〈建設グラフ2000年8月号〉

interview

国土に働きかけなければ、国土からの恩恵は得られない

情報公開と住民参加の政策形成には、住民にも応分の責任を

建設省道路局長 大石久和 氏

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大石久和 おおいし・ひさかず
昭和20年4月2日生まれ、本籍 兵庫県、京都大学大学院工学研究科卒
昭和58年4月近畿地方建設局奈良国道工事事務所長
昭和61年4月中部地方建設局沼津工事事務所長
昭和63年1月中部地方建設局企画部企画調査官
平成5年4月国土庁計画・調整局総合交通課長
平成7年6月道路局道路環境課長
平成8年7月大臣官房技術審議官
平成11年7月道路局長
わが国の産業構造は、情報関連産業が牽引役になりつつある。一方、人口は減少傾向を辿り、反面、高齢化も進んでいる。経済活動の動脈として重要な役割を果たす道路は、単なる流通手段としてだけでなく、様々な機能、役割を果たすことが求められることになる。ところが、一方ではそうした道路整備について、不要論も聞かれる。全国の道路整備を担う建設省道路局の大石久和局長に道路整備の重要性と不要論への見解などを伺った。
――道路整備をめぐる議論で印象的だったのは、岐阜県知事が東京都内での道路整備は不要と断言し、これに渋滞対策に全力を挙げている東京都が反発したことでした。岐阜県知事の発言は、ある意味では地方の意見を代弁しているとも見られますが、首都機能の正常化、高度化を目指す東京都が反発する心情も理解できます。そこで、全国の道路政策を担う国としては、首都圏、大都市圏と地方とのバランスについてどう考えますか
大石
難しい問題です。恐らく明確な回答は、永久に出ないでしょう。ただ、岐阜県知事は、単純な二者択一という文脈の中で発言したのではなく、いわゆる「地方切り捨て」論議が横行している状況に対して、本当に現実を見つめた議論なのかを問うたのだと、私は解釈しています。
したがって、東京での投資、大都市の投資を不要だという認識を持っているわけではないと思います。もちろん岐阜県は大都市である名古屋圏域を抱えており、梶原知事自身は建設省都市局長まで勤めた人物ですから、東京の抱える矛盾や問題点を十分に認識した上で発言しているはずです。
ただ、都内の一部評論家に見られる「地方への投資はもういい」という反対論に対するアンチテーゼなのではないかと思います。
「道路」という、国土利用のあり方に決定的な影響力を持つツールの管理をまかせられている私たちの立場から言うなら、大都市圏に居住する人々は渋滞、通勤困難、狭所住宅と、とても厳しい状況に置かれているのは確かです。既存の投資量も大きいわけですから、我が国の経済の牽引役として、東京、大阪、名古屋圏などがもう一度パワフルになるということが、きわめて重要だと思います。したがって、そのために重要なインフラは整備して行かなくてはならないと思っています。
また、大きな流れで言えば、高齢化、少子化時代の到来で総人口が減ってきます。特に我が国においては高齢化と人口減少が他の国に比べ急速に起こるといわれていますので、今後の対策を間違ってはなりません。
ところが、私たちの国は地形上、大変なハンディキャップがあり、75%くらいが大山脈地帯で、標高500mの土地が横たわっています。そういう土地が身近にあることで、国民がある一定年齢を超えて、自然回帰に目覚めた時には、非常に有効な土地利用ができていることが必要です。
つまり、かつては高度経済成長で、若者が都市部に集まりましたが、今度は都市の熟年者が地方での生活の可能性を求めて、分散していくという流れが発生すると予想されます。かつて私たちは地方出身で、都会暮らしでしたから、出身地の地方にこだわりがあって、拘束されるところがあったわけです。しかし、今日の多くの若者は、大都市生まれの大都市暮らしという人が多いので、そうした地方にこだわりのない人々が、自由にやりたいことのできる地方を選んで移住する時代に入っていくことが考えられます。
しかし、そのためには十分なインフラ整備が必要になるわけで、地方もわが町に来てくださいと誘致したところで、トイレが水洗でなければ、50歳以上の夫婦にしても来てくれるわけもなく、またインターネットも使えないような環境では問題です。
したがって、ある程度の物流、通信、都市生活を支えるインフラは十分にできていなければならず、そうした環境を最小単位として暮らしていけることが、必要だと思うのです。
そのために道路が果たす役割は、大きいものがあると思っています。現代は、地方か大都市か、地方か中央かという構造の中で、いわば「うちよりあそこの方が多いんだから許せない」という嫉妬の理論に支配される時代となっています。このため、どこの市町村も小さい単位で箱物をフルセットで持ってくることを競い合い、その成果を収めた首長が、立派な首長として評価されるようになっています。
しかし、私はこの発想は肯定できません。ホールもあるし、その他公共施設もあるとはいっても、大切なのはその地域のマーケット人口がどのくらいかを問われているということです。マーケット人口というものは、近隣市町村のことも考えなくてはならず、近隣市町村もこちらの町のことを考えなくてはならないのです。住民側の発想がそのように切り替わってきているわけですから、行政側も発想を転換していかなくてはならないのです。
それはつまり、嫉妬の論理から脱却していくことです。連携の時代ということですね。その連携の時代を支える最大のツールは、交通と情報です。わが国の情報は、かなり道路空間を使って流通しているわけです。その意味で、私は道路の役割というのは、新しい時代の新しい生活を支える上で、新しいサービスを行うことだと思います。
――確かに近年、道路の構造は多角的な利用法を想定したものになっていますね。表面的な舗装についても、工法は変わってきているようです
大石
そうです。私たちが内部でよく話すのですが、今まで荷車くらいしか通らなかった道路を、突然、自動車が通り始めて埃が舞い上がり、轍ができて穴だらけになったことから、舗装率という概念を確立し、その数値で進捗率を表現するようになりました。
ところが今日は、近代国家で舗装されていない道路がすべて舗装されたから、これで道路整備を完了とする国はどこにもありません。次には幹線道路に歩道はあるのか、ライフラインは収容されているか、みどりの空間はあるのか、車椅子で通れる歩道はあるのかが問われ始めています。こうなると、舗装率という概念だけでは測っていけなくなり、緑化率、渋滞解消率など、その時々のサービスに応じて、サービスを提供するための論理を説明し得るスケールが必要になってきます。そして、それは時代とともに変わってくるのです。
道路整備は昭和30年頃から行われてきており、最近は、もうこれ以上は必要ないといわれますが、決してそうではないのです。確かに30年代に比べれば、現在の道路は遙かに良くなりました。30年代は、国道1号線でも砂埃が舞っていたほどでしたが、現在、国道1号で埃が立つところはありません。しかし、だから道路整備は完了し、終わったのだと考えるなら大きな間違いです。その発想には、少なくとも国民生活と、車と道路の関わりが、昭和30年代から現在までに大きく変わったという現実認識が欠けています。

