建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2004年10月号〉

interview

スーパー中枢港湾・大阪港の歩み

大阪港復興の歴史は軟弱地盤対策の歴史

大阪市港湾局 建設部長 武田 弘一 氏

武田 弘一 たけだ・こういち
昭和 43年 3月 東北大学工学部土木工学科卒業
昭和 43年 4月 大阪市採用 港湾局勤務
昭和 52年 10月 港湾局技術部設計課係長
昭和 57年 4月  〃 企画振興部開発課主査
昭和 59年 4月 大阪湾広域臨海環境整備センター出向
昭和 63年 4月 大阪港開発技術協会出向
この間 昭和63年7月より平成2年7月jica専門家としてマレイシア国派遣
平成 5年 4月 大阪港埠頭公社出向
平成 7年 4月 港湾局建設部設計課長
平成 10年 4月   〃 技術監兼建設部設計課長
平成 11年 4月   〃   〃   〃  工務課長
平成 15年 4月   〃 建設部長(現職)
スーパー中枢港湾としての指定を受けた大阪港は、今後、国際競争に本格参入する重責と期待を担うこととなった。だが、輝かしい舞台へと踏み出すまでの歩みは、決して平坦ではなかった。大戦による戦禍と、台風の直撃を受け、しかも内陸部の地盤沈下の影響で、復興整備は思うに任せなかった。それを克服するためには、地盤対策からスタートしなければならなかったのである。高度成長期に港湾建設に携わり、長年、地盤対策に取り組んできた大阪市港湾局の武田弘一部長に、そうした大阪港の来歴と未来像について語ってもらった。
――大阪港の歴史からお聞かせ下さい
武田
大阪港は、慶応4年に開港しました。当時はまだ安治川を主とする河川港で、外国海運に応じることが困難な状況にありました。そこで沖合に近代的な港湾を造ろうと、明治30年に築港事業を起こしたわけです。36年には桟橋などの施設も概ね完成し、一般利用が始まりました。この築港工事が終わったのが昭和4年ですが、第一次世界大戦による好況と、大阪の産業貿易の発展に伴って利用が急増したのです。そうして昭和14年には、取扱貨物量が3,126万トンを越え、全国一となります。特に原料輸入、製品輸出ではトン量では入超、価額では出超となり、アジア貿易の中心になりました。
ところが、昭和9年の室戸台風にともなう高潮で、港湾施設が大被害を受けてしまったために、これを改良することになりました。かつて港は、防波堤から外部には何もなかったのですが、現在の咲洲を中心に、沖合に埠頭などを整備する計画となったわけです。しかし、いざ実施という局面で戦時下に入り、わずかな整備だけで中断してしまったのです。しかも、戦時中は空襲によって、ほぼ壊滅状態となりました。日本で最も甚大な被害を受けたのが、大阪港だとのことです。
――産業貿易の中心港湾だっために、標的にされたのでしょう
武田
そうです。昭和14年に貨物量が日本一となり、背後圏には大都市を控えた港だったので、国内でも重要港として位置づけられていたのです。
戦後の復興においては、戦中に米軍が投下した機雷が港内に沈んでおり、およそ2年間は船舶の航行が不可能の状態にありました。余談ですが、進駐軍も機雷があることを認知しており、大阪港には寄港せず、和歌山に上陸して迂回していたくらいです。
ようやく就航が可能になったのは、昭和23年頃で、そこからようやく回復してきたのですが、壊滅的な被害の上に、復興資金もありません。当時からすでに沖合展開の計画もあったのですが、大阪は地下水の取水が原因で地盤沈下が著しく、海抜0mの地域に土地造成したのですけれども、沈下率の大きいところでは3mにも及んでいました。そのため、かつてのような室戸台風ではなくても、災害に似たような被害を頻繁に受ける状況となっていました。そこで、地域一帯の河川を広げ、その土砂を積み上げて盛土し、海抜を高く改良する事業からスタートしたのです。
――内陸部からの地盤対策が必要だったのですね
武田
港外でなくても大型船が着岸できるようにと整備したわけです。そうして、ようやく貨物量も回復し、昭和33年になってから、咲洲で南港工業用地造成事業を始めました。非常に軟弱な地盤での沖合展開になりましたが、その頃にはサンドドレーンやペーパードレーンという新しい技術が開発され、それらを積極的に採り入れるかたちで土地造成が本格的にスタートしたのです。
