〈建設グラフ2000年4月号〉

interview

インターネットで朝日新聞と公開討論

建設省河川局長 竹村公太郎 氏

竹村公太郎 たけむら・こうたろう
昭和20年10月12日生まれ、神奈川県出身
昭和45年 3月 東北大院(土)修
昭和45年 4月 建設省採用
昭和55年 4月 中部地方建設局河川部河川管理課長
昭和56年 6月 河川局河川計面課長補佐
昭和58年 4月 ダム技術研究所研究第一部主任研究員
昭和60年 1月 関東地方建設局宮ヶ瀬ダム工事事務所長
昭和63年 6月 中国地方建設局河川部河川調査官
平成元年 2月 河川局開発課建設専門官
平成 3年 4月 同開発調整官
平成 5年 7月 中部地方建設局河川部長
平成 7年11月 河川局開発課長
平成 9年 8月 近畿地方建設局長
平成11年 7月 河川局長
長良川河口堰の自然への影響をめぐって、建設省河川局と朝日新聞とが、建設省のインターネットホームページ上で熾烈な論争を展開している。きっかけは同紙がコラム欄「窓」で、「建設省のウソ」と題し、河口堰による自然への影響はないとする建設省の見解を否定、同省を批判する記事を掲載したことだった。これに対して建設省が強く反発し、公開の場で同紙論説委員長に論拠の提示を求めたことから始まった。この論争は、マスコミの批判報道に行政機関が真正面から向き合う姿勢を示したことが画期的であり、さらにその媒体にインターネットという計り知れない伝達力を持つ手段を選んだことで大きなインパクトを与えた。行政機関に情報公開とアカウンタビリティが強く求められる今日、対国民、対マス=メディアにおいて行政はどう対応すべきか、行政機関が置かれている状況とマス=コミュニケーションの問題点とは何か、竹村公太郎河川局長に見解を伺った。
――三重県長良川河口堰の自然環境への影響をめぐって、河川局はインターネットのホームページで朝日新聞と果敢に論争していますが、局としての主張、見解を伺いたい
竹村
一般論として、行政は国民と会話をしながら執行しなければならないと言われます。しかし、行政と国民とのコミュニケーションとは言っても、現実には抽象的で分かりにくい面があります。私としては、そのコミュニケーションには2つのパターンがあるものと考えています。
第一は、行政が何を考えているのか、その政策と理念、必要性などを国民に理解してもらい、その上で、国民の行政に対する疑問、指摘、問題点などについて話し合うことです。第二は、逆に国民が望んでいることを行政側が感得して政策を実行していくことです。
河川行政には、河川環境整備だけでなく洪水、水害対策といった防災施策もあります。そうした安全に関することは、第一の範疇に属するものと思います。水害は、いつ発生するか分からないもので、百年に一回の洪水と呼ばれるものは、必ずいつかは起こるものです。ある都市の文明が百年で終わることを是認するのであれば、治水整備も十分に行わず、既存の治水施設だけで百年に一度の大洪水に耐え得るどうか、一か八かに賭けるという無責任な手法も可能です。
しかし、過去二千年に及ぶ日本の歴史、文明が、今後も最低二千年間存続すると想定するなら、その二千年の間に我々河川管理者の予想を上回る大洪水が起るのは100%以上確実なのです。ただ、洪水の発生時期などは予測しがたいため、河川行政はロングタームの視点から行わなければなりません。そういう立場、考え方を国民に説明するというのが、会話におけるひとつの方法になります。
第二は、国民の要望を迅速にキャッチして行政で展開していくというものですが、洪水・水害の発生は一年の365日のうち2日か3日かも知れませんが、国民が一般的に求めている環境、潤い、快適な生活空間の形成などは、365日つまり毎日の生活に関わってきます。したがって、日々の環境形成に関わる政策については、まず国民の意見を聞くことを徹底する必要があります。
このように、国民との会話といっても、かならず双方向とは限らず二つの流れがあることを国民に承知してもらいたいと思うのです。こと安全に関わることに関しては、私たち専門家の考え方に耳を傾けて欲しいということです。
この点が理解されない限りは、何でも一方的に行政の考えを国民に押しつけるのかとの疑問が生じ、行政と国民との認識にギャップが生じます。
国民の要望を聞き取ることについては、現場の第一線に立つ工事事務所が、日々住民と接しているためにコミュニケーションは容易ですが、防災、安全に関しては非常に難しい問題なのでメディアというツールが必要となります。その場合、どうしてもマス=メディアが国民と行政との会話の中間に入らざるを得ません。
