建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ1999年5月号〜6月号〉

interview

富山の土木史は防災の歴史

富山県土木部長 白井芳樹 氏

昭和22年5月30日生まれ、香川県出身
昭和 45年 3月 東京大学工学部都市工学科卒業
45年 4月 千葉県土木部宅地課勤務
47年 4月 建設省計画局宅地部宅地開発課勤務
49年 4月 建設省都市局区画整理課係長
52年 4月 長崎県土木部都市計画課副主幹
54年 4月 国土庁大都市圏整備局計画課専門調査官
59年 4月 地域振興整備公団都市整備事業部事業計画課長代理
60年 4月 富山県土木部都市計画課長
63年 2月 建設省東北地方建設局道路部道路調査官
平成 元 年 4月 建設省都市局都市再開発課建設専門官
4年 4月 中部地方建設局岐阜国道工事事務所長
5年 11月 大阪府土木部副理事
8年 4月 富山県土木部長
治山・治水事業の必要性から、富山県が石川県から独立して116年目を迎えた。立山連峰をはじめとする山間部の多い地形から、県内の都市部は常に雪崩・土砂崩れや洪水に警戒していなければならなかった。それだけに、土木行政には「まず山と川を治めてから」という地域的な思想があり、ここでは、県の土木行政の歴史を振り返りつつ、富山の土木の現在を白井芳樹部長に語ってもらった。
――富山県の土木行政の基本的なスタンスと、その背景から伺いたい
白井
富山県は日本列島のほぼ中中央にあり、太平洋側の三大都市圏である東京、名古屋、大阪から250-300キロと、ほぼ等距離に位置しています。その意味では恵まれた立地条件にあるといえます。しかも、日本の国土の重心でもあります。重心といっても定義によっていろいろと変わり、例えば人口の重心は岐阜県の美並村とされていますが、富山は国土の重心とされています。
そして国外との位置的関係を見ると、韓・中・ロ3国ともほぼ等距離にあり、近隣諸国との国際関係の窓口は富山と捉えることもできます。これを表現しようと、日本と中ロ各大陸とを逆さにした地図を作成したところ、案外と良い反響がありました。
こうした状況下で、富山は全国に先駆けたいろいろな土木事業を展開してきました。「とやまの土木」の面白さを多くの人々に知ってもらうため、平成8年にパンフレットを制作しました。目次をご覧いただくと分かりますが、通常は道路事業などから始まりますが、私たちは「山・川・野」の順に編集しました。「まず山を鎮め、川を治めてこそ、初めて平野部での道路事業や港湾、空港整備が出来る」という思いが込められており、それを体系化したものです。
また、富山の土木行政の対象は、山、川、里、街、海はもちろんですが、他府県では企画部が所管しているケースの多い航空路線整備の業務までも土木部が所管しているのです。すなわち「何でも揃っている」というのが富山の土木の特徴です。
環日本海諸国図(逆さ地図)
――富山の土木の始まりとなった、いわば起源は何だったのでしょうか
白井
富山県は、今から116年前の明治16年5月9日に石川県から分県して誕生しましたが、そのきっかけは治水だったのです。かつて同じ県下にあった石川地区と富山地区は、それぞれ地域事情がかなり異なり、石川地区では都市基盤の整備に対する要望が高かったのですが、富山地区では水害が多く発生していたため、治水事業への要望が高かったのです。そこで、むしろ各地区を分県し、それぞれの事業に専念した方が効果的だとの考えに至り、今日の体制となりました。
富山県は三方を山に囲まれた平野と北側に落ち込む富山湾からなり、「天然の円形劇場」と言われています。例えば、黒部峡谷とか立山黒部アルペンルート、岐阜県境では世界文化遺産になっている合掌づくり集落、蜃気楼など全国的に知られた山岳景観、渓谷などの観光資源になるような景観を地形そのものが備えています。半面、山はたいへん崩れやすく、ちょっと雨が降ると山肌を削って一気に富山湾に流れ、富山湾には高波が押し寄せてくるのです。
一度、自然がキバをむくと、大変怖いことになります。これまでにも洪水、土石流、冬場の雪崩がたびたび発生しています。また、「寄り回り波」といいまして、富山湾は水深が一気にマイナス1,000mに落ち込んでいるため、波が砕けずに大きなうねりとなって海岸部へ到達し、突然、波が何倍もの高さになって海岸に押し寄せ、大きな被害をもたらしています。したがって、富山県の歴史はある面では自然災害との戦いの歴史でもありました。
――治水が土木行政の起源であれば、かなりの工事実績と技術が蓄積されたのでは
白井
明治時代の県の一般会計決算額を見ると、平均45%が土木費で、しかもその大半が治水、堤防復旧費に使われています。例えば、明治24年では何と82%も占めています。140年ほど前の安政時代に、飛騨・越中の大地震で鳶山の土砂が崩れて立山カルデラに溜っています。4億Fほど出ただろうといわれており、そのうち2億Fほどが既に下に流れましたが、残りが一気に富山平野に流れ下ると地盤が2mほど高くなるといわれています。
