建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2003年1・2月号〉

interview

(後編へ)

改めて、地域と一緒になった“まちづくり”を進めていきたい

“合併”は良いことも悪いことも、長い目で見た情報提供と話し合いが必要不可欠

新潟県土木部長 島原 利昭 氏

島原 利昭 しまばら・としあき
昭和 43年 3月 新潟大学卒業
昭和 43年 4月 新潟県入庁
平成 10年 4月 土木部道路建設課長
平成 12年 4月 上越土木事務所長
平成 13年 4月 都市局長
平成 14年 7月 現職
新潟県は今年6月のワールドカップという大きな節目を終えて、新しい転換期を迎えている。今年の7月に新潟県の土木部長に新しく就任した島原氏は新潟生まれの新潟育ち。生粋の新潟人である。今回、行政の立場として、ワールドカップを無事に終え、どう総括したのかをはじめ平成の大合併に向けて何を考えどう行動するのか、生粋の地元人から見る“地域と一緒になった街づくり”とは何か、新潟県の新しい時代を迎えるための社会資本整備とはいかなるものかなど、広い範囲にわたって、新潟県の新しいビジョンを伺った。
――この度、平成14年7月に新部長に就任された率直な感想をお聞かせください
島原
一つに、我々の土木に与えられた使命は“社会資本整備”です。最近では、特に東京あたりから、高速道路やダムの話も含めて厳しい批判があり、「もう社会資本整備は要らないのでは」という声が聞こえて来ますが、新潟県全体とすればまだまだ必要です。
人にはそれぞれの境遇や環境があり、東京の人は東京の人で自分の周りがどんどんと整備されている中で、越後・新潟のことを「要らないのでは」とよく言いますが、それは余計なお世話で、我々は必要性があるからこそ、一生懸命に行なっています。
自分の地域のことは言っても構いませんが、あまり他の地域のことは言って欲しくないですね(笑)。そういう中で、我々の社会資本整備はまだまだ遅れていると考えています。
もう一つ大事なことは、将来の子ども達や孫をはじめとした、まさに我々の後継者が安心して安全で楽しく暮らせるための社会資本整備を今から用意していないといけません。その時になって無い・・では困りますから。
今から用意していくことが大切で、今までもそうしてきたつもりですし、これからもしっかりとやっていきたいですね。確かにお金の無い時代ですから、今までのようにどこかで要望があればすぐに「やりましょう」と言うことはできません。逆に言えば、先程も言った将来に向かって何が本当に必要なのか・・をしっかりと見極めていくことが大事です。それを見極めることが大変なのですが、色々な人の話を聞きながらしっかりとやっていきたいと思います。
――もちろん部長はずっと新潟県に住まれて、小さい頃から様々な思いがあると思いますが、この度は土木部長にご就任というまさに新潟県を背負っていく立場となられたことで、今後の新潟県の方向性を決めていかれると言っても過言ではありません。現在は特に厳しい時代でありながらも本当に重要な時期ですが、その時期に土木部長に就かれたということは大きな責任があり、皆さんからの期待も厚いと思います。特に、部長のお人柄を理解しておられる職員の方々も、行政と言う堅い枠にはめるのではなく、これまでの歴代土木部長とは違う個性や色を出して欲しいという期待もあるはずです
島原
「お金が無い中で何をやろうか」という時に、今までは一般の県民から見るとやはり官側には少し傲慢な所があったのではないかと反省しています。あまり地域の人達の言うことや考え方を聞かずに「あれをやろう」「これをやろう」と余りにも官主導ではなかったかと思います。これからの時代になるとそうはいきません。これから大切なのは、地域の人の意見をどう聞くか・・です。我々が地域に入って地域の人達と色々な話をし、「それでは皆さんと何を一緒にやりましょう」と言うことでいかないと、結局は我々の独り善がりになってしまいます。彼等の真に欲しいものをどうやってどういう所に創るのか・・ということをしっかりと話していく姿勢が大切です。時間は掛かりますが、それが将来どんな社会資本整備をするかの疑問に答える一番の早道です。地域と一緒になった“まちづくり”をぜひやってみたいですね。
――公共事業に対して、様々な意見を人々が持たれているのは当然ですが、社会の中に住む人々には“層”という構造があり、時には強者・弱者など、それぞれの価値基準に偏る場合もあります。皆さんの性格や生活環境も違いますから、そういう全ての意見を聞いている訳にはいかないのも現状だと思いますが、そこを調整していく行政の立場としては非常に難しいものがありますね
島原
もちろん一人ひとり異なった考え方がありますが、みんなで寄り合って、我々のこの地域に何が必要なのだろう・・と言うことを、地域の人は地域の人で考えてもらわないとなりません。それを、我々といつも意見交換をしながら、一緒に考えてやっていくことがこれからの時代には必要です。そうすれば、段々と地域の人が行政に関心を持つようになります。
