建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ1998年5〜8月号〉

interview

土木の社会的価値とすばらしさに自信と勇気を

32年前のタイの建設現場は旧約聖書「ヨブ記」そのもの

日本財団会長 曽野綾子氏

曽野 綾子 (その・あやこ)
本名:三浦知壽子 洗礼名:マリア・エリザベト
小説家、日本芸術院会員、女流文学者会会員、日本文芸家協会理事、日本財団会長、海外邦人宣教者活動援助後援会代表、脳死臨調委員、世界の中の日本を考える会理事、松下政経塾理事、国際長寿社会リーダーシップセンター理事、日本オーケストラ連盟理事。
 昭和6年9月17日生、東京都出身。29年3月聖心女子大学英文科卒。
28年、小説家で元文化庁長官の三浦朱門氏と結婚。29年、「遠来の客たち」で芥川賞候補となり文壇デビュー。作家として執筆、講演活動をこなす一方、日本財団会長や日本文芸家協会理事、その他政府諮問機関委員など多数の公職を務める他、敬虔なカトリック系クリスチャンでもあり、民間援助組織(ngo)である海外邦人宣教者活動援助講演会代表も務める。特に、この後援会での25年間にわたる活動が高く評価され、第4回読売国際協力賞を受賞した。
 45年、エッセイ「誰のために愛するか」が200万部のベストセラーに。54年「神の汚れた手」で、第19回女流文学賞にノミネートされたが辞退。59年臨教審委員。平成5年日本芸術院会員。日本財団理事を経て、7年会長に就任。最近、発表した作品は、海外邦人宣教者活動援助後援会の記録を著した「神様、それをお望みですか」がある。
 その他の主な作品:「無名碑」「地を潤すもの」「紅梅白梅」「奇蹟」「神の汚れた手」「時の止まった赤ん坊」「砂漠、この神の土地」「湖水誕生」「夜明けの新聞の匂い」「天井の青」「二十一世紀への手紙」「極北の光」など。
【受賞歴】
1979年 ローマ法王庁よりヴァチカン有功十字勲章
1987年 「湖水誕生」により土木学会著作賞を受賞
1988年 フジ・サンケイグループより鹿内信隆正論大賞受賞
1992年 韓国・宇耕(ウギョン)財団より文化芸術賞
1993年 第49回日本芸術院賞恩賜賞
1995年 第46回日本放送協会放送文化賞
1997年 読売国際協力賞
1998年 財界賞特別賞

わが国を代表する女流作家のひとり、曽野綾子氏(日本財団会長)が、産経新聞に寄せたコラム「自分の顔相手の顔・土木の仕事」は多くの建設関係者に深い感動をもたらした。土木の誇りを力強く訴えたそのコラムには、「涙なくしては読めなかった」、「あのコラムには泣けました」といった反響があり、ともすればマスコミや社会批判にさらされる建設関係者に、改めて社会的な自信と勇気を取り戻させた。それは自らダム現場などに入り、作業を手伝いながら技術を学び、現場に命を賭ける土木技術者の生き様や苦労と喜び、その人生に身を挺して接してきた同氏だからこそ表現できたものといえよう。土木が正しく伝えられず、正しく評価されなくなった今、本誌は改めて同氏にインタビューし、土木の社会的価値と素晴らしさを再確認する場となるべく特集する。
――先生が新聞のコラムに書かれた『土木の仕事に誇りを』という記事に、多くの人々が共鳴しています。文学者である先生が建設事業に関心を持たれたのは、そもそもどんないきさつからでしょうか
曽野
今から32年ほど前ですが、タイに遊びに行った時のことです。私は外国に行った時は、必ずその国の「揺りかごから墓場まで」を見ることにしています。病院から墓地まで、時には焼き場にも足を運びますが、その当時、タイの北部では、アジアハイウェイの建設が進んでいました。工事は前田建設と鹿島建設で行われていましたが、聞けばそこは少しオーバーですが、地獄のような現場だと聞かされました。
そこで、私は土木のことは何も分からないまま、ランパン〜チェンマイ高速道路第二工区を見学したのです。延長28kmという長い現場で、埃りが黄粉色をしている土地でした。そこで私は、現場の皆さんがご苦労されているお話をお聞きして、大変感動したのです。なぜ感動したのか、その時はよく分かりませんでしたが、そういうことがよくあるのです。
しかし、旧約聖書に「ヨブ記」というのがあります。私は聖書の専門家というわけではないのですが、このタイの現場は、そのヨブ記さながらだと思ったのです。
――ヨブ記と、どんな共通点があると思われたのか、ヨブ記の解説を含めてお聞かせ下さい
曽野
ヨブ記は、神と悪魔のお芝居のような物語です。主人公であるヨブは、現代の表現で言えば豊かな牧畜業者で、信仰心が篤く、行いの正しい義人です。神はヨブを義人と認めていますが、悪魔は「ヨブはいい暮らしをしているから行いが正しいのであって、それがどん底につき落とされたら、何をするか分からない」と反発します。そこでそれを試すことにし、神はヨブの扱いを悪魔に任せました。
これによってヨブは、落雷で天幕が焼けて息子や娘たちを失い、盗賊に襲撃されてしもべや家畜も失います。のみならず、自らも皮膚病に犯されてしまいます。一説にはハンセン病とも疥癬とも言われていますが、とにかく人目にもつくし本人も痒くて辛いわけです。そこで3人の友人が、彼を励まそうと訪ねて来るのですが、遠目に見ても分かるほどの変わり果てた姿に驚くんですね。
