建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2007年11月号〉

interview

貴重な財産となった十代のヨーロッパ放浪体験

――60年にわたって受け継がれた遺訓を継ぐ4代目社長

東邦建設 株式会社 代表取締役社長 平位 誠一郎氏

平位 誠一郎 ひらい・せいいちろう
昭和45年11月4日生まれ
平成7年9月 COVENDISH COLLEGE 卒業(英国)
平成10年3月 帯広コンピューター専門学校 卒業
平成11年4月 東邦建設株式会社 入社 取締役
平成12年4月 東邦建設株式会社 常務取締役
平成13年4月 東邦建設株式会社 専務取締役
平成18年7月 東邦建設株式会社 代表取締役社長 現在に至る

東邦建設は昭和23年創業で、初代社長の故平位喜一氏は東京都や北海道に務めた後、技士として満州に派遣されたが、終戦でソ連に抑留されるなど近代昭和史を地で行くような経歴を持つ。現在は4代目の平位誠一郎氏が引き継いでいるが、十代にしてヨーロッパ諸国を股にかけて放浪に近い旅に出るなど、ユニークな経歴を持つ。欧州の風土を知りつつ、十勝・帯広市で土木施工会社を運営する同社長に、ヨーロッパでの体験記を兼ねながら独自の経営理念などを語ってもらった。
――会社の概要をお聞きしたいと思いますが、昭和23年設立とのことで、帯広市は終戦に伴い樺太や満州からの引き上げ者の受け皿になっていたという状況がありましたが、初代経営者もそうした場面に直面していたのでは
平位
そうです。創始者は平位喜一で、大正14年には東京都の土木局に勤務していましたが、昭和6年30歳の時に当時の北海道帯広治水事務所へ就職しました。そして昭和10年に祖母である平位ツルと結婚し、14年の戦中には満州鉄道に技師として派遣され、そしてソ連に抑留されたわけです。 22年に帰国して23年に東邦建設を設立し、51年に社長を退任して会長に就任しましたが、その翌年の昭和52年に他界しました。三代目の平位直は、昭和19年に生まれていましたが、物心がついた頃に祖父が帰国したので、父親であることが認識できなかったとのことで、その様子が様々な文書などに記述されています。
――初代社長は土木技術者として生きたのですね
平位
先代の話によれば、せっかく完工し、引き渡しの時になっても、仕上がりを祖父が気に入らなければ、わざわざ壊して再度作り直して納品するという昔気質というべき職人気質だったようです。 そうした気質は二代目の伊賀勉にも引き継がれましたが、彼の場合はホクレン勤務を経験しており、営業力に秀でた人物でした。したがって、昔気質の会長と営業に秀てた二代目が東邦建設の今日の礎を築き上げたわけで、両輪が良く噛み合っていた時代だと思います。 しかも、当時は農水大臣も務めた故中川一郎先生とも兄弟のように親しい間柄で、政界と財界とそれぞれの人脈を持ちながら今に至っています。かくして当社は、幸いにして来年には60周年を迎えることとなります。
▲左から中川一郎代議士、伊賀勉二代目社長
――戦後の歴史とともに時代を歩んできたと言えますね。ホクレンに勤務した二代目は、農家の経営事情と農業基盤整備のあり方については十二分に熟知されていたでしょう
平位
そうだと思います。逆に三代目となる私の父は、いわば近代的な技術者タイプで、日大を卒業してからは長く飯場に暮らしました。最初の数年は伊藤組土建さんにお世話になって技師の勉強をし、帰ってきてからも十年くらいは飯場で現場代理人として務めていました。 仕事一筋の人で、当時の二建会の代表幹事や青年会議所の副理事長まで務めていたので、帰宅は遅く早朝には現場へ出るので、私とはほとんど顔は合わせたことがありませんでした。
――そして4代目社長として引き継いだのですね
平位
そうです。十代半ばから10年間ほどは世界各国を放浪の旅に出ていました。当初は首都圏に暮らし、その後にネパール、オーストラリア、イギリスなどを転々としました。帰国したのは今から10年ほど前の平成9年か8年で、祖母が他界した年でした。このとき、私は26歳でした。
――上京してからさらに海外へ渡ったのは、どんな心境だったのでしょうか
平位
東京では少し働いたりもしていましたが、こんな生活では駄目だと我ながらに感じて、まずは学校を卒業しようと思い、さらに海外に渡ってマーケティングや経済などを英語で学ぼうと考えたのです。