――最近ではワールドカップサッカーが無事に終了しましたが、その点では新潟の開催地となった立派な「新潟スタジアム」を創られ、きちんと利用もされました。特に、若い人だけではなく、お年寄りの方々も楽しめた世界的イベントと言うこともあり、もちろん県民の方々にも受け入れられたものという意味で“県民との対話”の観点からも一つの成功例と言えますね
島原
みんなで一緒になって喜びを感じることは大事ですし、行政的にも良い経験をしました。例えば「人員輸送をどうしたら良いのか」、「世界的なイベント時、事故の無いようにするにはどのようにしたら良いのか」等、行政サイドから本当に勉強になりました。
私個人としては、勉強になったのが、“日本人”を見直したことです(笑)。外国人と一緒になってこういうことが出来るんだな・・ということに感激し、日本人も変わってきたな・・という印象を受けました。ワールドカップサッカーの日本初戦をここ新潟で開いて、全世界に新潟を紹介した訳ですね。新潟スタジアムには多額の費用を投入しましたが、全世界の人が見ていましたからコマーシャル料という点からすると安いのか・・とも思いましたね。それが国際都市新潟として観光にも結び付けば有り難いです。新聞にも「特に人員輸送は良かった」と書かれてありましたが、そういう面でも成果が得られたと自負しています。
――部長が新潟県に住まれて、その中で徐々に街が発展していき、こうして世界レベルの大会までもが来るようになりましたが、非常に感慨深いものがあるのではないですか。これからもさらに発展していき、特に合併が進んでいく中でも、まずは県の意向が大事ですから、より一層、県の重要度や責任が増してきます。世界大会の大役を果たした新潟スタジアムの周辺でも新たな開発が進むとも聞いていますので、これからも様々な可能性や発展性が見られると思います。しかし、特に新潟は、ワールドカップサッカー日本開催の第一試合目の記念すべき所でしたし、現在はとにかく無事に終わったという達成感で節目を迎えた感がありますから、ひとまずはほっとしておられるのではないでしょうか
島原
そうですね。まずは大きな事故も無く、無事に大会が終わったのは本当に一安心です。その上、日本は良い所まで行きましたから(笑)。よくあそこまでやりましたね。今はj2でアルビレックス新潟が好調ですし(笑)、J1昇格を期待しています。
――平成22年度に照準を定めている「長期総合計画の基本構想」がありますが、最近は前期の5年間として、平成17年度をめどに「基本計画」を進められています。特に、先程も部長が話されていましたが“県民会話をする”という意味で、現在の状況を具体的な数値で示す「アウトカム指標」を展開していますね。どのくらいの“整備率”があり、どのくらいの“効果”があるのかなど、将来の展望も見据えた詳細な情報を県民に提示していくものですが、こうした“より身近な行政”を進めている姿勢が見られます。難しい点はありますが、これからはどのように取り組まれていくのですか
島原
これから我々がやりたいことをどうしたら県民に理解をしてもらえるのか、そのために我々がどう理解しやすいように持っていくのかで、一つのやり方として「アウトカム指標」がある訳です。分かりやすい例では、幹線道路整備の目標として全ての市町村から新潟市、長岡市、上越市の県の“中核都市”に「1時間以内に行けるか」ということとか、広域市町村圏の中心部まで「30分以内に到達できるか」等を、道路整備では目標にしています。或る市町村はまだ新潟市に行くのに1時間以上掛かるという所は、行政として1時間以内に到着できるよう道路整備を、と言うことです。例を挙げれば、今は日本海沿岸の東北自動車道がこの10月に“中条”まで開通します。それ以北、例えば、山北町、朝日村周辺はまだ新潟市まで1時間以内では来られません。だからとにかく高速道路を早く整備しようという意味なんですね。
――アウトカム指標の現況というのは、半年に一回や1年に一回と言ったレベルで公開していくものでしょうか
島原
もう公開しています。今回は道路も河川も、「これからどうするのか」という情報を、社会資本整備目標として公開をして、もし意見があったら聞かせてください、色々な話を聞かせてくださいということで意見を頂いており、その整理もしています。
 平成15年春には正式に公表する予定です。
――行政として情報を公開していく姿勢は大事ですが、「どのような情報が欲しいのか」、「自分は何を調べたいのか」というように、自らが“情報”を探しに来るという姿勢が大切になってきますね。生活環境によっても必要な情報は異なっており、県民の方々もただ「情報を公開して欲しい」と言うだけではいけません
島原
これからはそうなっていきますが、今までは行政側があまり情報を出さなかったこともあり、また県民の方も情報提供の要求をしなかったということです。行政が情報をどんどん出すということになれば、住民の方達もそれなりに「情報は出してあるだろう」とインターネットを開くということになっていくと思います。
――一人ひとりが現在利用している道路や施設が“新たに整備されたらこれだけ便利になる”といった状況を自ら調べて「こうなるんだな」という実感を自分なりに得るという考え方ですね。そういう考え方が身に付けば、あまり行政が主導ではなくとも良くなっていきますし、そうすることで行政ばかりを責められません。「一人ひとりにも責任がある」という時代が来るはずですね。