しかし、現状ではマス=メディアが、行政サイドの政策、考え、事業などの正確な情報を正しく伝達してくれている状況にあるとは思えません。ですから、行政としては辛い立場に置かれていると思います。ましてマス=メディアに事実誤認、もしくは事実誤認に近い状況がある場合は、私たちが適切に指摘し、国民との会話以前にマス=メディアとの会話にエネルギーを割かなければならなくなります。
したがって、今回の論争は、単に怒りに走ってというわけではありません。国民との会話の前提として、メディアの代表選手であるマス=メディアとの会話にもへこたれずに取り組んでいくべき局面なのだということです。
――今回の論争は、新しいコミュニケーション手法であるインターネットを活用したことが画期的ですね
竹村
マス=メディアに事実誤認の報道がある場合、一つの手法として、これまでは掲載社側に、文書で謝罪要求をしてきました。それに対し、掲載社側も文書で回答してきたりしていました。しかし、文書での応答は、行政とマスコミとの間の密室でのやり取りでしかなく、国民の目に届くことはないため、公に知られることがありません。
今回も職員からは、釈明要求を書簡で行おうとの提案もありましたが、私は「密室は駄目だ。国民に分かる形で」と拒否し、その結果としてインターネットという手法にたどり着いたのです。
行政にはジャーナルとしてのメディアは持っていませんでした。しかし、インターネットの登場によって、行政自身もジャーナルのメディアを持ったということです。「月刊・河川」などマンスリーのメディアは持っていましたが、発行体制が月刊では、内容もニュースではなくオールドになってしまいます。ニュースとは日々の動きを伝えるものですから、私たちの論争も日々の展開を伝え、表現していこうと考えたのです。逆に言えば、インターネットという手法を持つことで、行政もジャーナルな表現手段を持ったということになります。
――その意味では、吉野川可動堰なども、長年の地道な説明や準備、実験などを積み重ねてきた蓄積と実績が住民には十分に伝えられなかったために、理解されなかったという一面があるのでは
竹村
確かに吉野川第十堰でも、私たちは平成8年に公開で模型実験を実施しました。吉野川の80分の1の模型を作り、固定堰を設置して洪水を流して盛り上げ状況を見たのですが、その際には反対派の方々も招いて立ち合ってもらったのです。こうした試みを日本で実施したのは初めてのことです。何しろこの公開実験だけで、何千万円もの予算を投入したのですから。ところが、分かりにくい河川の仕組みを一般者に理解してもらうために行われた平成8年の実験が、平成12年になると、全く評価されていないのです。
そうした行政側の努力と積み重ねが理解されずに、「建設省は強引に推進しようとしている」、「市民の意見を聞かない」というレッテルを貼られたなら、それを剥がすことは我々には不可能なのです。相手にレッテルを貼るということは非常に残念なことで、会話を断絶させるやり方ですね。何年にもわたって建設省の職員が、現場で苦労してきたことが水泡に帰すというのは、非常に残念です。しかし、それにへこたれることなく、努力を続けるしかないわけです。
――千歳川も吉野川も反対派住民の反対理由については、どの程度、客観的なのか疑問が残ります。特に吉野川では客観的な次善策と見られる対案もなく、事業説明にかかるこれまでの蓄積、経緯を踏まえて考慮したという形跡もあまり見られないからです
竹村
残念ながら、過去の経緯や事情を住民の間で引き継いでいくという状況にはなかったようです。
そのために、せっかくこれだけ時間をかけて理解してもらうべく準備してきたのが、結果的には当初の経緯、事業の内容を深く議論しないまま、○×の住民投票で表現されてしまうということになったのでしょう。
――国民が自分たちの生命、財産を守るために果たしている行政の役割を正しく理解していないのは、日本の国民性とも関係があるのでしょうか
竹村
国民性というよりも、報道のあり方の問題ではないかと思います。行政の中央集権体制が批判の対象として論議されますが、私は最も中央集権的な体制となっているのは、情報発信を担う情報関連産業だと思います。
例えば「マスコミ電話帳」という本があります。ジャーナリスト、ルポライター、ノンフィクション作家そしてマスコミに登場するコメンテーター、評論家など言論人の住所が掲載されたものですが、その住居地を集計すると、そのほとんどが首都圏在住者なのです。つまり、オピニオンリーダーとなる人々の全ては東京に住んでおり、そうした東京に住んでいる人々の意見がすなわちマスコミの意見であり、国民世論になっているというのが実態なのです。
