建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2003年7月号〉

interview

夢ふくらむ全国企業への道

中央区日本橋の再開発事業など本州の現場で実績

株式会社北野組 代表取締役社長 黒木 柾策 氏

黒木 柾策 くろき・まさふみ
最終学歴 日本大学経済学部
S52.6〜s56.1 (株)北野組入社、業務課長、東京支社次長
S56.2〜s57.3    〃    東京支社長
S57.4〜s58.6    〃    取締役東京支社長
S58.7〜h1.3    〃    常務取締役 〃
H1.4〜h6.3    〃    専務取締役 〃
H6.4〜h9.3    〃    取締役副社長 〃
H9.4〜    〃    代表取締役社長
現在に至る
【主な公職】
(社)旭川建設業協会 理事
旭川商工会議所 議員
北海道経済連合会 理事
北海道旭川市に本社を持つ(株)北野組は、道内だけでなく仙台や静岡にも出先を構え、関東以北を守備範囲として幅広いエリアで工事実績を残してきた。道内でも珍しく、社名と社長名の異なる非同族会社で、70人の社外株主を持ち、配当を欠かすことのない優良企業だ。そうした強固な経営基盤と実績を背景に、市内の開発事業だけでなく、東京都中央区日本橋の再開発事業を主導したり、四谷再開発を構想するなど、行政顔負けの事業展開を見せる。「公共事業が減ったと嘆くより、自ら開発事業を興して建設需要を創るべき」との持論を持つ黒木柾策社長は、今後のステップアップに向けて、全国展開の夢も描いている。
――簡単な来歴をお話いただければと
黒木
会社の来歴としては、設立者である北野松五郎という初代社長が、昭和21年の終戦と同時にハルピンから引き上げ、この旭川に来て会社を興したのが始まりです。その後に小山社長、本間社長、大窪社長と続き、そして6年前に、私が就任しました。
 当初から「橋の北野組」として、橋梁を主に施工しており、満州や、大連でも橋梁の施工を中心にしていました。この旭川市に本社を置いたのは、川の多い北海道の中でも、旭川は特に川が多いので、橋梁整備の必要性が高かったためです。そうして30年代になると、守備範囲は土木全般に広がり、50年頃からは建築業も携わるようになりました。その結果、小さいながらも総合建設業たるゼネコンの形がつくられたわけです。
――これまでに手掛けてきたプロジェクトは
黒木
ワインのメルシャンの不動産部門と業務提携していた関係から、東京都中央区の日本橋1丁目1番地で、15,000uのビル開発に当たり、この5月に完成しました。これは地下1階地上13階建ての高層ビルですが、旭川の地場企業が都内の再開発に携われるのも、小山会長が、早くから東京に基盤をおいたためだと思います。
――JVで施工したのですか
黒木
おこがましい話ですが、当社が元請けとなり、大手の竹中工務店に協力いただきながら施工しました。日本橋1丁目1番地ですから、番地もなかなか縁起が良いですね(笑)。
バブルがはじけ、地価が下がる中で、建築事業も減少していましたから、自社企画の自社開発によって、建築需要を創出しなければならないと考えます。
そこで、平成3、4年くらいから用地取得し、自社でマンションを建築して、分譲まで行っています。現在も、新宿区四谷の大通りに面した3丁目で、約130坪の用地を取得し、計画を進めています。
▲(仮称)日本橋本町1丁目ビル新築工事
――旭川市は、国のシビックコア地区整備制度に指定され、駅周辺に官庁関連施設の集積が図られていますね
黒木
私たちは、地元では買物公園通りの中央である5条7丁目に、老健施設の賃貸事業を始めるべく、先月に着工しました。これも大プロジェクトです。
そして、その次に控えているのは、7条8丁目にある旧本社ビル跡地、800坪ほどの開発で、裏通りとなる買い物公園まで含めると、1200坪くらいになります。ここには、当社だけではなくて、市と一体になって公共施設を整備したいと考えています。老健施設を含む複合的な施設づくりを構想しています。
――イメージとしてはどのようなものになるでしょうか
黒木
まだ検討中ですが、旭川の街は、人の流れが駅前から4条通までで止まっています。そこで、以北に何を配置するかが問題です。市内の若者は、ブランド志向であるため、ショッピングとなると札幌に行ってしまいます。