“市町村合併”の話に移りますが、県が主導する形で、総務省の方からはとりあえず「平成17年までにある程度の方向性を示しなさい」との話が来ていると思いますが、“平成の大合併”とも言われ、それによって県の方も街づくりや広域的な行政の仕組みを変える必要性が出てくると思いますが
島原
我々が“社会資本整備”という観点から市町村合併について見ていくと、簡単に言えば今まで隣同士の市町村があって、例えば両方共に文化会館や体育館を創っていたのが、合併になれば「もう少し質の良いものを創りたい」とした時に両町に創らなくともどちらかに創り、その所にアクセスしやすい道路を整備すればいいのです。
ただ一方で、“街づくり”の面からすると色々と問題もあります。例えば佐渡の場合、10の市町村が一緒になろうとしていますが、確かに人口はポンと増えてかなり大きな自治体にはなります。人口は確かにそうですが、面積も広大になるのです。それは非常に重大な問題で、合併で取り残される地域になるのではないか、行政サービスが低下するのではないか等、危惧する人も多いと思います。
お金が無くなってきて交付金も少なくなって来る時代に、これでは財政力の無い市町村は参ってしまいます。一緒に頑張って高い次元の行政を目指して合併しようという傾向があり、それはそれで一つの方向です。大切なことは合併後の期待できること、危惧すること等の情報を収集し又は提供し、住民の人達と大いに議論することではないでしょうか。
――合併が進むことによって県としてはある意味、子どもをたくさん抱え込むような心境もあるのではないでしょうか。しかし、それでも何とかこの時代を乗り切らなければならない訳ですね。合併はさかのぼると、明治、昭和にも大きな合併があり、それによって現在は3千余りの市町村になったのですが、平成17年の“平成大合併”の後は、2千程にまで減ると予想されています
島原
新潟県でも3分の1か4分の1に減ることが予想されています。全国的に見ても新潟県では、合併論議が盛んと言えます。
――公共事業とは違う難しさが合併にはあります。合併後の生活はさほど変わらないにしても、合併によって吸収される所で生まれた方々にとっては、そこの町の名前が一つ消えてしまう訳ですし、そこで思い出がある方は当然居ますから複雑な心境ですね。
例えば、部長が住まれていた実家は市町村合併はありましたか。また、その時の状況はいかがでしたか
島原
そうですね。私は今、内野町に住んでいますが、昭和30年代に新潟市に合併しました。これは先日新聞に載っていて「そうか」と思ったのが、内野町は一盃飲み屋があまり無いんですね。
かつては役所がかなり有って、職員の人達が夕方5時から街に出て飲んで・・ということがあり、街に非常に活気があった訳です。現在も支所的な所は有りますが、それだけでほとんどの役所が無くなっています。「非常に寂しくなった」という記事は載っていましたが、確かにそれはあると思いますね。
――そういう人の居ない街に初めて来た方は「寂しい街」と思われますが、ずっとその街に住んでいる方は違って、活気のあった街並みを記憶に残しており、その地域にこだわりを持っています。街の雰囲気や活気もそうですが、“良いもの”を永く残していきたいと思っているはずです
島原
内野町については、良いこともたくさんあったと思いますね。新潟市と合併して色々な社会資本が整って、「あそこの橋が綺麗になった」「こちらの道路も綺麗になった」ということで、そういう面からすると住みやすくなったとは思います。しかし一方では、人の往来が少なくなり、また地域の人の接触や会話、交流も無くなって寂しくなったということもあるのではないでしょうか。
――話は変わって、注目の事業についてですが、最近では「奥胎内ダム」の本体工事も着工されましたが、その他にprすべき事業はありますか
島原
これからの大規模な事業として2、3挙げれば、新潟駅の連続立体交差化事業があります。道路ではやはり、上越地方の上越魚沼地域高規格道路が大きく、県レベルでは日本海沿岸の高速自動車道があります。河川ではダムが色々と問題になっていますが、その中で先日、奥胎内ダムの本体工事に着工致しました。
――特にダムのことは言われていますが、新潟県では、無事に本体工事まで辿り着いた訳ですし、実際の工事はこれから長く続きますが無事に完成して欲しいものです。
先程も話しましたが、特にワールドカップサッカーが終わりましたので、本当に一段落という気持ちもありますから、ここで一旦腰を据えてゆっくりとこれからの展望や、県における街づくりを考えていく時ですね
島原
そうですね。都市部の街づくりではよく“都市再生”と言われる通り、しなければならないことがたくさんあります。しかし一方で、同じ様に“中山間地”でも過疎の進行等重大な問題を抱えており、公共事業の減少により建設業が不振でそれが雇用問題を誘発しております。そういう中山間地、過疎地にどう光を当てるのか・・は大事な話です。都市は都市で魅力を持っており、中山間地は中山間地で色々な魅力を持っていますから、それをお互いにどう享受し合うか、お互いにどう提供し合っていくのかということが大事です。まずは、その仕掛けをどのようにしていくべきなのかを今、勉強している所です。