旧約聖書の時代にあっては、老、病、死は「人間の罪」の結果と見なされていました。そのため病気にかかると、人々から「どんな悪事をはたらいたのか」などと言われるのです。したがって、ヨブも同様に言われるわけですが、しかしヨブとしては何一つ悪いことなどしてはいません。にも関わらず、そうした悲惨な結果になった。すると友人たちは「それなら神を裏切れ」と言うんです。妻にも「こんな目に遭わせられながらも、まだ神を崇めるのか。神を呪って死ぬべきだ」と言われますが、ヨブは「われわれは神から幸いを受けるのだから、災いも神から受けよう」と言って、神を裏切りませんでした。こうした物語が42章6節まで続きます。
ところが42章7節になると、一変して、齢を取ったヨブのおかみさんから次々と子供が生まれます。そして一匹もいなかった家畜が増え出し、以前よりも多くなり「ヨブは二度び報われり」という結末で終わります。
ただ、42章6節までは詩のような形式ですが、42章7節になると散文体に変わるのが奇妙です。これについて聖書学者の見解では、ヨブが報われる42章7節以降は、勧善懲悪の好きな読者のために、後世の人が後から書き加えたもので、真実のヨブは、義人であって神を裏切らないのに現世ではろくなことがなく、そのまま死ぬという解釈です。それを知って、私は素晴らしいと思ったのです。
私は聖書学者の見解通り、42章7節以降のないヨブが真実のヨブだと思っていましたから、北タイの現場を見てまさにそれだと、日本に帰ってから気が付いたのです。
――北タイの現場も、それに似ていると感じたのですね
曽野
北タイの現場について、後に鹿島守之助さんがおっしゃったそうですが、「なぜウチがあれほどに損したのか分からない現場だった」ということです。心配して社員みんなに聞いても、決まって『会長、ご心配なく』との返答だけだったとのことです。鹿島さんは、私の小説を呼んで『よく分かった』とおっしゃって頂きましたが、本当は少しウソもあるので、私は内心ではドギマギしていたものです。

――そこから建設関係者との接点が生まれたわけですね
曽野
北タイの現場を見学した後、唐突にも前田建設に電話をして、自己紹介しながら北タイでお世話になったことをお話しし、土木の勉強をしたいので協力をお願いしたら、とても親切にして頂きました。それでタイの現場に関する全ての資料を頂いて、勉強を始めました。
いつも笑い話になりますが、当時は私はダムの作り方はおろか、骨材って何だか知らなかったんです。骨材とは鉄筋のことだと思いこんでいたので、説明を受けた時、なぜ「鉄筋を山から取ってくるんだろう」と思いました。それでも30分ほどは知ったフリをして聞いていたのですが、いよいよ話が合わなくなってしまったのでお聞きすると、つまり砂利のことなんですね。
そうした基礎から勉強をして、奥只見の田子倉ダムの現場に入らせてもらったのです。その時は『無名碑』という小説を書くためでした。名前のないモニュメントのことです。
昭和20年代の終わりから30年代の初めにかけて、大ダム建設が始まり、それまで日本にはなかった大ダム工法による佐久間ダムが完成したそうですね。田子倉ダムは、会津若松の奥にあり、当時は交通が不便で大変でした。だから、田子倉へ行くというと「あら、恐ろしい所へ行くわね」などと言われるほどでした。
小説の主人公はそのダムと名神高速道路、そしてアジアハイウェーの現場を動いています。花形の現場ばかり歩いた幸運な土木技術者という設定でした。そのため、ダムと高速道路と二つについて勉強することになりました。
一方、高瀬ダムの時は、施工主である東京電力にお願いに行ったのです。当時は東電会長であり、経団連会長でもあった平岩外四さんがまだ現職でいらっしゃいました。平岩さんは、工事を請けた前田建設、佐藤工業、鹿島、飛島、間といった大手ゼネコン五社の各社長さんを、わざわざ昼食会に招いて私を引き合わせ、取材のために自由に現場に入ることへの了解を取りつけてくださいました。
そこまではわりと簡単に進みましたが、問題は下請けさんです。土木の世界には、女性がトンネルに入るのはご法度という風習があります。そこで私は、一升瓶を持って一社一社を個別に回ってお願いしたところ、全部が受け入れてくれました。それが、『湖水誕生』という作品が生まれる大きな力になったのです。何と言うのか、皆さんの寛大さと近代精神の賜物です。
――現場ではどんな経験をなさいましたか
曽野
初めて現場に入った私は、まず現場の礼儀作法から教わり、その他、所長さんや作業員の方々から何度も笑われながら、いろいろなことを勉強させてもらいました。あれからもう30年が経ちましたが、ダム現場でいろいろな雑仕事をさせてもらったので、現場の末端には所長さんより度々行けました。
関東ローム層が風化した土であるマサを水で練り、ダムの取り付けのため手仕事で塗る「まんじゅう張り」という作業を覚えたり、オイルショックで建設資材が高騰したため、それまで捨てていた矢板を再利用するようになり、木製矢板の掃除も一緒にやりました。それは楽しかったですよ。
溶接現場やタイヤの修理場に、半日いたりもしました。そこでボソボソとおしゃべりしながら、作業についてご説明いただいたりして勉強したものです。時には、調査坑の最先端にも行きました。現場が温泉地なので、気温は46度から47度、湿度は100 %にもなるのです。そのため保安帽などは、汗でかぶれるためとても被っていられない状況です。現場では海水パンツ1枚になって、ドラム缶の水風呂に何分間かおきに入りながら作業をするという状況でした。
こうしてお師匠さんたちに弟子入りし、有り難いことに隅々まで現場を知ることができました。逆に、所長さんなど役職者のご苦労はよく知らない。もっぱら現場に徹しました。