そこで、その約1,200坪にアウトレットのようなものを整備し、カフェテラスもあるような場所にするのが効果的ではないかと考えています。そこに老健施設も含めるという構想です。
――街づくりは商業のようなもので、魅力があれば人が集まり、魅力がなければ離れていきますね
黒木
そうです。これからお年寄りが多くなりますが、若者もいるわけですから、両方の心理をどのように掴んでいくかが課題です。
さらに旭川市だけではなく、上川管内の若い人達が、この旭川に集まってくれば良いですね。今後は上川管内の人々が旭川に集まってくるような街づくりが必要と考えています。
そこで私は、日本で最も人気のあるアウトレットと評価される、軽井沢を見学しました。評価の通りに素晴らしいものでした。通行する自動車を見ると、地元のナンバープレートは意外に少なく、岐阜県や東京、さらには秋田県など、県外の人々がたくさん集まっている状況が分かりました。
――道路網の発達の恩恵もあるのでは
黒木
軽井沢は、信州自動車道とも関越自動車道とも接続しました。しかも、北陸自動車道も全線開通したので、自動車で来られる訳です。それを思えば、北海道も、やはり主要都市は高速道路で連結してもらわなければ、北海道の発展力が生かせないまま衰退してしまうと思うのです。
中心は札幌であるにしても、旭川は第2の都市で、さらに函館、帯広、釧路、稚内といった拠点都市があります。これらを結んでもらうなら、一極集中から分散型の国土に生まれ変わると思います。
 当社は昭和45年から、高速道路の施工に携わってきましたが、街づくりはやはり高速道路からだと思いますね。高速道路は文化も産業も経済も運んでくれます。フリータイムでいつでも走れます。それだけの効果があることを、知るべきでしょう。
――すでに、基礎的なインフラが歴史的に完成している本州には、失敗例も成功例も豊富にありますから、そうした前例を見ながら北海道はより良い地域づくりの可能性がありますね
黒木
用地が広く、手を付けていないところが多いだけに、いくらでも良いものが出来上がると思います。農業を北海道が支えていますから、一番有効ではないかと思いますね。
本音から言えば食料の100%を輸入に頼るのでは、万が一のときは困るわけですから、やはり自分のところで確保できるようでなければならないでしょう。そこで頼るのは北海道しかないと思います。
しかも単に食べるため、食料問題のためというのではなく、農業を観光に結びつけることが大切です。ヨーロッパの田園風景などは、城が背景にあったり、いろいろな施設があって観光名所となっていますが、そのように北海道農業を観光化していけば、より多くの観光客を誘致できると思います。
そのためには、公共事業が必要になるので、そこに我々の出番もあります。そう考えるなら、北海道にはまだまだ建設需要と可能性は無限にあると思います。
▲東北横断自動車道協和北工事
――建設業界は請負産業で、自ら企画せず、他者の企画を受けて施工するだけでした
黒木
本州での経験が長い私から見ると、やはり官主導での開発と、請負い方に北海道特有の甘さがあると感じました。そのために、業界体質はもろいと感じます。したがって、公共事業が縮小されつつある時代に、自力で生きるには、いろいろな問題も発生します。
今後は、全国を視野に置きつつ、あらゆる公共事業の事例を参考にした上で、業界からの提案型になっていくと思います。その提案の中で、地元行政と一緒になって国に陳情するような形をつくりあげることが、一つの方向性だと思います。
――官主導型開発で形成された北海道の産業界は、ビジネスとしての取り組みが甘いと言われます
黒木
当社であれば、北海道で収益が上げられなければ、東京で稼ごうと考えたり、または東京の民間プロジェクトのように、地元で開発を計画しようという発想がありますが、官主導型の経営は、根強く残っているように見えます。
1,000億円前後の工事を受注する中央のゼネコンなどは、通常は数十億円の債務を抱えています。ところが、北海道は、官の開発事業が多く、工事代金回収のリスクが少なく、かつ利益も出ていたため、今現在でも慌てている様子がありません。しかし、本州の業者は借金があるから、かなりの緊迫感を持っています。この差が本州と北海道の違いですね。
