建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2002年10・11月号〉

interview

(後編へ)

プロとしての責任をしっかり果たさなければならない

国土交通省河川局長 鈴木 藤一郎 氏

鈴木 藤一郎 すずき・とういちろう
昭和47年3月京都大学大学院工学研究科修了、同年4月建設省入省。その後、河川局開発課、河川計画課など主に河川畑を歩く一方、近畿地方建設局建設専門官(s53.4〜55.7)、同企画課長(s57.4〜59.4)、同姫路工事事務所長(s62.4〜h元.4)を務めるなど、近畿の諸事情を熟知している。平成7年7月大臣官房技術調査室長、平成9年4月河川計画課長、11年4月建設経済局技術調査官、11年10月国土庁水資源部長、13年1月国土交通省水資源部長、13年8月近畿地方整備局長を経て、14年6月現職。水資源部長時は2003年の世界水フォーラムで併催される閣僚会議の担当部長としても尽力した。岡山県出身。昭和21年9月22日生まれ。
国土交通省の人事異動で、河川局長に前近畿地方整備局長の鈴木藤一郎氏が就任した。治水事業は、長野県の田中知事の「脱ダム宣言」に見られるように、とかく無理解な批判の対象となることが多い。だが、鈴木局長は「だからといって、治水を担う行政がウケの良い施策ばかりに傾くことがあってはならない」と警告を発する。新任の同局長に、治水対策はどうあるべきか、考えを伺った。
――最近、注目されたのは長野県の田中知事の脱ダム宣言と、それを巡っての退任劇でしたが、自治体首長の首がかかった主張だけに、インパクトは強かったと思います
鈴木
国会でも大臣が答弁していますが、私たちは一度ダムを計画したのだから、何が何でも執行すべきというこだわりの発想は持っていないのです。治水にはいろいろな手法があります。ダムもあれば、河川改修もあり、遊水池、流域対策など様々です。その中で、どれとどれを組み合わせるのが最も適切かを選択すべきであって、最初からダムは不要であるとか、逆に何としても造るべきといった、硬直した考え方をするべきではないと思います。
 私は近畿地方整備局長を務めてきましたが、在任中に、紀伊丹生川ダム計画を中止する決断をしてきました。そのダムは、利水のウェイトが高いダムですが、地元での利水の必要量が大幅に減量になったので、他の治水方式で対処することにしたわけです。
――治水事業については科学的根拠を持たずに、マスコミ報道に流されて、ムードで批判していると見られるものもありますね
鈴木
確かに、批判の中には、正しくないものもあります。そこで注意したいのは、そうした批判に行政が萎縮してしまい、その結果、評価されやすい事業だけに走ってしまうことです。これは、治水に関わるものとしては、厳に戒めなければならないことです。真に必要な事業というのは、やはり必要なのです。
例えば、砂防ダムは、その地先の土石流を止める施設なので、地元にとっては身近な事業なのです。しかし、付近に民家があるところのみで整備するというものではなく、整備箇所はほとんどが山中ですから、ともすれば「なぜ、このような所に砂防ダムが必要なのか」といった疑問を持たれやすいのです。だからといって、これを疎かにしてしまうなら、やはりいずれは、大雨のときに、大量に下流に土砂が流れ出して大変なことになるのです。
河川改修も同様です。安全度が着実に高まってくると、洪水にめったに遭遇しなくなり、感覚が薄れてくるのです。ところが、洪水でも地震でも然りですが、長い目で見れば、忘れた頃になって途方もない大規模の災害が起こるのです。
 広島県と山口県を流れる尾瀬川の隣の錦川に、建設後二百年ほど経過した有名な錦帯橋がありますが、やはりその間に洪水によって何回か流されているのです。このように、治水というのは、安全度が高まるにつれ、災害が発生する間隔が長くなるので、何となく安心してしまい、もはや治水事業は必要ないものと錯覚してしまうのです。ですから、治水に携わる私たち行政まで、同じように安心して、やるべきことを放置しないようにすることが大切です。
――最近は、事業の計画や実施において、説明責任が求められています。しかし、それが治水の足枷になるということは
鈴木
説明責任は、当然に必要です。しかし、こと治水に関しては、人々の生命と財産に関わることですから、やはりプロとしての責任をしっかりと果たすことが必要であると思うのです。
そうした原点を忘れて、実施しやすいことや、評判の良いこと、感謝されやすいことばかりに偏っていると、いずれは自然から大きなしっぺ返しを受けるでしょう。
「無駄な公共事業はやめろ」という主張は、確かに正しいでしょう。しかし、近頃は、「公共事業は無駄だから、やめろ」という主張へとトーンが変わってきている感じすらあります。