――諸外国とわが国の道路整備率を比較すると、未だに日本の数値は低いとされますが、それでいて不要論も聞かれるのは不思議ですね
大石
全くその通りだと思います。私は、これからは国民にも土木に関する工学的な知識・理解、科学的な知識・理解を持ってもらうことが必要だと思っています。例えば、教育がどの程度、普及しているかを調べるための指標として「リテラシー」(識字率)というものがありますが、これからは、いわば「サイエンティフィック=リテラシー」という概念が必要だと思うのです。
その視点で見ると、我々の国土、インフラ、社会資本投資の直接の対象である国土というものが、ヨーロッパやアメリカと比べて、いかに違うかということを認識した上で、社会資本投資の是非を議論すべきだと思います。経済学者の方々は残念ながら、この部分をほとんど理解しておらず、また、知ろうとする努力も見られません。それでいて”公共事業費がこれだけあるのはおかしい”と、主張しているのです。
しかし、公共投資は、あくまでも国土を対象としています。農業的な土地利用をする場合も、港湾を整備する場合も、河川・道路を整備する場合も、すべて国土が対象です。その国土の実状を知らずして議論し続けること自体がおかしいという出発点に、いつまでも立ち帰ることがないこと自体がおかしい。
例えば、日本の国土がいかに細長くて使いづらいものか。都市間の平均間隔はドイツの何倍もあります。また、フランスもドイツも一つの平野の上に都市が形成されており、唯一アルプスの方だけは少し高くなっていますが、ドイツの16州都は全てが一つの平野の上にあるのです。しかも、国土の形状はドイツもフランスも円くなっています。
したがって、例えば高速道路を造るにも、新幹線を通すにも、国民の90%が30分以内にインターチェンジや新幹線の駅に行けるようなネットワークを構築するとします。彼らの国は山脈もないので、単に環状線をつくり、中に放射線をつくるだけでそれは実現できるのです。
ところが、日本でそうしたネットワークを構築しようとすれば、いかに長い延長が必要か。たぶんフランスや、ドイツの2倍は必要です。本来なら日本アルプスに縦貫線を一本通し、横に何本かの支線を横断させれば日本縦貫線は出来上がります。しかし、日本アルプスを越えて結ぶことは無理なので、残念ながら現実はそうもいきません。東北にしても、東北縦貫線一本では無理で、三陸側に出るにしても、必ず山脈があるため、これを越えなくてはなりません。このために日本海沿岸に三陸縦貫もつくらなければならないのです。本来なら縦貫道一本を通して郡山、新潟、いわきなどを横断道で結べば良いのです。
しかし、これが簡単にできないからこそネットワークが必要であり、理論的にも倍くらいの道路延長が必要なのです。ところが、私たちの整備済みの高速道路総延長は6,600キロ。これに対し、ドイツのアウトバーンは1万1,300キロです。これで日本の高速道路が不要などと、なぜ言えるのでしょうか。私は、国民へのどんなサービスが完成したから不要だというのか、是非とも説明を聞きたいものです。国土の実態を無視して要らないというのは、極めて感情に流された議論で、全くサイエンティフィックではありません。