そうならないようにと砂防事業を営々と実施してきています。また、急流河川がたくさんありまして、明治以来、河川の改修工事にと取り組んできました。
その結果、昨年は梅雨の長雨と台風がありましたが、実は30年前にも、大水害に見舞われたのですが、今回は同じくらいの降雨量でありながら、大きな被害がありませんでした。この30年間で治水対策はかなり進んでいます。
――治水と同時に優先しなければならないのが、砂防、ダム事業ということでしたね
白井
立山の砂防事業をきちんとやっているからこそ、富山平野に住んでいる人は枕を高くして眠れるわけですが、どうも県外の人はもとより富山県民さえも、そうした事情をよく知らないようです。そこで、立山の恐ろしい自然の営みと、それに挑む人間の英知と努力を紹介することを目的として、立山カルデラ砂防博物館が昨年6月にオープンしました。
砂防そのものをテーマにした博物館は、おそらく全国でも初めてだと思います。建設省と富山県が共同で建設したもので、屋内の博物館のほか、立山カルデラ内の砂防の現場そのものをも屋外の博物館と位置付けました。
この立山カルデラについては砂防工事用のトロッコ電車とバスを利用して見学できます。7月から10月までの4か月、毎週1回ですが、ものすごく人気があり、夏休み中は抽選になります。
さて、本来の砂防事業に触れますと、明治39年に県が砂防事業を始めました。しかし、技術的にも資金的にも大変なので砂防法を改正してもらい、大正15年から内務省直轄となって、かれこれ70余年になります。
県内の直轄河川は黒部川など5本あり、いずれも名だたる暴れ川です。これを治めるため、河道の付替え、分流化、放水路の建設などと併せてダムによる洪水調節にもとりくんできています。最近では大谷川ダムが平成10年度に完成しました。久婦須川ダムは本体コンクリートの打設の真っ最中です。また、直轄の宇奈月ダムは12年度に完成予定で、利賀ダムはこれから本格的な事業に入ります。
もちろん、ダムは治水のほか県営の発電もやっています。過去、県財政は土木予算のウエイトが高く、不足財源は県債で賄ってきましたが、このままでは富山県の将来はないということで、暴れ川を治める一方、有り余る水を生活産業に生かすため大正9年から県営の発電事業を始めたわけです。
富山県のダムの特色としては、水を使って雪を流す消流雪用水をダム開発に乗せたことで、こうした手法は全国でも初の試みです。昭和60年に全国に先駆けて総合雪対策条例を制定しました。単に雪を克服するだけでなく、雪に親しみ利用するという考えです。その取り組みの一つとして、境川ダムでの消流雪用水があり、そこで用いられたrcd工法も補助ダムとしては全国で初めてです。
“rcd”工法のさきがけ、朝日小川ダム
――山間部が多いだけに、ダムの数も技術も抜きん出ているわけですね
白井
県内には電力会社の発電ダムもあり、この中にはダムにたまる土砂を計画的に下流に流す土砂吐きゲートを備えたものもあります。下流に土砂を提供することで海岸の保全にもつながります。建設中の宇奈月ダムは上流、下流のダムと連携して土砂を排出する予定で、建設省、関西電力とが協議会を設置して、連携排砂システムに取り組むべく進めているところです。定期的にしかも大規模にダムの土砂を排出するシステムは恐らく世界でも例がないでしょう。
――一方、世論ではダムのリストラを始めたアメリカを例にとって、ダム不要論を主張する見解も聞かれ始めました
白井
確かに、いま全国的にダム建設計画を見直すべきとの意見もあります。中には日本の川の実態を無視した“暴論”も見受けられますが、やはり治水上必要なものはこれからもつくっていかなければなりません。
ただ、計画時点から社会、経済、自然条件さえも変化してきている場合にはチェックをかけていくことはダムに限らず必要なことです。ダムについては、富山県も独自に見直しを始めており、昭和44年の水害を機に基礎調査に取りかかった早月川ダムなどは、この30年間に川の状況そのものが変わってきたため、8年度に建設の凍結を決定しました。
これは、北海道庁が「時のアセス」を導入する以前のことです。
――そうしたダム、治水が行き届いた結果、都市部のインフラ整備は進んでいますか
白井
蛇行している神通川では、明治34年から直線の放水路の建設に着手しました。その後、放水路が本流になってしまい、松川という細い川を残して、以前の河原跡が三日月型に残ってしまいました。それが駅前と古くからの市街地の間にあるため、都市化がなかなか進まず、河原跡の利用について様々に議論を呼びました。
いろいろな案が出されましたが、いずれにしろ埋め立てはしなければなりません。そこで富山駅の北側に富山港と結ぶ5qの運河を建設し、その掘削土砂で埋め立てて、全国で初めて県施行の区画整理事業に昭和3年から取り組みました。その際、関連する街路を7本建設し、造成された土地に現在の県庁を建設したわけです。これによって富山市の街の骨格が出来たのです。