もちろん、直接の接触がなくても、知っていなければ小説というものは書けません。かつて『黒部の太陽』という映画がありましたが、そこに、労務者が一斉に現場を駆けるシーンがありました。しかし、実際の現場ではあのように走ったりはしないのです。崩落でも起これば別でしょうが、普段は絶対にあのように駆けたりはしません。おかげであの映画のウソが分かりました。
現場では、決して余分な力は使わないようにしているものです。私は現場で専門家の身のこなしというものを知ったのです。

土木技術者の繊細な心の動きに感動

――作業員らとともに過ごしてきた現場には、多くの深い思い出があることでしょう曽野
いくつもあります。「湖水誕生」を執筆するために、新高瀬川ダムの現場にいた時のことです。そこは長野県の松本から信濃大町を西に入ったところにあり、標高は大体1,200円という高いところです。現場ではメートルのことを「円」と表現するのを教えられました。ロックフィルタイプダムで、膨大な量の土が積み上げられています。
私は広々とした野球場のようなテンパの上にいたのですが、夕方にもなると寒くて空腹も覚えます。「早く宿に戻って食事をしたいな」と思っていると、畳1帖分の大きさもあるかないかというほどの小さなブルドーザーが、上がりハッパで帰ってきました。
所定の旗の地点に着くと、作業を終えたオペレーターの男性は、誰もいない広大なテンパの中で、誰に見られているというわけでもないのにキャタピラーの土を丁寧に落としているのです。1時間半後にはまた作業が始まるというのにです。
これを見て私は、頭が下がりました。普通なら「どうせ、また作業が始まるのだから」と思ってしまうところです。これこそが日本の技術と誠実の力なのだと痛感しました。その人のこと、その時の場面を、私は今でも忘れません。
また、ダムの地下発電施設から突き出ている鉄筋を、まるでサルのように登る人がいました。「足でも滑らせたらどうするのか」と、ハラハラしながら見ていたものです。
200メートルもある縦坑の底近くで、作業員が吸うタバコの火が見えたのも印象的でした。200メートルも下にいて、埃りもひどくて視界が悪いはずなのにタバコの火が見えるのです。
水の出る切り羽で、タバコを彼らがどのようにして吸うのかも知りました。全身が濡れていますから、まず脇の下で手を拭いてね、それから保安帽の僅かなひさしの下で火をつけるんです。
1976年6月に、アメリカアイダホ州にあるティートンダムが決壊する事故がありました。このダムは、新高瀬川ダムの下流にある七倉ダムと、高堤、堤長とも同じ規模です。それがアッという間に決壊したのです。ダムの一部が黒ずみ、慌ててブルドーザーを駆り出し、土で補修しようとしたのですが、そのシミがどんどん広がっていき、やむなくブルドーザーを放棄して逃げ出すという光景を、オリンパスのカメラが捉えた連続写真が、アメリカの雑誌に出たんですよ。
その時、私は「下のダム」と言われている七倉ダムの現場に泊まっていたんですけど、東京電力第3建設所の所長さんはじめ工事関係者が、なぜ決壊したのか原因を知ろうと、膨大な資料をみな一斉に読んでいました。私も資料を借りて、就寝前に少し読んでみたりしましたが、カーテングラウトの長さも数も不足していたということを知りました。
それにしても、あれだけ多くの人間が一斉に真剣に勉強するというのは、凄いことで圧倒されました。
――作業員の慣習の中で、疑問を感じたことなどはありませんか
曽野
彼らに、初めアクイを感じたことがありました。カタカナのアクイです。作業員同士が『あれは秋田の組だ』とか『あれは新潟の組だ』とか言っていた時です。なぜ、そんなに器量の狭いことを言っているのかと思いました。
ところが、後になってその理由がよく分かりました。例えば全断面を何本もの削岩機で掘削してるうような時、作業は一斉には終わらず、どれか一本くらいは削岩機が残ってしまいます。終わったところでは順次、ダイナマイトを詰め始め、親方がその指揮に当たるのですが、削岩機は一台だけでも凄い音ですから人の声が聞こえづらいんです。その上に方言となると、同じ地域の出身者にしか分からないのです。同じ地域の出身者の組は、県単位どころか、村単位にまで分かれているでしょうから、コミュニケーションのためには、出身地の言葉を理解することが必要なんだということが分かりました。部外者がくだらない屁理屈を言ってはみても、それなりの理由があるのだということが分かりました。
――ドラマを構築していく作家の目から見て、特に感動した場面は
曽野
200mの長尺のレールが倒れたのを、目の当たりにしたことがあります。トンネルでレールが200メートルも寝てしまうなんてまさかと思いましたが、本当にあるのですね。
そのレールを起こさなければならないわけですが、私は測量用のレベルだったか、、トランシットだったかを覗かせてもらいました。その時、100メートルから150メートルも離れたところで、作業員の困惑している表情がよく見えました。それはまた闘いの表情ともいえるもので、私は小説家としてフと脱帽したいという思いに駆られましたね。
相手は芝居をしているわけでもなく、見られていることを意識しているわけでもないのですから、とにかく良い場面を見たという気がしました。
また、救出できなかった桜が湖底に沈んだことがありました。高瀬にダムの湖が出来始めた五月頃のことです。現場の方が「曽野さん、見に行きましょう」と誘うので行ってみると、もうすでに水面より1メートルくらい下に沈んでいました。湖底に沈んだ、それが最後の桜でした。