ある有名国立大学の教授から聞かされた話ですが、大学院で公共事業に関する講義をしたところ、学生は例外なく「あれは無駄だから、やめなければならないものでしょう?」とのリアクションが返ってくるというのです。行政は無駄な公共事業をやめられず、無駄なことを繰り返すことの代名詞となっていて駄目だ、という認識のようです。
 そうした批判者の主張を聞いてみると、治水整備をしなくても緑のダムで治水・利水機能を代替できる、というのです。それに対し、私たちがいろいろと説明しようとすると「また、ゼネコンを儲けさせようとしている」という追い打ちがかけられてしまうのです。非常に乱暴な話だと思いますね。
――今年も、各地で洪水に見舞われましたが、異変が起きるたびに人が亡くなり、家が浸水し、それを毎年、繰り返しているという現実があるのですが
鈴木
森林があれば、腐葉土が醸成されているので、雨が降ってもそこで貯水されて、日照りになった場合は、そこから水が浸み出して補充されると思われています。しかし、本当でしょうか。鉢植えに水を注してみると分かりますが、ひと度土が水で滴たされると、鉢の底から水は一斉に浸みだしてしまいます。そして、水やりを止めると底から浸みだす水はすぐに止まって、じわじわとしみ出てくるものではないのです。
そして、蓄えた水は、やがて植えた植物が消費します。日本学術会議の答申でも、森林が、水源を涵養する機能は認知されていますが、治水上問題となる大雨の時、すなわち水を吸収しきって、飽和状態になった時に働くのがダムなのであって、その機能を森林が代替することはできないことが報告されています。
日本学術会議では、そうした見解を表明しているのですが、その見解が、なかなか一般社会に浸透しないのです。誤ったイメージが出来上がってしまったためです。
田畑や山林を市街化すると洪水量が増大する。これの裏返しで、それが森林の治水効果だと思っている人が沢山います。しかし、これは誤解です。住宅が建ち並び舗装された道路によって、つるつるに都市化した地域では、水は地下に浸透しないで、道路の側溝や都市下水路を通して一気に大量に河川に排出されます。都市化の大幅な進展が洪水量の増大をもたらすのですが、そのことを横に置いて、森林が十分に洪水調節機能を発揮するものと、錯覚してしまっています。
 こうした誤解が治水事業を正しく理解していただく上で、どれほどマイナスになっていることか図り知れませんがそうした様々な誤解に対して、私たちは説明しなければなりません。
――遊水池としての治水機能は、あまり期待できないのでしょうか
鈴木
森林も田畑も、基本的に洪水を溜めて調整するためのものではないのです。
私が言いたいことは、こうしたいろいろな誤解が広まり、公共事業全般についての誤った批判がまかり通っていることの理不尽さです。
そういう状況下ですから、つい行政側はウケのいい施策ばかりに傾かないよう注意することが必要です。治水のプロなのですから、そこを腹に据えていないと、本当に大失敗し、十年後、二十年後、さらに百年後には、後代の人々に笑われることになりかねません。
――ところでダムにしても、河口堰にしても、数十年にわたって住民と話し合いながら執行されてきましたね
鈴木
そうです。前任地の近畿地方整備局で実施していた大滝ダムにしても、現在の地方整備局の職員で、このダムの計画当初に生まれているものは半分もいません。それ程古くから進められている計画です。
それを何十年もかかって、永々と用地買収を進めてきたのです。そして、いまや供用開始を迎えようとしているわけですが、それまでには行政側の担当者が何人も交代しました。一方、地権者や住民は変わりません。その人達に対して、私たちは故人や退職者も含めて、何千回、何万回と心の扉を叩いてきたのです。お願いにお願いを重ね、そしてやっと堅い心の扉を開いて頂いた結果として、先祖伝来の土地を提供して頂いているわけです。
そうした長年の積み重ねによって、地元自治体の村長はじめ住民の皆さんから、「本当にいいダム造ってもらった」と喜んで頂いているのです。
――大衆向けマスコミや学識経験者の公共事業批判と、事業が実施された地域住民の意識との間には、温度差があるように感じますが
鈴木
大滝ダムによって渇水も洪水も緩和されようとしています。そして何よりも地元からは、「長い年月がかかったけれども本当に良かった」と喜ばれ、「ダムの竣工式には、ぜひとも今まで大滝ダムに係わった全事務所長に出席して欲しい」という声まで聞かれたりします。
――そうした努力の歴史と完成の喜びを思うと、紀伊丹生川ダムの中止は長い目で見ても、関係者にとって無念だったのでは
鈴木
紀伊丹生川ダムについて、他の治水手段が良いと判断した背景には、いろいろな要素があるのです。ひとつは大滝ダムがまもなく供用開始されることで、その操作を工夫すると同時に他の治水整備を併せて行えば、ダムを建設しなくても治水対策は十分に可能と判断したわけです。

