
河西
高規格道路や高速道路の早期開通の後、私が最近主張しているのは、道内は交通事故が多いのですから、二桁国道、一級国道を全て4車線にし、中央分離帯を敷設するべきだということです。何しろ、対面で正面衝突した場合の死亡率が最も高いのですから、4車線に拡幅し分離帯を設けたなら、絶対に衝突は起こりません。 以前に、当社のカーリングチームがアルベールビル五輪に参加したときに、ドイツとスイスの道路を視察しました。スイスの道路は日本と同じく狭いと思いましたが、ドイツではアウトバーンが完備され、通行料は無料で、6車線から10車線という規模でした。 制限速度は、事実上は無きに等しく、バスなども150キロで走るのです。それが全国の各都市と結ばれ、物流関係車両も無料で通行し、事故も少ないのですから、日本もこういう国にならなければ駄目だと強く思いました。 したがって、道東道の池田−清水間の本線工事を私たちが受注し施工しましたが、開通式に出席した時は、感激のあまりに真新しい路面に頬ずりしたい思いでした。ただ、少しだけ残念だったのは、4車線でなく2車線だったことです。すでに2車線でできたものを4車線にするのは、経済的に二度手間ですから。
――オリンピックの話題がありましたが、カーリングチームを発足したのは、会長の発案ですか
河西
最初は、氷の上で石を滑らせて何が面白いのかと思っていたのですが、札幌の北方圏センターで堂垣内尚弘元北海道知事と面会したときに、「カナダのカーリングを日本に導入しているところなので、帯広でやってみないか」と持ちかけられたのです。 そこで帯広の経済人らに誘いかけてみましたが、その頃は北海道銀行の頭取が北海道カーリング協会長を務めている程度で、認知度も低く、カーリングをプレイする人がほとんどいなかったのです。 そうしているうちに、池田町で地元紙・十勝毎日新聞社のチームが発足したので、私たちもチームを作ろうということになりました。何しろ私たちの業界は、その当時は冬季間には仕事がなく、その間に職員達は何をしているかといえば、酒を飲むか、パチンコ、麻雀に興じるなど、健康的ではないと思っていましたので、リンクを独自に作って社員の健全な体力づくりのため練習させたのが始まりです。
▲2003年第5回アジア冬季大会
カーリング女子初代チャンピオン
東光舗道グループカーリングチーム
──その試みは、後のチームの成績を見ると成功だったと言えますね
河西
全道大会で優勝してしまったために欲が出ました。長野の全国大会に出場して優勝し、その結果、ドイツの世界選手権出場権も与えられたので、ドイツも良い国だから海外遠征も社員の見聞を広める良い機会だろうと選手を連れて行ったのです。世界選手権は、世界10か国で予選を勝ち抜いた10チームが集まります。私たちはドイツ大会、スイス大会、カナダ大会、オーストリア大会など全てに参加し、私も必ず同行して檄を飛ばしてきました。
――経費的には大変ですね
河西
通常であれば、チームができれば寄付金を集めたりしなければなりません。また全日本チームなどには道の補助がありますが、職場の単独チームとなると、会社で経費を賄えるだろうと見なされ、資金協力がなかなか得られないのです。市で協力してくれるのは、一人3万円程度で、せめて日本カーリング協会の補助金はどうかと思ったら、協会も発足したばかりで資金的余裕が全くないのです。
――経営者の理解が無いと、なかなか維持できないですね
河西
カーリングで日本を売り出したのは、私たちが始まりだと言って良いと思います。その後、常呂町にはカーリングホールが整備され、昭和64年の国体では公開競技としてプレイされました。いまでは国体で採用されなくなったのが残念です。5面のカーリングホールを常呂町が作ったお陰で営呂チームが強豪になったのですから、やはり卵が先か鶏が先かですね。 そこで、地元にもカーリング場を作って欲しいと帯広市に要望しましたが、競技人口が300人程度では5億円も6億円もかけて施設は作れないと言われました。
――オリンピック競技としては公認されていますね
河西
アルベールビルから認定され、長野五輪で正式競技になってからカーリングの知名度は非常に高くなりました。道内出身の選手がオリンピックでも大活躍し、カーリングに長い間携わってきた私共にとってはとても誇らしいことです。
▲カーリング世界大会 ▲河西建設カーリングホール
――今年は、文部科学大臣から生涯スポーツ功労者として表彰されましたね
河西
これはスケート関係者が主体なのですが、生涯スポーツ功労者として受賞しました。これについては、父に非常に感謝しています。というのも、私たちが満州にいた頃、当時から満州はスケートが強かったので、父が部下を動員し、スピードスケートの交流をしていたのです。満州では、小学校でスケート靴の交換会も行われていました。スケート靴は成長とともにサイズが合わなくなり、履けなくなるので、それを学校に持ち寄って集まり、父兄が物色しながら交換し合うわけです。 その関係で、私も小学校就学前の6歳から、家の裏口の庭に氷を張ってらい、母に靴のひもを結んでもらったりして本格的にスピードスケートの練習をしていました。 そして復員後に入学した帯広中学では、2週間に一度は体育科の授業でスキーなどのウィンタースポーツが導入されていたので、私は父に頼み、宮坂建設の作業員に帯広小学校の運動場にリンクを作ってもらったのが、十勝・帯広のスケート文化のはじまりです。つまり、戦後の十勝・帯広でスピードスケートを履いたのは、私が第一号になったのです。戦前には何人かいたとのことですが、戦後はいなかったとのことです。 一方、父は帯広スケート連盟を組織して2代目の会長に就任し、3代目は若松氏で次の4代目に私が就任しました。
――帯広市でも、国内で初めての通年型スケート場の建設に着手しましたね
河西