「咲きながら沈んだのだろうか、沈んでから咲いたのか。どっちなのだろう」。そう言って、ダム屋さんたちがみんな心を痛めていたのです。湖底に沈んだ桜も美しかったのですが、それを悼む技術者たちの心の美しさに感動しました。
ある時、所長さんが私を、取水口に連れて行ってくれたことがありました。遂道の補強のために、取水口に十字架の形の構造物が自然に出来ていたのです。所長さんは「まるで教会のようでしょう」と…。
こうした良い体験、良い場面が数限りなくあります。
――一つ一つがドラマですね
曽野
どれをとっても、論理では計測できないことばかりなのです。特に私は、寒い現場には冬の寒い時節に、暑い現場は暑い時節に行くのを原則にしていましたから。
――現場にはそうした人知れぬ苦労や美談も多いのに、土木は3kなどと言われてきました。そうしたイメージを回復するには、何が必要と考えますか
曽野
一般の人がなかなか入れない現場だから、prが出来ないのかもしれませんが、私がいつも言っているのは、大きなプロジェクトには、必ず調査が始まる段階からヒストリアン(歴史的な記録者)を付けるということです。
アメリカでは、沖縄侵攻の第一日からヒストリアンを付けました。沖縄本島上陸の時から、米軍はヒストリアンを同行させているのです。その一人があの有名な記者であるアーニーパイルです。かつて「アーニーパイル劇場」という劇場が日比谷にありました。
それくらいのものが、土木にあってもしかるべきですね。何年がかりという長い期間、私のような者を付け、現場を見せるということを新高瀬川ダムはして下さったわけです。もっとも私は眼の病気をしたりしたので、17年目にやっと『湖水誕生』という作品が完成したわけです。
――ある現場で、イメージアップのために現場見学会を開催したところ、それに参加した若い母親の一人が作業員を指さし、子供に向かって『一生懸命勉強しないと、あなたもこうなるのよ』と話していたそうです。これを聞いて、作業員はじめ関係者らの心は傷つき、がっかりして「もう見学会はやめようかと話し合った」というエピソードを聞いたことがあります。無知から来るのでしょうか。一般者の土木というものへの偏見は、根強いものがあるようです
曽野
私も友人を建設現場に誘ったりもしました。現場側は、“曽野綾子が友達を連れてきた”ということで、入れては下さいますが、友人からはよく『怖くない?』と聞かれました。それを聞いて、私は随分、腹を立てました。私は『怖くない?』などと言う女は、大嫌いなんです。男は怖いからといって、やめるのか。男たちは、たとえ怖くてもどんなことでもしているでしょう。だから、その一言で私は連れて行くのをやめました。
もっとも、私自身は高所恐怖症とは無縁で、ダムの背面なども、抵抗なく登れたということもありますが。
よく「飯場」を「合宿」と、わざわざ呼び変えたりしていますが、当人たちは飯場と呼んでいます。また、自らを「僕たち土方は…」などとおっしゃる方もありましたけど、「方」は悪い言い方じゃないんですよね。
「飯場」とか「土方」という言葉は、とかく差別用語と受け取られますが、外部の人間がそんなにややこしく考える必要はないのです。肝心なことは尊敬の念を持って接することです。その気持ちさえ忘れなければ、例えば私も「もう飯場にお帰りになるのですか」と言ったってどうということはない。でもだんだんそういう言葉も古くて不自然になりましたね。
――公共投資としての公共事業が“税金のムダ使い”といった峻烈な批判にさらされ、いきおい土木・建築というものへの揶揄や社会批判も随分、聞かれます
曽野
今、私たちが使わせてもらっている電気にしろ、道路や新幹線のような軌道の交通機関、さらに航空機に関連するあらゆる付属施設は、何もかもいわゆる「土木屋」が造ったんですよ。
私は1960年に、アメリカで運転免許を取りました。アメリカの警官は女性とみると優しくて、答えだけそれとなく教えてくれるんですね(苦笑)。その時、必要があって、バンクーバーからコスタリカまで車を走らせました。アメリカではすでにフリーウエイやハイウエイが開通していましたが、主人(作家の三浦朱門氏)とは『生きているうちに、日本にこんな高速道路を見ることはないだろうね』などと話したものです。
それがわずか4年後、つまり東京オリンピックの年には、2km余りですが、日本で初めての高速道路が、鈴が森-京橋間に完成したのです。
その頃、建設大臣を務めておられた河野一郎さんにお会いしたら、『あんなにカネをかけて、あんなに立派な道路を造ってしまったが、どうしたもんだろう』と胸中を話されていたのが好印象として残っています。わりと率直に物を仰る方でした。
そして、昭和30年に、私は初めて車を購入し、大阪まで行ったことがありますが、意気揚々と東京に戻って友人に話したところ、『大阪まで道があるの?』と言われたのを、今でも覚えています。それから30年、日本は随分変わりました。
私は、高速道路建設の苦労話を『無名碑』の中に書きましたが、当時の土木屋さんはクロソイド曲線って何のことかわからなかった。聞くのもいまいましいから丸善で本を買って勉強したりなさったそうです。東名高速に先行していた阪神高速道路の現場は田んぼのような所で、一部は新幹線の工事が並行して行われていました。その工区に組んであったステージングと呼ばれる足場などは、一体どうやって造ったのか。これも聞くのは恥ずかしいから、夜にこっそりと見に行ったんだそうです(笑)。