また、当時は埋め立てと言っても、材質の良い砂が近くにあれば、それをポンプ船で直接パイプ輸送し、埋め立てることもできたのですが、在来地区から沖合の海底にはヘドロしかなく、材料としては劣悪でした。このため、かなり大量の砂を新規に確保する必要がありました。当時はそれだけのことを為し得る民間の建設会社はなかったのです。そこで市の直営事業として、瀬戸内海小豆島近くの海底の綺麗な砂を、改造したタンカーで運び、土地造成に利用しました。
――港湾会計で行う事業を、市の政策として直接行ったわけですね
武田
事業がスタートした際は、市から監督員として1〜2年ほどの任期で出向し、港湾局の出張所に在駐したようです。そうした体制で工業用地の造成がスタートしたのですが、昭和40年頃には公害問題が発生しました。そのため「この地域に大工業地帯を造るのはどうか」と論議になり、昭和42年に計画の大幅改訂を行って、工業用地の造成は中止することになったのです。
その代わりに、この南港地区を工業地区ではなく、倉庫や岸壁、荷物の積み替え施設などの純粋な港湾施設として整備することになりました。私が入庁したのが、43年で、当時が最も華やかで夢と希望に満ち溢れた時代でした。
当時は「これからはコンテナの時代だ」と盛んに言われ、精力的に整備が進められていきました。47年には、現在はスポーツアイランドとして利用されている舞洲の造成事業に着手し、52年には夢洲の工事に着手しています。そうして、平成9年には咲洲トンネルが開通し、今日の大阪港が形成されたわけです。
――スーパー中枢港湾の対象地区である夢洲の高規格コンテナターミナルは、今後の国際競争に向けて、時代を担う施設となるでしょうね
武田
その通りです。岸壁総延長1,050mの水深15mのコンテナターミナルC10、11、12の整備を進めています。このうち、C10とC11バースについては、平成14年9月から供用しており、C11は大阪港埠頭公社の専用ターミナルとなっています。C10のヤード部分については、平成15年10月にその一部を供用開始しており、全面完成を目指して整備を進めています。
C12については、地盤が非常に悪く事業費がかさむため、今後事業主体をどうするかが大きな問題ですが、整備は急ぐ必要があります。
また、これらのターミナルと同時に、非常に重要なのは夢洲トンネルです。現状では、夢洲に行くために阪神高速道路を通って舞洲に入り、舞洲から夢舞大橋というアーチ型の橋を通るしかなく、咲洲〜夢洲間の交通は、大きく迂回している状況です。貨物の流通は咲洲と夢洲の間が多いので、このトンネルによってアクセスが格段に向上します。
――夢洲トンネルは道路と鉄道が供用する計画でしたね
武田
鉄道を通すための沈埋函は、構造の中に組み込んであります。ただ、鉄道は人を運ぶものなので、街ができて人が住み、相応の輸送需要が生まれない限りは、当面は道路専用という実態になるでしょう。コンテナを通す道路は、最初から非常に重要なものですが、人を運ぶ鉄道が運行するのは、しばらく先のことになると思います。
――昭和50年代の夢洲は、どのような計画だったのですか
武田
基本的にはあまり相違はありません。大規模な埠頭を造り、咲洲と同様に沖合には緑地やポートタウンを開拓するという計画でした。その基本理念は失われてはいません。咲洲では、その東側は西から強風や波を受けるので、大きな埠頭を整備して中央には住宅や緑地を造りました。その他に、倉庫やコンテナなどの港湾施設を造るという計画です。埠頭があり、住宅や公共施設があり、緑地があるという地域像は、咲洲も舞洲も同様です。
また、関西電力も大都会に隣接した発電所を整備したいとの考えで、天然ガスの発電所を造ったのです。
――地盤の悪い悪条件の夢洲での土地造成を、どう克服・実現したのか、お聞きしたい
武田
この地域の元の利用目的は、処分場なのです。長い時間をかけて、土地造成しようという計画でした。また、船舶の大型化が進めば、水深を大きくするために浚渫しなければなりません。それに伴って、土質の悪い土砂も大量に発生します。それが混在しないよう、20年後を見越して均一に埋め立ててきたわけです。
余談ですが、羽田沖での地盤改良が非常に難しいと、もっぱらの評判ですが、それは無計画な埋め立てをしてきたことが原因です。その点では、大阪港は軟弱地盤に取り組んできた長い経験から、ブロックごとに土質を均一にした形で、地盤改良をしてきました。浚渫土砂を均一に入れ、ドレーンで地盤改良してきたことが、奏功しているわけです。
土地によっては、多少の苦労もありましたが、20m以上にわたるヘドロ層を表層処理し、その上にシートを貼って海砂を播き、その後にかなり長いボードドレーンを打つわけです。