(後編)

国土交通省の人事異動で、河川局長に前近畿地方整備局長の鈴木藤一郎氏が就任した。治水事業は、長野県の田中知事の「脱ダム宣言」に見られるように、とかく無理解な批判の対象となることが多い。だが、鈴木局長は「だからといって、治水を担う行政がウケの良い施策ばかりに傾くことがあってはならない」と警告を発する。新任の同局長に、治水対策はどうあるべきか、考えを伺った。
――ダムを含む治水事業について、洪水や水害に悩まされる住民の安堵の声は、なかなかマスコミには掲載されず、整備に伴う弊害ばかりに視点が置かれていると感じます
鈴木
例えば、日本の公害問題を見ると、企業、企業集団など特定の原因者がいる場合が多いのですが、マスコミもそうした原因者の追求に力を入れてきたという側面があったと思います。
河川問題について見ると、河川の水質問題において、河川管理者が川の平面形を単純に直線化して整備したために、天然の河川が持っている自然浄化機能を奪ってしまった。それが水質悪化の原因かのように主張する人もいます。
しかし、そういう単純な問題ではないのです。河川は、自然のままに残したとしても、流域の都市化が進み、流域からの汚濁負荷の増大に対応した対策がとられなければ、水質が悪化してしまうのです。こうした問題は、個々人も含め流域内の社会経済活動にも原因があるのです。
そうしたいろいろな原因がありますから、それを川の中だけで解決するには無理があります。したがって、二十年以上前から、治水はいわゆる総合治水対策を行ってきており、水質については水質規制や下水道整備などの対策を総合的に行ってきているのです。
個人も企業も行政も、みんながあるひとつの方向を見て、高い理想をもつことが必要です。高い理想をもって川を変えていこうという意識を、みんな持って、一定の方向を目標に、活動することが、非常に大事だと思います。そういう国民的合意が、まだまだできていないですね。
今、全国には川に関するいろいろな団体が千以上もあると聞いています。ほとんどのところは、行政とそれらnpoが一緒になって、試行錯誤を繰り返しながら様々な取り組みを行ってます。
――npoによる河川保護活動というものですか
鈴木
河川愛護運動だけでなく、魚を増やそうとしたり、昆虫や水生生物を定着させようとしたり、いろいろな活動が見られます。小学生が何十年間も水質観測をして記録した話題は、有名ですね。また最近では文部科学省も、川について大変理解を示してくれ、学校教育の中にそれを取り入れてくれることになりました。そんな訳で、局長就任時の挨拶周りのルートには、文部科学省といった、日常業務ではあまり接点のないところも含まれました。
――世界的に見ても日本の地形は、急峻な山脈が多くて河川は急流ですから、治水整備の工法も、独特の伝統的なものがあると思います
鈴木
そうですね。私個人も、河川の伝統工法をどう活かしていくのかについて研究したこともあり、その結果、伝統工法を活かし得るケースもあることが判りました。そうしたことを思い出しながら工法を考えていくことも必要だと思います。