――確かに、根拠のない不要論には説得力が感じられませんが、本来、わが国はどんな道路整備が必要なのでしょうか
大石
私たちは長期的には、1万4,000qくらいは必要だと考えています。ドイツはすでに1万1,000qで、長期的には、1万3,000qくらいにする計画とのことです。ドイツのような使い勝手の良い国土で1万3,000qです。旧東ドイツは、全く手つかずだったので、現在、懸命に整備しています。
その意味では、私たちの国土の成り立ちや扁平具合、扁平率、平野の分布、都市の距離間などを総合判断すると、やはり1万4,000q分があれば、十分なサービスを提供できるのではないかと思います。
この1万4,000qという想定が、少ないか多いかという議論であれば、私たちは受けて立たねばならないと思っています。

――道路整備の必要性と正当性を表現するのに、東京都は5兆円の経済効果を算出してキャッチフレーズにしていますね
大石
私たちの場合は、国全体で12兆円と算出しています。道路整備の遅れによって、1年間で全国民に与えている損失額は、1時間にして53億円です。一人あたりで計算すると44時間を、渋滞によって収奪しているわけです。もっとも、都市構成は完全ではなく、土地利用規制もされていないので、それは受け入れざるを得ませんが、しかし、いずれは解消して行かなくてはなりません。したがって、私たちはそれを解消していくツールを提案して行かなくてはならないのです。
例えば、東京の外郭環状道路は、ようやく埼玉は完成し、千葉方面での整備が本格化しています。しかし、東京方面は進んでいません。リングというものは、閉じているものと閉じていないもの、欠けているものと欠けていないものとでは、効用は半分近く違うのです。したがって、できるだけ早く環状形を作らなくてはならないのです。
――地域住民は、道路整備には賛成しても、近隣に整備されるとなると反対するという一面がありますね
大石
それはどこの国でも同じで、やむを得ないところでしょう。私たちは、全体のために犠牲になっている方々に対しては、環境面でも補償面でも十分に措置しなくてはならないと思っています。一部の人だけが憂き目を見るということは、避けなければなりません。