現在は土地造成も途中の段階ですが、地盤改良後には、さらに市内で発生した残土を入れます。したがって、残土を適当に混合させてしまうのではなく、大きなブロックに分けて、土質に差が生じないよう、工夫しているのです。
――スーパー中枢港湾として指定を受けて、今後に向けての課題は
武田
将来の構想のひとつとして、いろいろな施設の再編が重要だと思います。20年ほど経過すると、貨物などの形態も変わってくるので、コンテナ埠頭やフェリー埠頭、ライナー埠頭が混在しています。全国各地へ向かうフェリー埠頭も、散在しておりバラバラに近い状況です。
それらの再編の仕方によっては、埠頭の効率的な活用も可能になります。例えば、あるコンテナ貨物の主流は機器だから、そのゾーンを限定してしまえばヤードも使わずに済ませることも可能です。そうした合理化を含めて、どのように再編をしていくかが大きな課題です。したがって、スーパー中枢的なものとは何かをみんな考えていく必要があると思います。その中で在来地区、咲洲地区でも再編が必要になると思いますね。
――長く軟弱地盤対策に関わることになりましたね
武田
36年間にわたって港湾事業に携わってきました。主に建設部門でしたが、軟弱地盤や廃棄物との付き合いが長くなりましたね。最初は南港開発部建設課の事務所に赴任しましたが、当時は事務所の周辺は砂漠のようなところで、現在ポートタウンのある場所はヘドロの池という状況でした。
そこで盛土工事の設計を担当したのが最初で、後に埋立地の地盤改良や内貿関連岸壁の設計にも携わりました。その頃は国内初のコンテナターミナル埠頭が完成し、長距離フェリーも就航し始めた時期です。近代港湾の実現に向けて最も発展した時期で、今の咲洲も急激に変わりつつある過渡期でした。そうした情勢下で、昭和48年に廃棄物処分地の現場監督を務めたのです。
内陸部の最終処分地が限界に達しつつあったので、海域に処分地を求めて緊急の護岸工事に着手していました。それが現在の舞洲地区で、防波堤の外側に位置します。現地は、咲洲に比べてさらに地盤の悪い状況で、護岸が施工途中で滑落し、破壊してしまったり、処分地内を区画する鋼矢板の仕切りが、冬の時化で崩壊する事故もありました。そうした難しい条件を克服し、ようやく仮囲いによる受け入れに辿り着いたのが昭和48年のことです。
一方、夢洲も非常に地盤が悪いところで、これまで沖合に展開出来なかったのですが、私がそれを担当することになりました。当時は、年間平均100億円の予算が措置され、その重みを肩に感じていましたが、夢洲の護岸工事にも着手し、最終処分地の確保、護岸、埋立地の地盤改良、廃棄物受入などを行いました。
その後に大阪湾センターに出向し、泉大津、尼崎沖の広域処分場の計画に携わりました。大阪湾センターは創立直後の組織で、運輸省や府県などから優秀な技術者が出向していました。
昭和63年から2年間は、JICAの専門家としてマレーシアに赴き、公共事業省の港湾設計課長付けで港湾開発設計の技術指導に当たりました。タイ国境の町やボルネオなどには何度も出張したのですが、現地での仕事は良い思い出です。
――日本と大きく違う点は
武田
日本のように、常時、作業船が用意されているわけでもなく、資材もすぐに手に入る状況ではないため、日本の方法をそのまま適用するわけにはいきませんでした。やはり、現地独自の設計手法でしか、港湾建設はできないのです。
――帰国してからは
武田
平成5年から大阪港埠頭公社に出向し、コンテナ埠頭の再編や夢洲の大型バースの設計に携わりました。しかし、施設を造れば船が来る時代は既に終っており、いかに岸壁や埠頭の造成を経済的に行うかが大きな課題でした。
本局に戻って設計課長、工務課長を経験しましたが、コンテナ船の大型化に対する航路浚渫や阪神大震災が契機となって、岸壁や堤防の耐震補強が急務となりました。この頃は土地造成の関連事業については財政的に厳しい状況となり、「なにわの海の時空館(海洋博物館)」が、最後の工事となりました。
私の任期も、残すところわずかです。スーパー中枢港湾に関連した事業計画が新たにスタートするのは来年度以降なので、それに携わることができないのは残念ですが、昭和40年代当初に地盤改良の設計や研究に当たった諸先輩を思うと、最近は技術開発というものへの執着心が薄くなっているように感じます。残り期間はわずかですが、港湾の建設技術を伝えるために、最後の努力をしたいと思っています。