――最も長く滞在したところは
平位
イギリスで5年半くらい過ごしました。当時のイギリスは失業率も高く、物価も非常に高かったと記憶しています。しかし、賃貸住宅の家賃などは東京並みで、日配品と言われるスーパーや八百屋のようなところで販売される食品は安価で、生活には困りませんでした。   イギリスは、ヨーロッパ中から人が集まるメトロポリタンなので、ヨーロッパの友人が沢山できました。
▲創始者 平位 喜一 ▲二代目 伊賀  勉 ▲三代目 平位  直
――ヨーロッパとなれば、様々な言語や文化、習慣が混在するので、疎外感を感じたりはしませんでしたか
平位
むしろ面白い毎日だったので、ホームシックなどはほとんど感じませんでした。夏休みには、ユーロレールパスと呼ばれるヨーロッパ中の鉄道に3ヶ月から半年間ほどは乗り放題のチケットを買って、友人と2人で貧乏旅行をしたものです。ホテルは利用せず友人宅を転々としながら、船に乗ってフランスに渡ったり、フランスの友人宅を転々としたり、あるいは今度はイタリアから行こうとか、今回はスペインから行こうなどと気ままに話し合いながら転々とするわけです。
――ユーロ統一で一つの経済圏という地盤ができたお陰ですね
平位
各国ともホームステイのような形で、両親は英語が通じないので、友人が通訳をしてくれました。その結果、「また来年も来なさい」とか、ときには涙まじりに見送ってくれ、お陰でいたる国に私の父や母がいるような気分でした。 こうした質素でアットホームな旅行は楽しいものです。夏であれば、シャワーや風呂に不自由もしますが、むしろ不自由があるくらいでちょうど良いと感じる年代だったのかもしれません。
――そうした豊富な海外体験の中でも、特に思い出深い経験は
平位
十代の時にネパールへ行った際、ヒマラヤに二週間のトレッキングに行きましたが、オーストラリアのパーティーに加わり、ハイキング感覚で一週間かけて標高4,800メーターまで登りました。本格的な登山と違い、ロープを使うわけでもなく普通の山道を通るのですが、四日目くらいの夕方を迎えたとき、なんと私たちは雲の上にいたのです。雲海がピンクの絨毯のように見えました。 それまでは何かにつけギスギスして過ごした十代でしたが、この時に「今の生活ではダメだ」と痛感し、はじめて父に感謝する気持ちを抱きました。 その他、美術館巡りをしたり、スペインではアントニ=ガウディの街を見に行ったり、様々なものを見てきましたが、特にイギリスに見る構造物などはいずれも圧巻で、たまに写真を父に送ったり、電話で説明したものです。もっとも、父は「建築工事は業務外だから、あまり参考にはならん」と冷ややかでしたが、色んなものを見るのは良いことだと評価してくれました。
――ヨーロッパ各国は、古い歴史を持っていますから、まちづくりや国民性においても、独特の保守性があるのでは
平位
フランスなどは、新参者や部外者に抵抗があるかもしれませんね。ただ、私は友人宅を転々としたので、家族には非常に暖かく受け入れていただきました。イタリアではリゾットが食卓に上ったので、非常においしいと賞賛したら、以後は毎日リゾットが食卓に並んだりしましたが、リゾットといっても様々なバリエーションと味があるものです。そうして、夜が明ければ「朝だよ」と叩き起こされたり、「洗濯をするから履いているパンツ脱ぎなさい」、「早くシャワー浴びて用意し朝食を取りなさい」など、実母のように世話をしてくれました。
――外国の生活でよく話題になるのは、水が合わないために体調を崩す人もいるとのことです
平位
エジプトのカイロでは、日本食のレストラン経営者にお世話になりましたが、その人はウィスキーの水割りを非常に美味しそうに飲んでいました。私としては、水と氷には気をつけようと思っていたのですが、非常に美味そうなので、友人とともに飲んでみたところ、二日後くらいに友人が発熱、下痢の症状が表れ酷い状態となりました。私は全く異常がなかったので、「弱いな」と言って笑ったものです。ところが、その二日後くらいには、高笑いしていた私自身が同じ症状に襲われてしまいました。水はミネラルウォーターでしたが、氷は現地の水で作ったものだったのです。 かつてネパールに滞在した際、泊まっていたゲストハウスでは、みな煮沸した水で氷を作っていたので、その経験から用心はしていたのですが、まさに死ぬかと思うほど大変な目に遭いました。 