建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2001年4月号〉

interview

全建21の会から「建設みらい」へ

47都道府県の地方ゼネコン100社で「とりりおん(1兆円)」達成

加藤組土建株式会社 加藤 健太郎 氏

加藤 健太郎 かとう・けんたろう
1957年 (昭和 32年) 6月 3日札幌市にて生まれる
1970年 (昭和 45年) 3月 北海道教育大学付属函館小学校を卒業
1973年 (昭和 48年) 3月 北海道教育大学付属函館中学校を卒業
1976年 (昭和 51年) 3月 函館市立北高等学校を卒業
1980年 (昭和 55年) 3月 日本大学経済学部経済学科を卒業
1980年 (昭和 55年) 4月 参議院議員・井上孝秘書
1983年 (昭和 58年) 10月 加藤組土建且謦役として入社
1988年 (昭和 63年) 9月 代表取締役社長に就任
1996年 (平成 8年) 7月 株汪ル麦淵工房代表取締役に就任
                現在に至る
本誌がインタビューした「建設崩壊」、「建設動乱」の著者・山崎裕司氏の提唱した建設業界の動乱が少しずつ起こり始めている。これは、旧建設省が推進する建設産業政策大綱がバックボーンとなっており、金融、生保業界が経験しているビッグバンに相当するものといえよう。それを見越して、山崎氏率いる建設21の会は「建設みらい」へと発展的解消を遂げた。かつてその一員として、北海道函館市を基盤に新時代への取り組みを進めている加藤組土建(株)の加藤健太郎社長に、今後の建設業界の展望などを伺った。