今日の日本の経済の根幹を造ったのは土木です。それが分からない人は仕方がないでしょう。しかし私は、土木については「本当に立派な仕事をなさって、おめでとうございます」と言いたいですね。
大事なことがあります。電気のない所に民主主義は存在しないのです。なぜならば、民意を瞬時に集めることが物理的にできませんから。電気のない所では、即座に族長支配が始まるのです。戦後日本の民主主義を善しとするなら、それは電気のお陰なのです。
もしも今、このビルの電気が止まったならば、次に何が起こるでしょうか。間違いなく族長支配が始まります。その場合、私は族長にはなれません。このビルの構造に詳しい人が登場して『各階に止まるように!』などと指示を出し、そこから族長支配が始まります。異変が起きたとたんに民主主義は駄目になってしまうのです。
それに対し、民衆の力を今日、ここまで活用できたのは電気があるからです。資源がない中で、日本人の小器用さを活かし、コンピュータをはじめ様々な製品の軽量化、軽薄短小化に向けての産業が成り立ったのは、この電気があるからです。そして、その電気を産みだすダムを造ったのは土木の技術であり、日本の今日の繁栄を築いたのは、まさしく「土木屋さん」のお陰なのです。

見捨てない心のまちづくり

――世界各国を訪問され、各地の事情を見聞された中で、今なお日本の昭和30年代当時に近い地域は見られますか
曽野
昭和どころか、明治時代に相当するのではないかと思えるような国がたくさんあります。そうしたところでは、やはりいまだに族長支配が見られます。
――そうした国では、建設業は成り立っているのでしょうか
曽野
建設という段階には到底、及びません。今なお牛に木製のスキやクワを取り付けて、畑を耕しているようなところが多いですから。
そうしたところは、村単位で自給自足の生活です。たまに交易の市に出かけてメリケン粉と砂糖、茶、布くらいを買ってくるという程度です。それ以外は、自力で採れるもので生きている人がたくさんいます。
――そこにダムや道路が出来て、輸送用のトラックが通るようになると、徐々に産業も発展していくのでは
曽野
それはどうでしょうか。日本には、それを受け入れる力があったと思います。しかし、アフリカなどで急にインフラを整備しても、それをどう活用すれば良いのかが分からないでしょう。
ネパールでのことですが、首都から東へ500kmほど行った所に、ブータン難民がたくさんいます。彼らに「竹籠を編んだり、焼き物を造るなど、何かの内職仕事でもなさったらいかがですか」と尋ねましたら、「ここは500kmにわたっていい道がない。どうして首都まで運んで、採算の合う値段で売れますか」と、逆に聞かれました。インフラ整備は、じんわりと全体に行き届くようにやらなければ無理なのです。
――逆に、建設の技術と文化において日本よりも優れている国は
曽野
戦前に私が住んでいた家はスキ間だらけで、障子の外に雨戸があるといった木と紙の家でした。よく、あんな家で生きていられたと思います。ところが、ヨーロッパでは16世紀から17世紀に建設された偉大な建築物が今でも見られます。その意味でもヨーロッパに行くと、私は愕然とします。これらの建物が建設された時代に、われわれは何をしていたのかと。
しかし、各国の技術というのは面白いもので、先ごろ私はコペンハーゲンに行きましたが、そこは標高が最高で173mしかありませんから、トンネル技術もいらないんですね。日本のようにダムを造るのにまず隧道を掘るということはほとんどないんでしょうね。
また、日本では川の迂回路を山中に造り、トンネルが完成すると本川を止めて誘導させながら仮排水路を造ります。ところがリビアでは、雨が10月から4月までの雨季にわずか4日間くらい、しかも1,2 時間ずつしか降らないのです。そのため、仮排水路なしでダムが出来るわけです。私が驚いてそれを指摘すると、現地の技術者が「仮排水路がないことに、よく気付いて下さった」と喜んでいました。
そう考えると、日本の土木屋さんは、実に過酷な条件を突き付けられているわけです。
――気候や地形が技術に反映しているのですね
曽野
コペンハーゲンで聞かされたのは「土は偉大な財産だ」ということです。これはイギリスでもそうですが、スエーデンには土がないのです。標高が最高でもわずか173mと低いため、埋め立ての土がないのです。
これはシンガポールにおいても同様で、わざわざインドネシアから泥炭を輸入していた時期がありました。泥炭から出る石炭殻を利用していたようです。
その点、日本人は土を持っていることの恩恵に、誰も気付いておらず、考えてもいません。
――そうした違いを踏まえながら、世界の福祉に貢献する日本財団の会長として、まちづくりはどうあるべきと考えますか
曽野
個人個人にいろいろな素質があるように、まちづくりも地域の特徴を的確につかんで、あまり人マネをしないことです。人間の住む所ですから、人の心がなかったら街ではありません。例えば特別養護老人ホームを整備するにも、施設があって心がないということになりかねません。
その点、アフリカでは「国家や社会が救ってくれないから、病気の親や金のない従兄弟は、俺が救ってやらなければ」という考え方があるのです。人間的な温かさがあるわけですね。