先日にも市役所の担当者が帯広の森・屋内スケート場建設の図面を持って来て説明し、ご指導願いますと挨拶されていきました。砂川市長も本当に良く理解し、決断してくれたと思います。 帯広市民もスケートに対しては理解が深く、小学校のうちから全十勝大会、帯広市児童スケート大会などを開催しています。出場選手は1,000人に及び、周りには応援する父兄達の人垣が出来たりしますから、その光景には驚きます。
――昭和20年代の帯広のスケート事情は
河西
帯広柏葉高2年の時にスケート部を作りたいと考え、教師に相談したら賛同してくれたので、新たに部を発足しました。そして3年生の時に、とにかく第1回目のインターハイ全国高等学校スケート競技会には出場したいと思い、受験を控えていながらも、北海道予選会に参加すべく教師に連絡をとってもらい、苫小牧市王子の大会に出場しました。その時は普通のズボンに靴下を上から被せ、セーター姿でリンクに立ちました。 参加選手のほとんどは苫小牧市と札幌市の選手ばかりで、帯広からの参加は始めてでしたが、それでも3位に入賞しました。
――そして、昭和27年の全国大会(インターハイ)に参戦したのですね
河西
第1回の大会に参加し、全国で7位に入賞しました。私としては、とりあえずは満足でしたが、父に言わせれば「受験勉強が先だ。何を考えているのだ」と叱られましたね。それでスケートは卒業したのですが、法政大学に入学してから、満州の新京にいたという教授が、河西はいないかと教室に訪ねてきました。そして帯広柏葉高でインターハイに出場したのだから、スケート部に入部して欲しいというのです。 しかし、文学部や経済学部とは違い、工学部ですからスケートと学問は両立出来ないのです。大学教授からも、「体育会に所属して卒業出来ると思うのか」と言われました。
――単位認定が厳しかったのですか
河西
それは厳しいものでした。大学は教授が不足していたために、東大や東工大の教授陣が講師として来るので、みな一流です。自著の教科書を持った人ばかりでした。
――企業グループも確立しましたが、経営において力を入れていることは
河西
もう75歳ですから、3年前に引退を宣言していたのですが、今でも午前中には必ず出社しています。今年になって栗林建設を支援することになり、その事で頭が一杯なのです。 栗林建設のオーナーである栗林 護氏とは友人関係でしたが、彼は体調を崩してしまったのです。しかも、後継者が無く、建設業協会長と後事を相談したところ、弁護士から「あなたが引き受けずに誰が引き受けるのか」と要請されました。 栗林建設のままで成長させるためには、建設会社に合併吸収されるより異業種からの支援の方が良いだろうとのことで、舗装業者である私に白羽の矢が立ったのです。 しかし、昨今の建設業界をとりまく厳しい環境の中、帯広の業界では、伝統と歴史ある会社として名の通ってきた栗林建設を引き受けたことにより責任は重くなりました。これからスケート連盟の会長も、市関係の役職も辞めて、好きなゴルフと魚釣りやパチンコ、家庭菜園などをしながら暮らそうと考えていたのですが、まだまだ引退も出来ない状況になってしまいました。
▲栗林建設株式会社
――なかなか楽隠居はできませんね
河西
それでも、私は人に恵まれています。あらゆる面で支持してくれる人が多く、社内でも優秀な人材が多いから今日があるわけです。栗林建設も、そうあって欲しいと思っています。 6つのグループ会社の中でも地縁血縁に縛られず、優秀な人間を社長に抜擢してきました。これは私の自慢とするところです。優秀な人材を引き上げていくことを基本としてきましたから、河西建設だからとて、必ずしも社長は河西ではないのです。 栗林建設も育成・教育しなければなりません。栗林建設は、優秀な社員が多く技術力も十勝・帯広で上位だと思っています。 しかし、この厳しい環境の下、みな危機感を感じています。栗林建設の全職員を集めて、私は「融和」という社訓に基づき、みな仲良くやって欲しいと訓辞しました。ただし、仲は良くても結果を出せない職員はプロではないから、その該当者は容赦なく解雇すると通告しました。給料は業績が上がれば昇給するけれど、赤字の場合は生活ぎりぎりの範囲でカットするとし、そして収支内容は公表し、ガラス張りの経営に徹することを全社員に伝えました。 そもそも、東光舗道の経営もそれを貫徹して今日があるのですから、同じ手法でなければなりません。したがって、職員がどう反論しようとも駄目で、「顔を見たら鮮きの下がったニシンのような目をしているよ。鮮度の善し悪しは、見ればすぐにわかるのだ」と叱咤した結果、みな張り切りだして、どの現場でも工期を1月ほど残した状態で、次々とこなしてきています。
――それだけ真剣に取り組むなら、展望も明るいのでは
河西
残念なことには、想定していた額の6割しか受注できていないのが現状です。公共事業は減っていますが、栗林建設の受注は特に減っています。今後更なる営業力と施工技術の向上をはかり、綿密に積算して、いかにコストダウンを実現するかが課題です。 栗林建設の得意分野としては、林業土木もありますが、林業関連の仕事は受注額としては年間受注の1/10以下で、やはり開発局、土木現業所、市町村の一般土木工事が必要です。このように90%近くを公共事業に頼っており、公共が減れば栗林建設の収益も減る構造です。 また、入札における低価格競争も改善されればと思います。近年全ての業界において価格競争に重点が置かれた傾向がありましたが、公共物の成果品はただ低い価格のみの追求では、将来の安全、安心には充分ではないとの見方が広がりつつあります。発注者側でもその対策として多様な入札方式が検討され試行されています。より良い入札方式が確立され、適正な価格で競争が行われる様願って止みません。

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