大阪市の港湾整備に貢献する精鋭企業群

株木建設株式会社
大阪支店/大阪市北区豊崎5-8-17
TEL. 06-6372-5951
家島建設株式会社
大阪支店/大阪市福島区海老江1-2-16
TEL. 06-6458-6171
株式会社テトラ
大阪支店/大阪市北区豊崎3-19-3
ピアスタワー6階
TEL. 06-6372-7324
東亜建設工業株式会社
大阪支店/大阪市西区靱本町1-5-15
第2富士ビル
TEL. 06-6443-3061

みらい建設工業株式会社
関西支店/大阪市西区靱本町1-11-7
信濃橋三井ビル
TEL. 06-6459-4821
株式会社小島組
大阪支店/大阪市西淀川区姫里1-24-5
TEL. 06-6477-1161
九石工業株式会社
大阪市住之江区南加賀屋2-1-23
TEL. 06-6682-5761
ヤマト工業株式会社
大阪市港区市岡1-2-19
TEL. 06-6573-1352
寄隆建設株式会社
大阪市港区田中2-14-13
TEL. 06-6575-2660
大成建設株式会社
関西支店/大阪市中央区南船場1-14-10
TEL. 06-6265-4504
株式会社竹中土木
大阪本店/大阪市中央区本町4-1-13
TEL. 06-6252-4081

りんかい日産建設株式会社
大阪支店/大阪市中央区本町2-3-14
船場旭ビル
TEL. 06-4964-8061
井上工業株式会社
大阪市東淀川区上新庄1-2-9
TEL. 06-6328-7555
不動建設株式会社
大阪市中央区平野町4-2-16
TEL. 06-6201-9210
飛島建設株式会社
大阪支店/大阪市中央区島町2-2-21
TEL. 06-6942-2481
五洋建設株式会社
大阪支店/大阪市北区梅田2-5-25
ハービスosaka
TEL. 06-6345-0631
若築建設株式会社
大阪支店/大阪市中央区久太郎町2-2-8
八木ビル2階
TEL. 06-6261-6736
国土総合建設株式会社
大阪支店/大阪市北区神山町1-3
新扇町ビル
TEL. 06-6312-4351
東洋建設株式会社
大阪本店/大阪市中央区高麗橋4-1-1
興銀ビル
TEL. 06-6269-8711
株式会社大本組
大阪支店/大阪市北区梅田3-3-45
マルイト西梅田ビル
TEL. 06-4797-8811
株式会社本間組
関西支店/大阪市西区立売堀1-3-13
第3富士ビル
TEL. 06-6541-6755


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