――最近、行政によるアカウンタビリティーの重要性が論議されていますが、建設省ではアカウンタビリティーにおいて独特の取り組みが見られますね
大石
特に道路局は、最も住民との接点が多いので、とりわけ工夫を凝らしてきたと思っています。それは、アカウンタビリティーの基礎になる事業の評価システムなどに見られます。建設省がこれを検討し始めたのは10年くらい前です。経済学者や交通工学の学識経験者にお願いし、我々の投資をどう評価すれば良いのかを研究してきました。そしてその結果を中村英夫先生を中心ににまとめていただきました。
そして平成10年からは、実施前、実施中、実施後を含むすべての事業に評価システムを適用し、採択場所ごとに評価内容をオープンにしています。例えば、着手している事業でも、なかなか進展せずに5年たったもの、順調に進んではいても事業開始から10年たったものは、事業中の評価もすることにし、評価によっては事業停止まで考えるという仕組みにしようとしています。それらを含んで、アカウンタビリティーというわけです。
5ヶ年計画の策定時におきましても、多くの方々から意見をいただくために、パブリック=インボルブメントとして、多くの方々から意見をいただきました。省全体でもコミュニケーションと呼んだり、パブリックコメントと呼んで進めていますから、その中では私たちが最も早くに先頭を切ってきたわけです。
一部の道路事業では、ルートのあり方までも、一般者の声を聞くということになったのですから、大変な変化だと思いますね。
しかし、アカウンタビリティーは、一部の人が単に行政から情報を引き出せればそれで善しと捉えているのであれば、それは大間違いです。行政側が情報を公開する以上は、知った側にもそれをどう認識、解釈するかについて、責任が伴うのです。私は、アカウンタビリティーは、行政と国民が持つ責任のシェア(配分)の比率を変えることだと思うのです。今までは場合によっては、道路管理者が悪いと一方的に批判を受けてきましたが、アカウンタビリティーが究極形にまで発達した場合は、参画していただいた方にも共同責任がついて回ることになるのです。これは、住民側だけに責任があるということではありません。行政側である我々が責任を放棄したのでは、なんの意味も持ちませんから。
吉野川の第十堰にしても、河川局が白紙に戻して再度、議論することにこだわるのは、河川局がもしあの治水に関して、提案能力を失ってしまえば、河川局は不要ということになるからです。河川管理者という概念は不要ということになりますからね。
しかし、管理者たる行政に提案することをやめろというのは、無理だと思います。それは、私たちとても同じことで、「この地域をこのようにしたいから、そのためには渋滞箇所にこうしたバイパスを造りたい」と提案するのですが、その提案機能を放棄して、「どこにどんな道路を造ればいいのか、住民のみなさん、考えてください」と丸投げしてしまうことは、さすがに考えられませんね。

(後編)