社員に自信や誇りも醸成北海道100年の風雪に耐える防雪柵
――北海道で創業してどれくらい経ちましたか
加藤
今年は88周年にあたります。加藤組という名称を使い始めたのが大正2年で、それから数えると、88年目です。
現在、社員は85名ですが、これは3年ほど前に体質を変えるべく社内のスリム化を図った結果です。
 函館に進出してから40年以上になり、函館で仕事をさせて頂いているという感謝の意識を強く持っています。したがって、地域振興その他、様々な面で建設業界としてできる範囲でお手伝いをしたいと考えています。
――創業当時は、鉄道工事や一般土木関連の工事が多かったと思いますが
加藤
加藤組土建は鉄道の防雪柵の施工から始まった会社です。大正2年に造った防雪柵が春の雪解け時期にまで壊れずに残っていました。風雪に耐えた防雪柵は“責任ある施工”の評価を得、社員に自信や誇りも醸成されました。
 これも先代の努力の蓄積のお陰で、私が31歳で会社を引き継いだ後、3年目に加藤組土建物故者供養塔を造りました。そして父の命日には供養塔の法要を行っています。社員は毎週一回は掃除を行っています。法要は、会社を築きあげた人々に感謝する場を設けようとの趣旨で行っています。
――これまでの函館での実績で、特に意義があるといえるものは
加藤
先代の時に、現在の道立函館美術館を地場企業だけで施工しました。官公庁の大規模建設事業となると、スーパーゼネコンを含めた大手企業が受注しがちですが、これは地元業者が力を一つにして受注した初めての大規模公共施設ではないかと思います。jvは筆頭も含めて、全部が地元の我々の仲間、函館市内の業者で施工しました。
 したがって、本当に市民のための施設を市内の業者がつくった最初の作品ではないかと考えています。
――地域文化と歴史へのこだわりから、地元の業者の結束が強かったのでは
加藤
そうです。また、実際の工事としては、私たちが手に負えないような工事ではなかったのです。しかし、そのような場合に限らず、何かにつけ大手指向になっている最近の趨勢や現状をどこかで打破したいという気持ちもあったと思います。
――そうした気運はいつ頃から起こり始めましたか
加藤
昭和61年頃です。当時も景気が悪かったのですが、それが改善し始め時に、そうした一つの新しい動きができてきたのです。当時は、先代が建設協会会長を務めていたこともあり、父からもそのような話を聞かされていました。そのため、先の美術館はその意識の中にあるものでした。
――21世紀は崩壊から動乱の時期へと入ると、「建設動乱」の著者山崎裕司氏は提言していますが、全国建設21の会の理念や活動内容は
加藤
全国建設21の会は、建設業界に所属する、全国の若手経営者のネットワークをつくろうということで、衛星を使ってコミュニケーションをしていたのがきっかけとなりました。そのコーディネート役を山崎氏が務めたこともあって、山崎氏の下にメンバーが全国から集まって始まったのです。
現状に不満を持ち、建設業の本来の姿は違うのではないかと考えるような、ある意味では異端児の集まりだったような気がします。ただ全部を否定したり、革新的なことを言っているのではなく、非常に理想が高く、建設業に対して誇りを持っている人々の集まりですから、その中で、まず全国の皆様の持っている不満や、悩みの中から変えていけるものはないかを模索するという作業を続けてきた団体です。その意味では、お互い本音をぶつけ合ってきた会だと思います。それが昨年に10年目を迎えたところで、山崎さんの発案で、一度解散しようということになりました。10年でやるべき事は、ある程度はできたのではないかとの判断です。
 実際、解散する時期には、みな頭では理解できても行動がともなわないという状況が見られましたから。
――自分の会社に戻り、現実に立ち帰ると、行動はできないということですか
加藤
そうです。ギャップが生じてしまうのです。また自分の目標に会社がついてこれるかという問題があり、理想と現実の差がかなりあったようです。このため、それぞれみんながジレンマに陥ってしまいました。
 そこで20世紀までは、話し合う世紀だったかもしれないが、21世紀は、行動する世紀にしようとなりました。失敗するかもしれないが、今、しなければならないと思っていることを、実際に行動する団体に生まれ変わろうということで、現在は、「建設みらい」という団体に変わりました。ただし、我々のような旧来の会員の一部はもう卒業しました。obである我々としては、後輩に行動で手本を示していくことにしたのです。
――その10年間は、崩壊、動乱に向けての様々な伏線があったと思いますが
加藤
そうですね。私たちは山崎氏の主張から、非常に危機感を持っていましたが、見た目は業界が急変している様子はないため、様々な意見や見解を主張しましたが、あまり本気にはされませんでした。
しかしこの3年間の変化は大きく、特に昨年くらいからかなり様相が変わりましたね。それは1996年の建設産業政策大綱で言われてきたことが、現実になってきたためです。当初は、大綱が発表されて1年経っても変化が無かったので、いわゆるお題目でしかなかったのかと感じていました。しかし、よく考えると、国は96年に「2004年を目指して」といっていました。つまり10カ年計画のうち、最初の5年は策定年度で、後半の5年が実施年度であるわけです。したがって、99年まで動きがあまりなかったのはそのためだと理解しました。
そして、去年の4月くらいから少しずつ変化が見え始め、10月には大幅な変化が起こるとの発表があり、今年の13年度の4月からは、cals/ecが導入され、2004年までに完全実施となるわけです。それも昨年10月の段階で、都道府県にも同じように導入される方向になっています。やはり、建設産業政策大綱で言われてきたことは、確実に、現実に向かっているわけです。
 その中で、我々業者は、逆に安心に浸っていた部分があるので、騒ぎ出すのもこれからと言うところでしょう。その点、全国建設21の会を含めて行ってきたことが、現実となっているので、我々としては当時から危機感を持って準備してきたことが、これから評価されるとともに、試されるだろうと思います。
――加藤組土建としては、どう取り組んできましたか 
加藤
私としては、今が本当にチャンスだと思っています。会社改革をした3年ほど前から、その準備がようやくできたという感じです。それまでは、先代の時から就任している役員との意見の衝突もあって、思うように危機感を反映させる事ができなかったのですが、今では取り組んで良かったと思います。
――企業としては、合併・買収をなくしても存続する方向性が見えたのですね
加藤
私としては、できるだけ、この加藤組土建という形で残していきたいで、そのための最大限の努力をしてきました。
 ただ現実の問題としては、58万社に近い建設会社が、国が理想としている25万社までに自然淘汰されるとするならば、その中で、会社の形態を変えていかなければならない場合もあるかも知れません。
――独立した企業として存続するために必要とされる情報化や国際化へ向けての取り組みは
加藤
国が最低でもこれだけは準備すべきと提唱するものは、すべて対応すべく準備を進めています。また、それらに関連して、社内ネットワークが整備されていないと対処できないので、去年4月から社内ネットワークの構築のためにノーツシステムを導入して、10月から稼働しています。
 そうした準備は予定通りですが、ただ、世界のサイクルが早すぎて、追いついていけないという状況はあると思います。電子化、いわゆるit化とはいえ、業界全体としては、昨年の夏から試みが動き出したばかりで、特に函館エリアはやや後れているので努力が必要だと思います。
――山崎氏は本誌インタビューで、古い建設産業と新しい建設産業を色分けしていましたが
加藤
私としては、新しい産業に入りたいと思っていますし、入っていくように努力はしています。山崎氏の考えにすべて合致するかどうかは分かりませんが、少なくとも旧来の考え方は、もう社内的にはなくなっています。
――中央省庁が新体制となりましたが、受注者側としては、入札事務のデジタル化など業務形態が変わってくると思いますが、どう対処していくべきだと思いますか
加藤
北海道開発庁としての枠組みに基づく考え方は、今後は難しいでしょう。北海道開発局も地方整備局と同一で、国土交通省の下に一本化されるため、徐々に対応していかざるを得ないのではないでしょうか。
――逆に今まで開発局、開発庁があったために、本州での受注チャンスに恵まれなかったのでは
加藤
そういうわけではありませんが、最近は「とりりおん(1兆円)」のようなコミュニティが今年の4月から動き出します。その基本的な考え方は、売上げ100億円規模の地方ゼネコンが100社が集まれば、1兆円(とりりおん)の売上げが達成できることから、個別に力を出すのではなく、集積による力を発揮しようというものです。
 北海道は地理的に難しいかもしれませんが、可能性はあります。一方、他のエリアでは県を越えたjvを組んで当たることが容易なので有利です。
――函館は地理的に、青森、秋田、岩手などとの連携が考えられるのでは
加藤
これまでは、地方整備局と開発局とスタンスは若干の相違があり、発注の仕方も違っていましたが、これが一本化したことで、同じ土俵で仕事ができるようになると思います。
そこで、基本的にisoを取得している企業が100社近く集まってきますので、その協力会社と技術者を一括管理できる会社を設立し、そこで運営していくという考え方です。民間事業はこれで対処できます。公共事業も同様です。
したがって、今後は「とりりおん」と似た形態が全国に現れる可能性が高いと思います。
今後は、海外資材の一括の共同購入などで単価を下げ、なおかつ、広域で受注していかなければ、生き残るチャンスは少なくなると思います。地元に生き残る業者として地元を大事にしたいという考えには、相反するかもしれませんが、それによってフィールドが広がる可能性があり、また広げていかなければ大変だと思います。
――他の産業でも、現状では地域のみに根ざすのではなく、日本を1つの地域と考えつつありますが、この発想は今までにはなかったことですね
加藤
他の産業ではすでに経験していることですから、建設業だけが避けて通れるというものではないでしょう。従来のままで全企業が生き残っていくことは不可能ですから。
したがって、私たちも成功すれば生き残っていけるだろうし、失敗すれば淘汰されると考えています。私の考えでは今、現実に実行しなければ、確実に生き残っていけないと思います。

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