しかし、カイロは興味深い都市で、お世話になった方々が車でピラミッドを見に行こうと誘ってくれたので同行しました。市内は信号があっても事実上は無いに等しく、信号の代わりにクラクションで合図し合うので、雑音、騒音に満ちあふれていました。道路は舗装されていますが、走り続けると、いつの間にか砂漠に出ているという感じです。都心と砂漠が隣接して広がっているという地勢に、なんともいえない違和感を感じました。 ピラミッドに到着して見上げたときは、よくこんなものを人力で作ったものだと感慨を覚えました。内部では、通常は進入禁止のところでも少しだけ許可してくれたので、入ってみましたが、酸欠状態となり汗が噴き出しました。
▲社屋の全景
――そうした日本では見られない構造物や道路、遺跡などの異風景に多く接した経験は、土木専門会社としての経営方針や、基盤整備への考え方にも何らかのインパクトをもたらしているのでは
平位
構造物のライフサイクルコストを考えていくと、日本国全体はもとより、特に北海道でどう生き残っていくのか、特区制度もそうですが、社会基盤整備をどのように我々が守り、コストを削減しながらどれだけ良いものを作って国民・道民に喜んでもらえるものを提供できるかが、これからの重要なテーマの一つだと思います。 物を大切にすることは、元来、道徳や思いやりなどを大切にしてきた大和民族の意識ですが、便利な世の中になってきた今日では、忘れ去られてしまったものも大きいと思います。安倍首相は「美しい国、日本」というキャッチフレーズを使っていましたが、団塊の世代から我々三十代・四十代、そしてこれからを担う若者達が、何を考えてこの国を背負っていくのかが問題です。 現代は建設業界という業種の他、サービス産業やネット産業など様々な産業があり、それらが歯車として噛み合っていかなければ、建設業界だけがコスト削減をして良い物を作り、それを大事にしていこうと訴えても、ユーザーが大事にしてくれなければそれまでです。業界だけで完結できる問題もありますが、今後はより大きな観点でとらえなければなりません。 従来はそれを行政が考えていましたが、最先端の現場に携わる我々と、その現場を使用していくユーザーとがどんな意識で向き合うのかが問題で、我々としても意見や情報、提唱などを発信していかなければならないでしょう。 そのツールは、今やインターネットなどのデジタルコンテンツが主流で、私たちが地道に活動している清掃活動などの社会貢献なども、そうしたツールで発信することが必要です。例えば、帯広二建会といった同業者の地域組織では、小学生を対象に各地の現場見学会を開催していますが、そうした場を通じて公共事業は生活には必要であることを、いろいろな形で浸透させることが大切です。 中には道路は不要と主張する人もいますが、本当に道路がなくても困らないのでしょうか。道路とはただ通行するだけではなく、物資供給など様々な機能、役割を持っているのです。例えば、今後の北海道はグローバル化にどう対応していくのか、それを視野におくことが必要で、高速道路は必要なのかという議論もありますが、そもそも本州で災害などがあった場合に、被災地にいち早く物資を供給していくためには、自給率が全国で首位にある北海道が、高速道路や高規格道路を活用する必要性も生じるでしょう。その他にも輸送手段としては港もありますから、そうしたものが整備されて初めて迅速な支援が可能になるのです。それは日本国内に限らず、例えば東南アジアで何かがあった時には、北海道からアジアへの支援という展開も考えられますから、やはり基盤整備はまだまだ必要なのです。 また、単に道路を作るのではなく、例えば道南・道央・道北・道東という四ブロックの持ち味となる地域の産物などを、どこに集約して搬出するのか、そうした経済的実用性を考慮するなら、むしろ民間側からインターチェンジの設置要望などを主張していく必要があります。 道路整備に当たっては、北海道がこれから成長させる観光産業も重要な柱の一つですから、地域景観にも考慮した設計が求められます。海外からの訪問者から見れば、路側に広がる田園風景も名物になるかも知れませんから。 このように複合的に考えると、事業計画は官と建設業界だけでなく、地元住民の声をより多く吸い上げることが必要で、その結果、住民がこの町で生まれて良かったと感じ、そこでの幼少経験に誇りと自信を持ち、胸を張って「私は北海道の帯広市で生まれ、いずれはまたその街に帰って骨を埋める」と言える街を、これからの子供達にも伝え継承してもらえれば、かつて苦労を負いながら土木事業に携わった先駆者達に恩返しができるというものです。同時に、私たちにとっても、それができれば会社経営と生活をさせてもらっている地域への恩返しにもなると思います。