アフリカでは、一人の母親がたくさんの子どもを産みます。子どもは「神から与えられたもの」という考え方があるため、中絶を考える親が少ないのです。たとえ15人目であろうとも、産んで大事に育てようとするわけです。どちらが人間的なのかといえば、アフリカの方が人間的でしょうね。
――精神的な背景が違うわけですね
曽野
アフリカの方が遅れていると日本人は考えがちですが、人間性を失わずにいるという点では、日本よりもはるかに優れている点があります。私たちは、どこの国からも学ぶことはあるのです。
――器と心の一致が理想ですね
曽野
人間には定形がありませんから、理論だけで街を造ったり制度を設けたり、また医学だけでどんな病気も完治できると考えるのは間違いでしょう。同じ薬品を与えても、ある人は薬害で命を落とし、ある人は完治するということもあるわけです。
作家の渡辺惇一さんが、よく私に「医学部の学生だったときに、人間は三分の一の出血で死亡すると学んだが、女性には死なない人がいる」と言っていましたが、それも人によるでしょう。
そういう個性が人間にはありますから、それをこの上なく面白がるという気持ちがなければ、構造物を造っても面白くないものになってしまいます。
器については、これまで研究が足りなかったと思います。例えば、身体障害者向けのお風呂を考えると、ほとんどの浴槽は壁際に設置されますが、本当は浴室の中心に置かなければならないものです。それは、前からも後ろからも、左右どちらからでも介助しやすいからで、一方、身体障害者の中には左半身不随の人もいれば、右半身不随の人もおり、それぞれ入りやすい方向があるのです。しかし、その点はあまり考慮はされていません。
ですから私は、身障者の部屋には浴室など必要なく、ただ部屋の中央に上から湯が降ってくるシャワーとイスがあれば十分だと、主張しているのです。
わが家の風呂場のタオル掛けにしても、タオルを伸ばして掛けろというのか、二つ折りにして掛けろというのか分からない寸法で、誰がこんな幅を考えたのか疑問です。バスタオルの製造元も、世界中のバスタオルのサイズを測って合わせれば済むことですが、とりあえずフェイスタオルより大きめのものをつくり、バスタオルと名付けて売れば気が済むという感じで、これは怠け者のすることですね。
イスラエルのホテルでは必ず200室のうち4室くらいは身障者用があり、私はそこへ主人と、高圧電流に触れて下半身不随となった人をお連れしたことがあります。その方が、部屋の構造を見た途端、「三浦さん、後は全て自分でできますから、どうぞ荷物を置いていって下さい」と言うのです。構造が身障者用にきちんとできているので、身障者でも一人の気楽さを味わえるわけですね。
――日本は形だけを作って、心が置き去りになっているのかも知れません
曽野
大切なのは、制度で救うのではなく「この人を見捨てられない。見捨てない」という心です。遠藤(周作)さんが「私が捨てた女」の中で逆説的に主張していましたが、愛とは見捨てないということです。例え相手の性根が曲がっていたり、悪態をついたりしても、それでも捨てないということなのです。
そうした哲学と宗教が両端で結ばれているような教育が、日本では全く行われていないために脆弱です。
日本人は車椅子を押すことがどういうことか、誰も分かっていないし、盲導犬の扱い方も知りません。車椅子の押し方などは、1時間もあれば十分理解できるのです。盲導犬にしても、触らない、声を掛けない、エサを与えない、ただ無視するということですから、これほど簡単なことはありません。その程度のことさえ、学校では教えないのです。
最近、私は視覚障害者と接触する機会が多いのですが、彼らは聴覚障害者とは全く違っているのです。例えば、視覚障害者が買い物をするときは、商品を目で確認できないため必ず小売店に行くのです。スーパーでは商品の配置替えをする可能性がありますから。
また車椅子に乗っている人にとって最も問題なのは、高さの違いです。
――最近はようやく車道と歩道との段差を解消するような整備手法に変わりつつあります
曽野
しかし、自動車が門から歩道を横切って車道へ出る所では、歩道を分断していますから、低い方へ引きずられていくことになるでしょう。わずかでも斜面があると、電動式車椅子でなければうまく進まないのですから、人が言うほど、良いつくりとも言えません。
――戦後50年の間にインフラは急激に整備されたのですが、心がその変化についてこなかったということではないでしょうか
曽野
障害者のことを最もよく知っているのは障害者ですから、少しでも彼らの意見を聞けば良いのです。どうすべきか、彼らが教えてくれますよ。
また経済行為としては、必ずしも思い通りにはいきませんが、もう少し調査・研究をしても良いのではないかと思いますね。それほど大したことだとは思えない、実に簡単なことだと思うのです。
――確かに、経済的な効率性ばかりが重視される傾向がありますね
曽野
私はせっかく造られたもの、命あるものをなぜ人々は活かそうとしないのかと思います。
例えば、大量生産されるインスタントラーメンなどは、「人間が造っているのではなく機械が造っているのだ」と割り切る人もいますが、その機械が壊れたならば人間が修理し、製造工程を人間が監視しているわけです。だから、安売りで買えば二束三文だからと“捨てて良いもの”だとは、私は考えません。それが流通に乗って、あらゆる人々に美味を与えて幸せをもたらすということは、美しいことです。
私は、まちづくりにもそういう美学があっても良いと思うし、私たち日本財団としてもそういう美しいことをしたいものですね。

障害者の外国旅行で多くの感動