ただ、やはり都市河川に限っては、どうしても限界があります。江戸時代の東京といえば、街の外れは素晴らしい田園地帯で、人がほとんど住んでいなかったわけです。人の住んでいない中での田園風景と同じ状況を、この東京で再現できるかというと、これはまず、不可能と言っていいですね。これだけ都市化してしまい、ビルが林立している状況の中で、河川空間だけが当時の状況と全く同じようにすることは、無理があると思うのです。
やはり都市は都市なりにということで、河川とその近隣に人が居住する住宅地とが背中を向け合うのではなく、都市の中の河川として調和した、良い関係が出来るのが理想です。そこで、良い関係を作れる川づくりとは何かを考えるようにしています。
――確かに都市の中に小川が流れ、それが都会人のヒーリングの場になっていたりしますね
鈴木
やはり理想は高く持つことだと思います。私は前任地の大阪で、「地域の方々が夢を描いて下さい。きちんとした素晴らしい絵を、皆さんが描いたなら、私たちは必ずそれを実現します。」と宣言してきました。
財政状況は厳しいですが、川を見て、素晴らしいと感じる心があれば、きっと実現できます。
――確かに事業予算を削減し、スリム化するためには、理想など考えなくても良いと言わんばかりの風潮が、事業者を萎縮させる原因でないかと思いますね
鈴木
そうです。やはり、萎縮してはなりません。公共事業は無駄という人がいますが、その公共事業に個々人がどれだけ依存しているのかについては、意識されることはあまりないと思います。蛇口をひねれば、いつでも水が出ると言います。しかし、そのためにどれだけの人間が関わっていることか。山に至るまで、どれだけ多くの人々が汗水を垂らし、あるいは先祖伝来の土地を提供し、あるいは上下水道をはじめとした近代施設を活用していることか。
下水道などはその典型ですね。大都市においては、自然の浄化機能など到底、追いつかないのですから、下水道というプラントの中に、自然の持つ浄化機能を濃縮しているわけです。微生物による浄化システムも導入されています。
つまり、このようにしなければ追いつかないほど、多くの人が住みついてしまったということです。中には、好んで山中に住み、自分は自然と共生した生活をしていると主張する人もいるかも知れませんが、排泄物の処理は少人数なら自然に吸収できるかもしれませんが、万単位の人数となると、何らかの施設に頼るしかないのです。
――「水と空気はタダ」などと言いますが、日本人は防災についても、その構造を知らないために、ただで守られていると勘違いしやすいのではないかと思います。現実には歴代の担当の方々が予算措置をし、当時の国民がそれを負担し、そうして残された治水施設の恩恵によることを忘れていると思います。もしも現代の人々が、治水を不要として整備を怠ったなら、後代の人々は現代の我々を恨むことになるでしょう
鈴木
近年は金利も安く、物価も地価も安い状況ですから、まさに後代のために、今のうちに、やるべきことをやっておくとことは大切ですね。
比較的安く整備できるいまこそが、絶好のチャンスだと指摘する声もあるのです。この点に関しては、いろいろな議論があります。今日の財政悪化の原因は何なのか。公共投資はどうあるべきなのかなどです。
いずれにしても、予算というものは、毎年決まっていくことになり、その中でどう工夫するか。それを考えるのは、私達の仕事です。

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