――企業運営においては、どのような社風を心がけていますか
平位
日頃から社員に言っているのは、元請けだから下請けだからという階級意識を持たずに、協力会社や発注官庁とのコミュニケーションを少しでも頻繁に持つようにということです。そして、東邦建設は決して敷居の高い会社ではなく、皆様方と一緒にお仕事をさせてもらっている一企業であることを認識してもらうことです。 やはり元請けの立場になると、敷居が高いと思われる協力業者も少なくないのですが、私たちにとっては、協力業者がいなければ仕事は出来ないのです。したがって、元請けだから偉いという意識ではなく、共に一つの目標に向かって頑張るチームとして、従来は「おう、おはよう」だけだった挨拶を、「おはよう、今日はなにかあったかな」と、一言添えるなどして親近感を持ってもらうといった、垣根のない気さくなコミュニケーションが大切です。雑談が出来るのは、お互いを認め合っていることの表れで、ビジネスライフな関係に終始するのでなく、時間外で余裕があれば飲みに行こうと誘い合うなど、一歩踏み込んだ交流機会を作るよう、職員の意識改革を進めてきました。 この平位誠一郎という人間を理解してもらうためには、待っているのではなく、こちらから出向いていかなければなりません。人間は、一人では何も出来ないのですから。
▲北海道横断自動車道浦幌町 栄穂東15線道路改良工事(平成19年) ▲北海道横断自動車道浦幌町 栄穂東15線道路改良工事(平成19年)
――建設産業を取り巻く環境は、グローバル化によって工事現場のIT化やISOの導入など大きく変化してきましたが、それによって社風も変わりましたか
平位
先代の発案により、私はISO認証の最終責任者として携わっていますが、実施に当たっては現場の書類と重複するなど、現場の手続き作業が煩雑になる傾向が強かったようですが、なんとか一つにまとめて日常業務の一部として実施できる体制を作りました。すでに9000と14000を取得していますが、今後はさらに8000も取得しようと考えています。 ただし、ISO認証を持っているからというのではなく、東邦建設の通常業務とすることで各現場への浸透を図っていますが、とはいえ二十数年も勤務しているベテランに、いきなりこれを課しても抵抗はあるでしょう。けれども、先代が懸命に成長させたこの会社の良いものは継承し、今の時代に合わないものは変革していかなければなりません。 一方、職員には、愛社精神は有り難いのですが、まずは自分の家族のために頑張って欲しいと、社長に就任したときに伝えました。私はそれらを統括した大家族の長として、若いながらもなんとか切り盛りし、60年間に培ってきたノウハウを10年、20年後の将来を見据えてさらに向上させ、職員が誇りと自信を持ってもらえる企業にしていきたいと思っています。 当社には、創始者の祖父が残した5つの社訓があります。それは「誠実・協和・礼節・闘魂・感謝」で、これらを守り抜いていきたいと思います。
▲勇橋右岸道路 掘削土トロ運搬盛土(人力作業) ▲ペンケニコロベツ線自動車道新設工事(昭和34年)現場事務所
――50周年から翌年の60周年にかけて、この十年間は業界にとってはかなり厳しい情勢で、激動を迎えていますが、どのように展望していますか
平位
先代からは「必ず衰退するときがあるから、いろいろと考えておかなければならないぞ」と繰り返し言われ、さらには「代表者の世襲などは考えない方が良い」とまで言われてきました。そして本当に苦しい時に、私が社長業をバトンタッチすることになりましたが、みんなの家族を守りつつ、東邦建設として地域に根ざした施工業者としてお世話になった方々への恩返しが、ようやく出来るほどの力を得たので、今後の10年、20年に向けて恩返しをしながら、地域に必要な企業として皆様に評価されるよう、全社一丸となって努力していく気構えです。技術力の向上もさることながら、心が暖まるようなチームワークというものを、今一度呼び起こして頑張りたいと思います。