このようにして、富山県の土木の歴史を大まかに概観すれば、明治の治水、大正の発電、そして昭和の都市計画という流れになります。昭和初期には水力発電が全国のトップでした。しかも安くて豊富に電力供給ができたので、港を中心に工場の立地が進みました。こうして富山県は、今日、日本海側でも有数の工業県で、製造業従事者の割合は全国平均よりもかなり高くなっています。
――山間部から都市部への流れで捉えるなら、最後に来るのは海に面した港湾ですね
白井
伏木富山港は現在、22年度までの港湾計画の改訂中です。また、富山港につながっている延長5qの富岩運河は、勾配が急なので途中で水位差を調節する中島閘門があります。これが老朽化したので、完成した昭和10年当時の姿に戻す復元工事を平成8年度から9年度にかけて行いましたが、これが国の重要文化財に指定されました。昭和の土木施設としては全国で初めての重要文化財です。
陸上輸送の発達により、運河としての役割は昭和30年代にほとんど終わり、昭和50年代に埋め立て計画が策定されました。しかし、「水が汚れたから埋め立てるというのなら、きれいにして残せばよい。これからは水辺空間を生かしたまちづくりを進めるべきだ」という逆転の発想で、今の中沖知事になってから計画を見直し、昭和60年頃から環境整備に取り組んできました。運河の上流部には都市公園を整備しましたが、ぜひとも小樽運河のように、富山の観光名所の一つにしたいと思っています。
――最近、自治体の間では航空ネットワークへの参入に対する関心が高まっているとのことで、新規も含めて空港整備に力を入れる傾向があると聞きますが
白井
富山空港は、昨年までは中型ジェット機しか就航できなかったのですが、改良工事によって、滑走路の先端部を少し広げて大型ジェット機の部類に入るボーイング777(トリプルセブン)が就航しました。
路線も国内主要都市のほか大連、ソウル、ウラジオストックの3か国の3都市と国際路線を結んでいます。環日本海の中核拠点を目指す上でも、航空路線の整備は極めて重要です。
富山空港がジェット化された昭和59年当時は、将来、年間75万人の利用を想定していましたが、一昨年でついに120万人を記録しました。そのためターミナルビルも手狭になってきたので、11年度から30haほど空港の拡張工事に着手し、エプロンターミナルビル、駐車場の整備を進める予定です。
――陸路のネットワークについては
白井
高速道路では、北陸自動車道の新潟県の上越―富山県の朝日間の一部でいまだに2車線の対面通行区間がありますが、これも4車線化工事が着実に進められており、12年度中には完全に4車線化になります。この路線はいわば、大阪方面への横の連絡道路といえます。
一方、名古屋方面への縦の連絡としては、東海北陸自動車道が建設中です。富山県は2000年に二度目の国体が開催されます。それまでに東海北陸自動車道の富山県内分のほとんどは開通する予定です。
一般国道の自動車専用道路である能越自動車道は一部開通していますが、国体開催時には高岡インターまでの開通を目指しています。
――昨年に各地で発生した都市部での浸水は思った以上に深刻でしたが、都市部の安全と衛生に不可欠な下水道整備の現況は
白井
下水道は「全県域下水道化構想」を進めています。建設省所管の下水道が中心ですが、これに農村集落排水と厚生省の合併浄化槽を加えて、県内35市町村のすべてを下水道化しようと、全国に先駆けて平成2年に構想を打ち出しました。
――21世紀に向けての展望は
白井
このように、21世紀に向けて富山の基盤整備の代表例としては、伏木富山港、富山空港、そして東海北陸自動車道をはじめとする高規格幹線道路といった交通基盤施設といえます。
そのネットワークを着実に整備して、県内はもとより三大都市圏との連絡、あるいは環日本海の対岸との連絡など、交通網を整備しながら都市計画、下水道、公園、住宅建築など都市部の整備を充実させていきたいと考えています。
――そうしたまちづくりのパートナーとなる建設業界に要望などがあればお聞かせください 
白井
最近、公共事業に対する批判が高まっていますが、大都市の一部の人が机上で考えたことが、あたかも国民全体の世論であるかのように言われるのは大変残念だと思います。確かに事業を進めていく上では、コスト縮減などの工夫が必要であり、効率を上げるのは当然のことですが、土木の仕事は、ただ造って「一丁上がり」というものではありません。維持管理の仕事もあれば、何十年か後には更新する必要も出てくるものだということを忘れないでもらいたいと思います。
そうした意識を持ちながら、建設業界は社会資本を整備していくうえでのパートナーですから、責任の自覚と誇りを持っていただきたいという思いを強く持っています。
今後は技術力が問われる時代になりますから、企業として技術力をさらに磨く研鑽を積んでほしい。そして、独立した企業体としての経営体質を強化するとともに、元請−下請けの連携を一層図ってほしいと思います。
発注者の県、受注者の業界、利用者の県民の三者で連携し、また、知恵を出しながら富山県の社会資本整備に取り組んでいきたいと思っています。

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