建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2003年12月号〉

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特集 わが国の文教施設整備最前線

筑波大学キャンパス30年の歩み

筑波大学施設部長 上田 喜一郎
筑波大学におけるキャンパス・施設の整備管理を担うのは、同大学施設部だ。発足してから今日まで、キャンパスの現在の姿はどのような経緯で形成されたのか。そして、今後はどのような姿になっていくのかを、上田喜一郎部長に伺った。
――研究学園都市の発足の経緯をお聞かせ下さい
上田
首都圏の人工集中が厳しくなってきた昭和30年代に、36年9月の閣議に提出された検討議案「官庁移転の具体化に関する省庁事務次官会議」が決定され、その後に平行して審議されていた科学技術会議での総理大臣諮問の答申とを統合して「首都圏基本問題懇談会」が設けられました。「官庁移転の第1陣として、世界的水準の研究学園都市建設を実施すべき」との中間報告が提出され、そして移転候補地の選定の結果、対象地は筑波と決まり、計画規模は4,000haで、その用地造成は日本住宅公団が行うことが閣議了承されました。
筑波大学の前身である東京教育大学は、東京文理科大学を中心に4つの大学や専門学校が合体して形成された、典型的なたこ足大学だったため、早くから移転統合の検討が進められていました。特に当時は、大学紛争の最中でもあり、新構想に基づく大学を作るきっかけともなったのです。
東京教育大学の移転を決定した2年後の昭和44年6月には、「新しい構想の大学の建設を目指す」という計画案が決定され、同年11月に「筑波新大学創設準備委員会」が設けられ、具体的に計画がスタートしました。文部省は、昭和47年10月に筑波大学法最終案をまとめ、昭和48年2月国会に提出し、衆参両院で可決、そして同年10月に、いよいよ筑波大学が誕生し、翌昭和49年4月に第一期生740人を迎えて入学式が行われました。
――東京都内または首都圏近郊でなく、茨城県筑波市に決定した理由は
上田
東京から1時間の距離、付近に土浦という都市があるほか、霞ヶ浦という水瓶があって、さらには土地が平坦で地質が安定していることが、ポイントでした。
――昭和40年代で、最も国民生活に影響をもたらせたのはオイルショックでしたが、計画遂行の上で、支障はありませんでしたか
上田
かつて2回もの審議が長期延長したうえ、昭和48年2月の国会において、ようやく最後の法案として筑波大学法案が決定されたわけで、その10月末頃に起きた第1次オイルショックが、もう1カ月早かったら、閣議決定がどうなっていたか分からないという、ギリギリでの法案成立でした。
そうして、昭和48年10月の開学を目指して、施設整備も急ピッチで進められている中でオイルショックを迎えたのです。建設費の高騰、建設業者の倒産、建設資材の不足などに加えて、施設部技術者不足の状況での施設整備は想像を絶する苦労がありました。
――研究学園都市と筑波科学博覧会の意義は
上田
研究学園都市は、未来都市のモデルとして世界が注目しています。たとえば、アメリカのシリコンバレーも、この筑波の後に出来た都市なのです。そうした研究学園都市を、さらに世界の科学技術のメッカとしてアピールする機会と、産・官・学が一体となって画期的な発展を継げること、そして交通網の発展を期待して「国際科学技術博覧会」が開催され、研究学園構想も一挙に促進されました。
しかも、平成17年には筑波センターと、東京秋葉原間を45分で結ぶ、筑波エキスプレスが開通して、さらに発展することになります。
――整備は、どのような手順で進められてきましたか
上田
昭和46年10月に、文部省内に筑波新大学創設準備室が設置され、教育、研究、管理・運営、生活環境、医学の各部会と施設部会が組織され、「筑波大学の創設準備について−まとめ」の中に、本学完成(学園都市概成期)までの基本方針である施設環境計画として要約されました。一方、東京教育大学にも、筑波新大学開設準備委員会が設置され、施設計画の検討が進められました。