――行政が提案をしなくなるという事態は、現実には想像もつきませんが、「行政の提案」事態を警戒する風潮があるように見えますね
大石
提案することが、けしからんということはないと思いますよ。私たちは道路の専門家で、その中には工学部卒の者もいれば経済学部卒の者もいます。そして、私たちには研究所があり、どこにどんな物をつくれば良いのか研究している者もいます。
それらの人材が集まって、将来の地域開発までも視野に入れながら、「このルートで提案させてください。そのためにはこんな規格の道路が適していますよ」と提案するのは、行政の責務だと思います。その上で、住民の方々からいろいろな意見をお聞きして、私たちに欠けている視点や、配慮などを指摘してもらい、修正したり、より良い物に変えていくことが必要だろうと思います。
そのときに、共同で責任をシェアするということになるのです。もちろん、最終的にはあくまでも行政側が責任を持ちますが、住民の方々も、完成した物に対し、応分の責任を負っていただくことになると思います。
――情報公開が進み、その上で国民も政策形成に参加し、そして相当の責任も負うというのは民主主義に適った考え方ですね
大石
参加して意見を言い、そして政策に反映させるということには責任が伴うわけで、それが伴わなければ、何をしても良いといったアナーキーになってしまいます。むしろ、責任も伴うからこそ国民の側も、参加する喜びがあるわけで、参加する喜びは、自分の意見が受け容れられ得る状況が前提です。
例えば、ある道路の路肩に花を植えようと提案され、実行されれば、当然、後は花が抜き取られてないかどうか、毎日、ウオッチングしていきましょうとなるわけです。そのために、私たち道路管理者としては、ボランティアも参加できる仕組みにしていきたいと思っているわけです。
道路管理者の管理業務だけでなく、より美しく、汚くならないための抑止力として、住民たちが参画していくという形が非常に重要になっているのではないでしょうか。それは経費のかからない政府、小さな行政を目指すという意味でも、重要だと思います。何でも行政がやれ、花が一輪枯れても植え替えに来いというのは、小さな行政の理念に反します。
――最近は、公園や河川でも、管理を、地域住民の自治に任せているところがあるようですね
大石
道路にもそうしたケースはあるのです。道路の空き空間を花壇にしてもらうということもあります。もちろん、国道は国道の有すべき機能を持った車道ですから、そこにどんな情報を与えるか、どういう標識を設置するかについては、行政が直接責任を負います。しかし、歩道にどんな植え込みをするのか、どんな色彩にするのかについては、行政がすべて決めるべきか、それとも地域住民に委ねるべきかということでしょう。
確かに、私達の道路と思ってくれなければ、良くはならないですね。ゴミなどを捨てられても平気になってしまいます。空き缶を捨てたくないような道路、捨てられた空き缶を拾いたくなる道路にしていきたいと思っています。
――住民の自主管理は、確かに理想ですが、住民が高齢化したり、人の移動などがあった場合に、活動が継承されずに途絶えてしまうという問題点も指摘されています
大石
その点では、確かに今のところ有効策はありません。難しい課題ですね。
――ところで、公共事業の財源にも限界があることから、最近はpfiが注目されていますが、道路整備への導入の可能性をどう考えていますか
大石
PFIの最大の課題は、リスク管理をどうするかということで、pfi論議の当初から提起されていたテーマです。道路のように一つの投資が、何百億円から何千億円にも上るものに、PFIのPすなわちプライベート側が、どこまで責任を負えるかを考えると、なかなか簡単ではないと思うのです。
そして、プライベート側がすべての責任をとるとなると、あまりにもリスクが大き過ぎます。
しかし私は、それでもリスク管理のできる対象はあると思います。それは、受益の発生が明らかな物です。
高速道路のように長い物の一部に導入するのは難しいと思いますが、使い途が限定され、そのことで、効用がきわめて明確に発生する道路関連プロジェクトのようなものであれば可能でしょう。
――実施する場合には、民間施工のものを行政が買収したり、借り上げる方式などが提案されていますが、どんなパターンが考えられますか
大石
どこまでを民間に任せるかが問題となるでしょう。
しかし、現在、専ら主流となっている借入金を活用して事業を実施するという方法においては、日本は大先進国と言えます。しかも、世界中では高速道路のほとんどを、すべて有料で運営している国の方が少ないのです。ドイツのアウトバーンは、いまだに普通車両は無料なのです。
そう考えると、日本の高速道路は極めて高品質なインフラと言えますね。ただ、料金はともかく品質は改善していくべきだと思います。有料で運営される高速道路が、アウトバーンより品質が落ちる、車線が足りないという問題があります。アウトバーンなどは、片側2車線であっても、実際は橋梁などを落としたなら、片側4車線にもなるのです。それだけ側道の幅を設けているのです。つまり、将来は車線増設する可能性を、最初から含めているのです。
――かつては、質より量が重視されていましたね
大石
 