しかし、首都圏に住み社会資本整備について意見を出される方々の主張は、首都圏3,000万人の意見ではあるかもしれませんが、それがすなわち全国民1億2,000万人の意見ではないと、私は思っています。具体的に言うなら東京都は、利根川の洪水被害を、本来ならば東京都が受けるべきところを利根川を東の方向の銚子に向けて、千葉、茨城に洪水負荷をかけて安全が確保されているわけです。
東京は、徳川3代将軍の時代に、利根川の負荷を千葉、茨城に追いやり、そして江戸の湿地帯をドライな素晴らしい土地に改良してできたのです。その結果、非常に安全な都市となった。そして東京はインフラが整備され、快適で、文化が集積し、情報が集約し、どこにいてもタクシーの短区間で人々と会える都市となったわけです。そうした安全な大都会・東京からの意見が発信され、全国津々浦々の意見になってしまっています。このため、インフラの遅れや災害などに苦しんでいる地方の人々の悩みがなかなか表面化されず、認知されない。情報の東京一極集中は、行政以上に激しいものだと思っています。
――地方の事情を理解せずに、東京を基準にして全国的なオピニオンが形成されてしまっているわけですね。そうなると、ますます地方の事情を把握している行政側の情報公開と情報発信が重要となりますね
竹村
そうです。地方事業を把握している行政の情報発信は、国のバランス上、意外に重要な位置を占めていると思います。その際の大前提が、情報公開ということでしょう。したがって、すべてのデータ、技術情報はすでに公開しています。隠しているものはありません。
ただ、一般者の人々に生のデータをそのまま提示しても、分かりにくく、また、閲覧するシステムと場の準備がまだ十分されておりません。そのために、まだ「建設省は情報を隠しているのでは」というイメージが形成されてしまっている状況が見られます。
――技術的なデータ、専門的なデータは、やはり一般者から敬遠されるのですね
竹村
確かに公開されている情報は専門的なデータであり、専門的な観点から整理・加工しなければ意味を持たないものであったりするので、それを理解しようというのは一般者にとっては億劫なことでしょう。かく言う私たちでも、例えば税務署で税金のことをこと細かに調べるかというと、日々の生活の忙しさからなかなかできるものではありません。生活するのがやっとというのがほとんどですから、自己の生活とあまり無関係なことを、わざわざ出向いて情報を得ようということは、よほどマニアックでなければできないものです。
したがって、私たち行政側から、いかにして国民に分かりやすい情報を、分かりやすく伝えていくかが問われているのだと思います。これが情報公開における、真のテーマだといえるでしょう。
――一方、実際に洪水被害にあった地域の人々の意見を耳にする機会が、少ないという実態もありますね
竹村
平成10年に高知市の美術館が浸水したり、昨年は青森県が大水害に見舞われ、地域住民は大変な苦労を経験しました。そうした洪水被害者は一様に、やり場がない情けない、実にやりきれないと話されています。確かに目前で家屋、財産が浸水していく様を見るのは、ただただ情けないの一言に尽きます。見ていながら何も手が打てないことが、やるせないわけです。震災のように、一瞬で倒壊するのとは全く性格が異なるわけです。
日本はしょせん沖積平野の上に築かれた文明です。川が氾濫する10%の土地に人口の50%と資産の75%があるのです。少子高齢化の社会になっても、より付加価値の高い文明を後輩たちに作っていってもらうためには、最低限安全な街にしておかなければなりません。この日本の文明がいかに危うい沖積平野の上に立っているかということを、私たちは常に警告していかなければならないと思います。
かく言えば、またも河川事業を進めたいがための論法だと批判されますが、そうではなく日本の文明そのものが極めて水に弱い土地の上に形成されていること、そのために、いつ思わぬ大災害が起きぬとも限らないということを警告していなければならないのです。それが私たちの役目なのだと思っています。
――保険会社が地域ごとの危険度に応じて料率を設定すれば、国民の受け止め方も変わり、また自分の住む地域の安全度を意識したり、治水整備に対する考え方も変わっていくのでは
竹村
以前に、NHKの報道番組で取り上げていましたが、アメリカでは百年に一回洪水が起きる恐れのある地域に住んでいる住民に、移転補償をして安全な場所に移ってもらう措置を取っているそうです。アメリカは氾濫区域10%の所に、ほぼ1割弱が住んでいますが、代替土地は十分にあります。