――日本財団は、幅広い福祉事業を展開していますね
曽野
日本財団としては、車椅子のままで乗り込むことができる福祉車両を年間に1,700台、ボランティアグループや社会福祉協議会が行うデイサービスに利用してもらえるよう寄付しています。
車種については、こちらでは決めていません。団体から要望のあるメーカーの車種を寄付しています。
――特別に注文するのですか
曽野
もうかなり定形化されているのではないでしょうか。価格的には、一般車両の価格に50万円から100万円程度を上乗せした恰好になりますが、メーカー側としては、これで利益を上げるというよりも社会還元と考えているようです。
また、障害者の海外旅行を年に一度主催しています。ボランティアの人数と障害者の人数を敢えて調整せずに行っているのですが、これが意外にも上手くいくのです。
これについて元看護婦だった人が「このような滅茶苦茶な比率での旅行は、日本では通常、許されないものですが、こちらでは上手くやっていますね、こういうことが出来るものなのですね」と。
――何かこつがあるのですか
曽野
特別扱いを一切しないことですね。みな同じ費用を負担することが原則です。例えば、入浴サービスを受けてもその都度、受けた人がサービスしてくれた人に費用を支払うなんてことはしません。そうすると、サービスを受けた人が、払ったのによくしてくれなかった、と文句を言うようになる。でも純粋のサービスなら文句を言ういわれがないんです。
入浴時期が来たなら、私が「○○さんをお風呂に入れてくれる人は」と叫ぶと、みなが手を挙げて引き受けてくれるわけです。お陰で不満や苦情が出たことがありません。
特に、ボランティアは障害者を移送するという任務を与っていますから、宿屋が悪いとか待たされたなどといった文句を言う人は、誰一人としていない。
そして、約20日間の間は人生を共有するわけですから、単なる旅行とは違うおもしろさを知ることができます。
だから、一般者も研修として参加し、障害者のお手伝いを経験してみると良いでしょう。これだけでも全てのことが分かるものです。この旅行に、財団からも毎年3人がボランティアとして参加し、力仕事などを引き受けたりしていますが、その人たちも非常に良い経験になったと喜んでいます。このようにして、障害者と交流をもつことに対する抵抗感やバリヤーというものがなくなって帰ってくるわけです。
――素人がいきなり参加すると、戸惑うことが多いのでは
曽野
最初の30分間は、みな車椅子を前にどうして良いのか分からないのです。今までは、主人である三浦朱門が車椅子の「移送隊長」を務めていまして、車椅子の取り扱いのご指導をしていたんです。そうすると、ものの30分も教えただけで、みなが全て理解してしまうのです。
――そうして旅行をすると、面白い場面に出会うのでは
曽野
ヨーロッパに盲導犬を連れていったこともありましたが、飛行機の中では前日から全く飲まず食わずというのに、一声も鳴いたりしません。そのため、みなが飛行機を降りるときになって初めて「あら、犬がいたのね」と驚いたりするのです。
何しろ前の座席の下に頭を置き、後ろの座席の下に尾があるという状態でじっとねているんですから、上から見ても胴体しか見えないために、薄汚いレインコートが置いてあるとしか思えないのです。側を通って見る人も、犬だとは思わないわけですね。それでローマに到着すると、他の乗客が「あらーっ、犬がいたのよ、見てごらんよ」などと大声で驚いたりしまして、傍で見ていてなかなか面白い光景でした。
ただ、盲導犬はそうして忍耐をしていますから、寿命も短いようですね。
――2月には長野五輪に続いて、パラリンピックが行われましたが、日本財団としてはどのような役割を果たしましたか
曽野
財団のボランティア支援部が、情報発信基地として設置されたボランティアセンターの運営費を負担したり、他のボランティア団体と財団の福祉車両を動員して、見学者の移送に当たるなど、様々な援助を行いました。
――そうして行政の手が届かないところを、補完する役割を果たしているのですね
曽野
私たちの財団はそれが目的なのです。民間と官庁との間を埋めていくというのが基本的な考え方です。財団には、政府の補助金や助成金などは、一円も入っていません。この財団は海をオリジン(起源)として発足した財団ですから、競艇売り上げの3.3パーセントの半分を海洋船舶の研究に投じて海事研究を行い、残る半分を福祉、ボランティア、海外援助、最近ではさらに芸術・文化の振興に投じています。
珍しいものでは、太鼓連盟を財団法人で発足しました。太鼓は重度の難聴者でも、響きが身体に伝わるので一緒にできます。最近は若い女性にも巧みな奏者がいますし、そのうち老人太鼓などという分野もできるかも知れません。体を動かすので健康にも良く、また国際交流が容易にできるというメリットがあります。
このように、放置しておくといつしか消えてしまいそうなものを保存するためにも投資しています。保存しておけば、いつかはまた復活する可能性もありますから。
スポーツ財団も日本財団の関連団体ですが、ここではオリンピックの種目としては採用されない種目を集め、「スポーツエイド」と名付けて大会を催したりするのです。
例えば綱引きなどという種目もあります。綱引きって私大好きなんですよ。単純でよくわかるし、なにしろ資金も場所も必要がなく、ただ一本の綱と広場があれば、老若男女問わずに誰でも参加できますからね。ゴルフのように会員権を買わなければできないというようなものは、私はあまり好きになれません。
