建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2007年8月号〉

特 集

北海道土木行政110周年シリーズ@

明治天皇勅令で明治30年道庁土木部が誕生

明治30年6部1署制に

明治30年10月、旧内務省勅令により、旧北海道庁は長官官房、内務部、殖民部、警察部、臨時鉄道敷設部、財務部、土木部、監獄署の6部1署体制となり、土木行政を司る土木部が誕生した。開発が遅れていた北海道の基盤整備が拡充する契機となった。その後、道庁の組織機構は機構改革のたびに名称が変わるなど幾多の変遷を経て、土木部が定着したのは昭和19年7月の機構改正からという。今日まで110年の歴史を刻んできた土木行政が本道発展に果たしてきた役割は大きい。

▲千島一覧 明治3年松浦武四郎によって描かれた北海道の鳥瞰図(画像をクリックすると大きな画面で見られます)
▲札幌本道の開削(明治5年)
函館−森−(船)−室蘭−札幌間の
開削に着手、翌6年完成
▲殖民道路(鷹栖-蘭留間)
北海道写真帖〈北海道蔵〉
▲車馬道
札幌本道亀田村付近
(市立函館図書館蔵)
北海道政費
(明治19年〜33年度)
年度 金額
明治19年度 3,015,792,791
明治20年度 2,903,028,196
明治21年度 3,002,629,490
明治22年度 3,104,372,231
明治23年度 2,440,646,490
明治24年度 2,770,804,479
明治25年度 2,278,825,595
明治26年度 2,260,470,940
明治27年度 2,355,364,276
明治28年度 2,709,709,842
明治29年度 2,977,243,200
明治30年度 4,548,830,161
明治31年度 5,903,539,161
明治32年度 5,309,818,239
明治33年度 4,682,635.288
(単位:円)

北海道 財政 国費

T.初期
北海道の開拓事業は、国力増強をめざす明治維新後の広大な計画に基づき、国家事業として始まった。開拓使を設置した明治2年9月から明治4年まで、本道開拓に投入した国費は総額185万9,226円、明治5年以降10年間は1,000万円を定額とし、本道において徴収する租税その他の収入を開拓の経費に充てることとし、同期間に支出された国費は16,896,000円余。前後を通じて実に18,755,500円余が、このほか、明治3年2月から4年12月までの樺太開拓史に投じた322,200円余、明治8年4月から15年1月までの屯田殖民費748,900円余を合算すると、総額で19,826,700円余の巨額に達した。明治15年以降の三県時代(函館県、札幌県、根室県)に入っても依然として多額の国費を要し、明治19年からの道庁時代においても同様の傾向をたどった。
明治19年から同33年までの本道開拓に投じた拓殖費(殖民地の選定・区画、原野の調査、道路開削、鉄道の敷設、地理の測量等)は、左表のとおり。
▲明治5年富時に於ける札幌市街の光景
▲明治5年富時に於ける札幌市街の光景

黒田清隆開拓次官が渡米中にグラント大統領の好意によって農務局長のホレス・ケプロンを推薦された。
黒田清隆(明治7、8年頃35〜56歳)
Horace Capron(明治5年頃61〜62歳)
▲明治5年札幌地図(官営区域と商工街とを区割する大通)
1.本  廳  2.工 業 局  3.薄  野   4.本願寺管刹   5.偕 樂 園
6.御手作場  7.運 漕 局  8.御 蔵 地  9.物 産 局  10.牧  場
官報(内閣官報局)北海道庁官制
明治三十年十月三十日
勅令第三百九十二号
U.10年計画
北海道のような未開拓地は本州と同じような方法では開拓できない。府県とは異なる道庁が中心となって計画を立案し、毎年のように積み上げていくべきとの判断から、明治31年に着任した園田安賢長官は「北海道10年計画」を立て、同33年の第15議会に提出した。
当時の国内は日清戦争の勝利により経済が発展する一方で、急激な人口増加、資本主義の発達に伴う貧農の発生などの問題を抱え、その解決を北海道開拓に求める機運が高まっていた。
園田長官の10年計画においては、国費と地方費を分離し、国費は行政費、拓殖費に区分、拓殖費総額は2,161万円を見込んだ。これは10年間の所要経費を予測立案したもので、毎年の予算執行には帝国議会の承認が必要だった。拓殖事業の施策には、殖民地の選定、土地の処分、移民の取扱、水産の調査、農事の試験、道路橋梁の新設、駅逓渡船の施設、河川港湾の調査及び経営等多くの事業が盛り込まれたが、日露戦争の勃発により国防費に予算をとられたため、事業の中止、繰り延べ等が相次いだ。その結果、2,161万円の予定額に対し、実際の支出額は1,081万円に過ぎず、10年計画の達成率は5割程度にとどまった。主な道路の開削は、留萌北竜間、浜益新十津川間、多寄興部間、浦河三石間で、県道374キロ、里道1,244キロ、市街道路62キロ、橋梁が14橋。道路の達成率52%、橋梁にいたっては29%という無惨な結果に終わっている。10年計画の実施は、明治42年度までの9か年で打ち切りとなった。

(つづく)

■開拓使札幌本庁
明治6年7月に着工し11月に完成。
開拓使御雇外国人技師ホルト(N.W.Holt アメリカのオハイオ州出身で明治5年札幌に着任)の設計と言われているアーリー・アメリカンスタイルの建築。明治12年1月に焼失。
▲丸太組の藻岩学校 ▲麦酒製造所 ▲蒸気伐材工場 ▲ケプロン館

HOME