昭和48年10月本学の創設により東京教育大学施設部が筑波大学臨時建設部として引き継がれ、同時に施設部会と施設専門委員会の両者を継承して、「筑波大学施設環境委員会」を設置、引き続き計画と整備を推進することになったのです。
その後、この委員会は「筑波大学施設環境審議会」に変わり、臨時建設部も施設部に改組されました。当時の施設建設は、施設担当副学長の指揮のもとに、大学施設部、ワーキンググループ及び文部省管理局教育施設部の緊密な協力体制の元に、大事業が遂行されましたが、医学地区については文部省教育施設部工営課が担当しました。
――組織体制の整備の時期でもあったのですね
上田
この時期は、中盤期から達成期の時期に当たります。昭和56年度には、施設も一部を残してほぼ完成し「施設環境審議会」の任務を終え、昭和57年5月の評議会において審議会は解散しました。一方、新たに「施設委員会」を設置し、副学長、施設部長の他、評議会からの互選、学長指名による8名を構成メンバーとして、テーマを重要事項のみの審議に絞り、それ以外は大幅に事務レベルに委ねられることになりました。
この頃は組織整備と施設の建設はかならずしも対応は出来ず、暫定的に他の目的に施設を利用する必要が生じ、そのために施設暫定利用計画を定め、それが昭和54年の達成期まで続きました。また、環境整備事業と併せて緑化事業も順調に推進され、この時期一挙にキャンパスは潤いを増す状況になってきました。
当初の第一次整備計画が達成された50年代後半は、国の財政事情が厳しさを増し、施設整備においても種々の合理化と改善策が求められてきたため、施設整備も厳選されるようになりました。そのため、新規組織・新規研究設備に伴う単独で小規模な事業の実施にとどまり、巨大整備から、施設充実型の定常的整備へと移っていきます。
この間に「科学技術基本計画」が策定され、科学技術創造立国を目指した様々な科学技術振興方策が進められました。学術研究の高度化、複雑化、異分野との境界領域・複合領域に拡大し、それに伴う特殊な研究施設、センター類が、全国で次々に整備されました。
  本学でも当初計画になかったプラズマ研究センター、遺伝子実験センター、計算物理学研究センター、平成6年には先端学際領域研究センター(tara)、8年にvbl等の施設等が整備されより研究拠点にふさわしい環境が整備されました。また、医学地区に医療技術短期大学の設置と図書館情報大学との統合が成立し春日地区がキャンパスに加えられました。
――今後の将来計画は
上田
開学以来30年が経ち、先人たちの努力の結晶として、わが国有数の規模と環境を有するキャンパスが出来上がりましたが、来年度からは独立法人へ移行することから、大学のさらなる改善・改革を求められることと、膨大な施設・設備の維持・保全、改修・修理などが、緊急課題となっています。
新構想大学として各国立大学の先導的な役割を担ってきた筑波大学としては、さらに大学院博士課程の改組・再編を行い、研究学園都市の豊富な地理的・人的資産等を活用出来る大学院大学、専門職大学院の整備を目指すとともに、その他の様々な改革がなされる予定ですが、それらを支える総合研究棟の整備を含め、既存建物、インフラ、屋外環境などの改修整備を、キャンパスの総点検に基づいて行い、より施設のアクティビティーとアメニティーを高めていきます。そのために、施設委員会は平成12年9月に「キャンパスリニューアル計画」の策定作業を開始することを決定しました。5つのワーキンググループと施設部が中心となって作業を行い、そこに多数の教職員や学生が参加して、平成14年3月に筑波大学キャンパスリニューアル計画報告書としてまとめ、評議会に報告されました。
大学全体の「筑波大学の将来設計」は、平成15年3月の評議会で報告されおり、それを踏まえてキャンパスリニューアル計画は、整合性を保ちつつ施設・環境の改善、病院再開発の検討、東京キャンパス(大塚地区)の整備計画等を進めていくこととなります。

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