建設大臣だった亀井(静)代議士は、バラック建築の時代だったと言っています。それだけ財政が厳しかったのです。道路整備には予算がかなりかかっていますが、予算がかかること自体が批判されています。
しかし、わが国の場合は、予算のかかる構造にせざるを得ないのです。地震があるかないかで、建物の価格がいかに変わるかを認識した上で議論していただきたい。ただ単に、日本の公共事業は高いといわれても、批判だけで解決できるものではないのです。
私は常々主張していることですが、わが国は、どこの地域をみても100年に1度は阪神淡路級あるいは関東大震災級の地震が起こっているのです。したがって、私たちは常に覚悟しておかなければならないのです。
かつて、紙と木と土でつくっていた江戸時代の建設文化は、日本人の知恵であって、無知だったからではないのです。石を加工する技術などは、すでに優れたものを持っていましたから。しかし、建築材料としては使えないという日本人の知恵に基づいているのです。火事も多かったですが、そのかわり改築・改修しやすいという、日本的な精神構造を形成していったわけですね。
それが、近代に至って鉄と石とコンクリートを導入したときに、それをどう克服するか、これは文明論的課題だったのです。その文明論的課題の克服が不十分なままに歩んできたため、最初に関東大震災で警告を発し、もっとも近代化したときに阪神淡路で大警告を発せられたということなのでしょう。
――その意味では、国土構造も都市構造も見直す必要があるのでは
大石
国土構造を変えたり、都市構造を変えていくなどの大反省がなくてはならないわけで、例え私たちがパリと同じ構造物を持ったとしても、災害脆弱性のゆえに、同じ物を持っているとは言えないのです。遙かに我々の国の方が、災害脆弱性が高いわけで、ヨーロッパで培われてきた都市構造技術を、わが国に適応できるように、もう一度アレンジしていかなくてはなりません。
したがって、本当にオリジナリティーのある都市づくり、国土づくりを目指さなくてはならず、そういう時期に来ているわけです。少なくとも阪神淡路大震災は、その警告を発したと言えるでしょう。
――公共事業は、そろそろふるいにかけた方がいいのではないかと言われていますが、実際にはどれをとるべきなのか。また、発注者として、公共事業にどれだけ投資すればいいのかを誰かに聞きたいくらいだという方もいます。これから価値観が変わっていく上で、自信を無くして萎縮し、確固たる概念を提唱する技術者が少なくなったと聞きます
大石
公共事業は社会資本整備を、フローの概念で捉えた物です。ですから公共事業が是か非かというのは、フローの面で捉えた論議であって、その限界を知っておくべきです。計画論で置き換えた場合、公共投資という言葉では計れないということです。それは、社会資本整備の計画性という問題になるわけです。
社会資本整備とは何かというと、私の見解としては、「様々なツールを用いての国土への働きかけ」ということになるでしょう。国土に働きかけるから、国土は恵みを返してくれるわけです。簡単な例でいえば、江戸時代の最初に90万町歩だった田畑が、100年もかけない間に160万町歩になりました。それは戦国時代に培った技術で、そこまでにしたのです。だから、人口が2,000万人弱から3,000万人近くになったわけですね。厳しい時代もありましたが、何とか平和裡にいろいろな文化を創りつつ幕末まできたわけです。まさに3,000万人の集積があったからこそ、いろいろな文化が生まれたということです。その背景には90万町歩から160万町歩にしたという国土への働きかけがあったからですね。
そのために技術革新もあったのです。江戸時代に施工されたというものが、全国にたくさん分布しています。そこには例えば、新たなトンネルを掘り、水を抜いたといった技術が各地に見られます。かくして、私たちの先人、先輩たちは努力してきたわけです。
その後、明治になって再び動き出しましたね。そして、明治24年くらいには、東北の端にまで、鉄道が延びましたから、大変なスピードで国土に働きかけたということになります。その結果、3,000万人だった人口は1億人近くも伸びたのです。それこそが国力ですね。また、戦後直後も、復興に向けてかなり努力しました。
そしていよいよ、私たちの新しい時代の始まりを迎えています。新しい時代の始まりですから、私たちはもっともっと国土に働きかけなくてはならないのです。国土に働きかけなければ、国土は何も返してくれません。私はよく言うのですが、1万1,000qのアウトバーンがドイツ国民に返している恵みの量は、6,600qしかない高速道路が日本国民に返している恵みの量に勝るのは当然のことだと。それを現時点で越えているというのは、明らかに間違っています。1万1,000qのネットワークの方が、遙かに多くの物をドイツ国民に返しています。
ですから日本で6,600qで十分とする根拠が説明されなければなりません。その説明がないまま公共事業の是非を議論しても、前提が何もないのでは説得力に欠けます。財政赤字論だけで論議するのであれば、私たちにはいくらでも反論材料があります。
道路整備への投資はフロー効果とストック効果を生んでいます。道路は完成によって土地利用も変わりますが、変わると言っても、より高度化される方向に変わっていくのは間違いありません。それによって、企業の収益はあがり、所得税も法人税も固定資産税も税収も上がるということになるのです。その効果だけでも、民間に受け取っていただく利益は、フローとストック併せ、かなりのものになります。
――それを、どう評価してもらうかが問題ですね
大石
道路行政は特定財源を持っています。この制度は、将来に負担を残し、国民にご迷惑をかけることはありません。有料道路は将来の方々に負担してもらうことはありますが。
したがって、財政再建を急ぐべきだから、道路整備を押さえるべきだという間違った考え方をやめて、事実に立脚した理論を組み立てて欲しいものです。

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