――行政とは、どんな関係でありたいと考えますか
曽野
私は「官庁街となっている向こうは霞ヶ関、日本財団のあるこちらは虎ノ門で、お互いに役割分担を明確にしましょう」と主張しており「官と民は車の両輪ですから、霞ヶ関という車輪が不要とは言えないし、一方、霞ヶ関が虎ノ門という車輪を不要とするなら車は転倒してしまいますよ」と話しているのです。
猫車というのも確かにありますが、これは操縦が難しいものです。やはり車輪は2つある方が良いのです。しかも安定するためには、同じ大きさであることが理想的です。霞ヶ関だけが大きいと、回転ばかりして前進できません。この両輪が同じ大きさで支え合って、この日本を支えていくというのが理想だと主張しています。
――以前に「論理の霞ヶ関、人情の虎ノ門」という対比を、耳にしたことがあります
曽野
霞ヶ関は、許認可の問題などを絡めて「できない理由を言う」ものです。そこで、虎ノ門としては「どうしたらできるかを早く言う」という姿勢で構えているのです。
もちろん、許認可による規制は必要だと思います。野放図になったのでは困りますから、できない理由を言うのが悪いとは言えません。
したがって、霞ヶ関は慎重に前例を重んじて公平に対応し、虎ノ門は前例を無視して迅速に対応するというのが基本姿勢で、霞ヶ関とは正反対のことを目指しているわけです。
もしも、霞ヶ関と同じことをするならば、虎ノ門の存在意味がなくなってしまいます。
――官、民含めて、今後の高齢化社会に向けて必要なことは何だと考えますか
曽野
あまり億劫がらずに、バリアフリーの建築、設備、小物にいたるまでの技術を確立して、良い設備を安く提供できるように工夫することが大切です。
これからは高齢者が増えてきますが、高齢者というのは、障害者ではないけれど健康人ともいえない中間者です。そういう人々のために、開発費を国や自治体、もちろんこの財団も含めて負担することで、少しでも安く入手出来るようにしてさし上げることでしょう。そうして人手をかけず、なるべく彼らが長く自立していられるようにすることが大切です。
高齢者になった親が、どうすれば自分で顔を洗い、茶碗を洗えるようになるか、それはちょっとした配慮があれば可能になるのです。
ですから私は、その技術を、建築、建設業に携わる人たちに開発してもらいたいと思うのです。
――各種の交通機関では、駅に身障者用エレベーターなどを設置するようになってきました
曽野
この2年間のうちに、私が子供の時から住んでいる田園調布駅でもエレベーターが設置されましたが、これは良いことですね。いちいち上げてもらったり、車椅子でエスカレーターに乗るのは怖いですから、気楽に乗れるエレベーターがあるのは助かります。
空港などはこうした設備面で良いのですが、意外にダメなのはjrです。以前に私は足を骨折したことがありましたが、ある時、東京駅に行きたくてもなかなか道がつかない。不自由な人のために乗車の介助をするシステムがあるとのことですが、いちいちおおげさに介護されるのもおっくうなものです。できればエレベーターなどの施設を利用しながら自力で利用できる方が良いのです。
親切の押し売りというのは決して良くないもので、できるだけ「冷たく、それでいて可能であるように」というのが理想ですね。
その点、空港は世界中で障害者が自力で利用できるようなシステムが出来上がっていますね。
特に、ロンドンの空港で感動したのですが、視覚障害の上に片足が動かせず歩けない女性がいたので、空港内を移動する電気自動車に乗せて欲しいと係員に依頼したところ、「この人だけは乗せられない」と拒否されたのです。
「なぜですか」と理由を聞くと、電気自動車にはカバーがないから危険なため、盲人は乗せられないとのことでした。二重障害者はそれだけ少ないということでしょう。
そこで、「私たちが両側を支えるし、この人は本当に足が動かないのだから、ぜひ乗せて欲しい」と強く主張しました。
その結果、係員はあっさり了解してくれ、送り出してくれたのですがミーティングポイントも何も言わなかったので、どこで他の人たちと落ち合うことになるのかと思っていると、車は人々が買い物をしている免税品店のところで止まりました。
そして運転手が降りてきて「この人たちも口紅やその他、買い物をしたいだろうから、ここでおろします。30分後にまた迎えに来ます」と言ったのです。
私は、これには心から感心しました。人間の優しさがありますよね。
――まさにジェントルマンとしての配慮ですね
曽野
その通りです。これまでイギリス人には、あまり好感を持っていませんでしたが、これを機に見直しましたね。
ある時、飛行機の中でイタリア人のスチュワーデスが、「こういう障害者の方々のお世話をさせていただいて、有り難うございました」と、喜びの気持ちを込めて私に言うのです。これにも深く感動しました。
「他人の世話ができるということは、神の前の光栄」などと言いますが、日本人もこうであって欲しいものです。日本人にその才能がないわけではないのです。ただ、そうするように誰もが教えなかったということです。個人の身勝手さばかりを助長するような教育の結果は、日教組の先生たちに責任を取ってほしいものですね。
――戦後の教育には、自由と権利の背景には義務があるという教えが欠落していたと言えますね
曽野
その通りです。権利と義務は、まさに先に触れた「車の両輪」なのです。

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