私は全社員に「経営環境は厳しくなっていくけれども、生き残ることはできる。しかしそれだけではなく勝ち残ろうではないか」と話しています。単に生き残るだけなら、簡単なのです。会社を縮小すれば良いのですから。ところが、当社のように人員約200人の規模で、生存するには勝ち残らなければなりません。
――建設業は、雇用の間口としても期待されている業界ですね
黒木
北海道は失業率が最も高く、全国平均は5.6%なのに、北海道は8.1%に上ります。
しかし、国際会計基準における、時価会計制度の検討をアメリカに押しつけられているとの印象があります。アメリカにはアメリカとしての資本主義があるでしょうし、日本には日本の資本主義があるわけです。明治時代から継続されているのですから、やはり日本は日本に合った、独特のシステムで生きた方が良いと思います。
円の対ドルレートが360円だった時代から見ると、確かに今は変わりました。しかし、時価会計制度によって、購入した資産の価値が下がったのでは、大変なことになると思います。そんなシステムを導入すれば、本当に日本で生き残れる業者というのは5、6社しかなくなるのではないでしょうか。年利1兆円規模のトヨタ自動車くらいしか残らないと思いますよ。時価会計制度による株価下落リスクは、「メガバンクの破綻もあり得る」との竹中発言にもありましたが、中小企業などはたまったものではありません。
――今後に向けて建設需要を掘り起こすための戦略は
黒木
当社としては、旭川に本社を持ちながらも札幌、東京方面へと営業エリアを拡充して生きていく考えです。
当面の守備範囲は、関東から北海道までで、すでに関東から津軽海峡までの高速道路のほとんどを手掛けてきました。50本以上の高速道路整備に携わり、サービスエリア、ガソリンスタンド、メンテナンスも含めると、大小併せて100箇所の施工実績を残しました。何しろ、北海道で最初に道路公団の工事を受注し、本線工事の施工に携わったのも当社です。
▲シャンノール緑道
――本州で施工実績を持つ地場建設業者は、珍しいですね
黒木
昭和45年に本州進出を始め、本格的に取り組むようになったのは昭和53年頃からでしょうか。高速道路の縦横道が、急速に整備され始めた時代でしたから、様々な地域の現場に進出しました。
したがって、いきなり関西、九州まで守備範囲を広げることはできないにしても、北海道から東京までのエリアでは、いろいろと取り組んでみたいと考えています。そのために当社は、仙台に東北支店を構え、営業活動をしています。
これから我々は淘汰の時代に入り、再編整理も進むと思います。もしもその中で、九州に良き同業者、あるいは異分野を専門とする同業者、例えば当社のような土木建築業ではなく、港湾土木を専門とする建設会社と統合、合併の話が持ち上がり、実現したなら、全国を股に掛けるゼネコンへと成長するきっかけになります。
九州の企業と連携し、さらに中間地点の東京で中堅クラスのゼネコンの参入を得たなら、昨今、銀行が行っているホールディングカンパニー、つまり持株会社を設立し、3社が共同経営することも夢ではありません。ゼネコンだからできないということはないと思います。
――全国ブランドへと成長した雪印が崩壊した今、新たに北海道発で全国ベースへと成長する経済界の動きが、ぜひ欲しいところです。とりわけ、今回のイラク戦争後のイラク復興に当たるゼネコンには、アメリカのベクテル社が指定されました。日本のゼネコンもその枠内に入ることを狙うくらいの覇気が欲しいところです
黒木
確かに、かつてペルシャ湾のアブダビやイラン革命を進めたパーレビ国王政権の時代には、日本のゼネコンはこぞって参入したものです。それが、なぜ今回は参入できなかったのかが不思議です。
せめて、石油関連施設整備の段階では、千代田化工や日揮など、コンビナート関係の業界は参入するのではないかと思いますが、最も優秀な技術を持っているゼネコンが参入できなかったのは残念です。やはり国際舞台に立つと日本は弱く、ただ、経費負担だけを強いられてしまいます。
一方、当社の全国企業へのステップアップは、夢のような話に見えるかも知れませんが、可能性はゼロではありません。というのも、お互いの株を持ち合っている企業が鹿児島にありますから。やはり、北海道発で何かをしたいものですね。

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