▲社訓 誠実・協和・礼節・闘魂・感謝
――会社運営で、最も力を入れている改善点は
平位
かつては本社と現場が単体で、別々に動き始めていたのです。現場は現場、本社は本社と分裂し始めていましたが、それぞれの情報を共有化するなど、ネットワーク化は最も力を入れなければならない課題です。情報化社会ですから、本社として現場からの情報の収集力を強化したいと考えています。というのも、建設業はとかく営業と実務がかけ離れる傾向があるので、コミュニケーションは業務の円滑化の上でも、もっと必要になってきます。 私としては、昔の土建屋の古き良き時代を単なる思い出とするのではなく、残していかなければならないと思います。しかし、そのためには綺麗ごとでは終わらないこともあるでしょう。様々な情報をみんなで共有できる場合は共有し、またトップからの立場で伝えなければならないことは伝え、逆にトップであってもみんなから教わることも沢山あります。
――建設業に携わって、感動した経験は
平位
高速道路を当社で施工したときには、凄いことをやっているなと改めて痛感しました。何しろ、山を切り崩し、ダンプが次々と土を運び出した結果、地域景観が全く変わってしまったのですから。
――公共事業予算の激減で、業界内ではソフトランディングを模索する動きもあります
平位
受注高が増えていくことは、今後とも無いと思います。むしろ減っていく可能性が高いでしょう。しかし、時流に逆行するかも知れませんが、私たちはあくまでも本業に徹して生きていく考えです。企業規模を若干縮小しても、決してギブアップすることなく続けていきます。 この道で頑張ってきた方々のためにも、これから次代を担っていく子供達のためにも、やはり無くてはならない業種・企業だと思いますから、来年の60周年に向けて、さらにいろいろな事業展開を考えながら、70年、80年、100年と生き残り続けて頑張っていきたいと思います。
▲発注 帯広開発建設部(昭和34年)
利別川筋池田町字採11線地先右岸護岸災害復旧工事(竣工検定時)
左から初代社長 平位喜一氏、監督員 近藤憲二郎氏、
主任監督員利別治水事務所長 古川氏、検定官 渋谷治水課長
――本業以外では、地元JC(青年会議所)の理事長も兼務していますが、その全国大会の地元開催を実現しましたね
平位
2004年に急きょ全国大会に手を挙げることになりました。当時、私は副理事長で、理事長と論議した結果、最後には賛同してもらいました。さらに道内の50JCと北海道地区会長の承認も得て正式な立候補となります。そして、その時の水戸大会における理事会総会で承認を受け、帯広開催が決定しました。 私はさっそく翌年の帯広大会の議長という立場で、1年がかりで準備に当たり、十勝・帯広らしさの演出に力を入れました。しかし、北海道の魅力や十勝帯広の魅力を探っていくほどに、地元に住んでいてはむしろ分からないこともたくさんあり、意外な発見がありました。
▲昭和53年 社会貢献活動に対して
 福田総理大臣(現福田総理の父)からの賞状
――帯広の魅力、十勝の魅力とはなんだと感じましたか
平位
やはり人でしょう。十勝モンロー主義などという言葉があるようですが、全国大会も、最初はみな冷ややかでしたが、後には非常に協力的でした。新参者や新規の事業を避けるのは、人見知りしやすい十勝人の気風なのでしょう。 しかし、いざ始めると爆発的なエネルギーを発揮します。そうした人格を形成しているこの大自然や、人と人、人と自然、自然と自然などの関係性が、十勝・帯広の素晴らしさであり、かつて晩成社が大自然と格闘しながら民主導で生き抜いた生き様が、DNAとして残っているのかもしれません。
――昭和53年には、図書館整備に貢献されたことで、故福田首相から感謝状を受けた他、帯広市からも感謝状を受けていますが、これは文化に対する会社の理解度を示すバロメーターとも言えるのでは
平位
先代や創始者は様々な地域貢献をしてきているので、我々の代でもそれを続けたいと思っています。その一つとして、今回は屋内スピードスケート場整備に寄付させていただきました。次世代を担っている方々に、何か良いものを残せるのであれば、私たちは率先してそうした活動に取り組んでいきたいと思います。

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