しかし、日本では代替土地がない。国土の文明の中心部全体が氾濫源なので、アメリカのような措置は取れません。確かに水害保険が論議されたりしますが、一度大水害が起これば、その保険会社が支払いで破産してしまうほどの決定的な被害になる可能性があり、極めてリスキーな話です。
例えば北海道は、札幌、千歳、苫小牧にかけての道央地区は、縄文時代には海だったのです。それが川の土砂や火山灰が堆積して地続きとなったのですが、そのために水はけが非常に悪いのです。そこに石狩川という大河川が流れ込んでいるという地形です。だから、農耕民族として流域に暮らす以上、洪水被害を受けることは避けられないことなのです。
しかし、だからといって国民が日々、洪水という恐怖の深淵を見ている必要はなく、国が常に配慮し、危険を考えているということで良いのです。国が長期的な視点で常に監視し、国土を管理する役割を果たすというのが、わが国の法体系でもあるのです。
――そうした役割と取り組みが、いずれ正しく認識される時も来るのでは
竹村
将来を考えるなら、現在の1億2,000万人の人口が百年後には7,000万人になると予想されています。その時に7,000万人がどのような生活をしているかによって大きく異なってくるでしょう。
21世紀の地球がどうなっているのかを考えると、まず世界の人口が爆発して穀物の世界争奪戦になっているでしょう。気象も温暖化が一層進み、中国大陸やインド大陸が乾燥し、また地下水が現在でも1年間で1m下がっているため、広範囲に渇水問題が発生するでしょう。
実は、その時に日本において最も重要な地域は北海道なのです。北海道は温暖化によって大穀倉地帯になります。一方、九州はかなり乾燥気味となるでしょう。もちろん、100年後のことですから定かではなく、実際にはどうなるのか分かりません。
しかし、少なくとも国土を安全なものにしておかなければならないということは断言できるでしょう。ちょっとした洪水のたび、水に浸かってしまうというのでは、話にもならないわけですから、これだけは明確に断言できますね。
特に北海道は、人口も少なく、高速道路の整備も進められています。それに対して「熊や狸の出没する所に高速道路を整備する必要はない」といった意見もありますが、とんでもない話です。そういう所こそ、今のうちに整備しておかなければならないのです。北海道は、将来の日本の切り札になるのです。アメリカの高速道路を見れば、熊であれ鹿であれいろいろなものが通っています。なぜ、日本のこととなると、そうまでマゾヒスティックに批判する必要があるのか。たとえ熊が出没し、狸が路上を走ろうとも、日本の国土全体を、いま有機的に結んでおかなければ、百年後の日本列島は住めなくなります。
それと同様にして、日本の国土を、いま安全な土地にすることが大切です。安全な国土と有機的なネットワークの国土にしておくこと。この二つさえ確保すれば、百年後には後輩たちがこれを基盤にして次の文明をつくり出していくはずです。
――いま出来るところから先に進め、技術的な面は行政に任せてもらいたいということですね
竹村
「任せてもらいたい」という心情を素直に表明すれば、専門家の独善と捉えられます。ただ、私たちは治水整備の必要性について問いかけ、主張するしかありません。治水の必要性を訴えて、了解して頂いた所から効率よく進めていくこととなります。
ただし、了解が得られないところが優先順位から外れるということではありません。あくまでも「結果的に、そうなってしまう」ということなのです。理解が得られない所を、私たちが無理押ししてブルドーザーを入れるという考えは毛頭ありません。他ならぬ、その地域のためにこそ実施しようとしている事業なのですから、地域の人々が了解していないのに強引に着手しようという気はありません。
したがって、第十堰にしろ千歳川放水路にしろさまざまな計画案を提示して、時間をかけて討論を積み重ねていくということです。
――確かに、国としても従来のように、既定の計画に固執するだけでなく、見直すべき事業は見直すという姿勢も示し、またその実例もありますね
竹村
そうです。計画を中止した千歳川放水路についても、徳島市で住民投票が行われた吉野川第十堰にしても、建設省は、既に工事を始めているのではないかとも思われているようですね。
しかし、正しくは事業計画を説明している段階です。正に平成9年に改正した河川法の主旨にのっとり、流域住民の意見を反映させながら、河川整備を実施していくことの表われだと考えております。結果的に時間がかかっていますが、行政の透明性から見ればやむを得ないと思っております。

HOME