(後編)

北朝鮮日本人拉致事件に関連し、北朝鮮と日本を結ぶ唯一の公式ルートを行き来する貨物客船「万景峰号」が入港する日本の玄関口「新潟港」を有する新潟県は、台湾・香港・韓国の東南アジア方面との貿易やロシア・ウラジオストクの姉妹港としても流通のパイプを築き上げ、日本海側唯一の「中核国際港湾」に位置付けられている。島原部長は「昔から“新潟県”を支え続け、“新潟県”の将来への布石に繋がる基盤作りに貢献してきた地域密着型の業者はとても貴重」と強調し、地元の人々が互いに享受し合う大切さと共に、地元に潜在する多彩な魅力の再認識を訴えている。
――県民の参加についてお話がありましたが、建設会社の方々も地域住民に“公共事業”を理解してもらうため自らが行動していく気持ちが大切です。地元の建設会社でそういう心構えを持って活動されている話は全国的にも稀に聞きますが、一般の方にはなかなか知られる機会もなく批判される傾向にあるのも現実です
島原
公共事業投資額は少なくなって来ていますから、普通に考えれば残念な事ですが潰れる会社は出てくるはずなんですね。その中で地域に密着して地域と一体となってやって来た会社があり、周りの道路でも河川でもその状態をよく知っていて、「あそこの河川が危ない」「道路に穴が空いている」という状況があれば、即対応する。さらにいつも地域の状況を見ていますから、例えば災害時にどこに避難すればいいのかをよく知っていて実際に動けるのが、地元の地域に密着した、地域と一緒になって育ってきたどちらかというとあまり大きくない業者なんですね。
我々としてもそういう業者は地元の方を雇用している面からもとても貴重で、そういう業者までもが仕事量の減だけで廃業に追い込まれることは何とか避けたい訳です。
そこで、随契等の契約方法で、特に地域の維持管理的な工事を任せようと考えております。そうしないと全部が全部、競争入札をして、それで訳の分からない業者がある日突然に来たとしてもうまくいくはずがありません。地域に密着型の企業の存在は地元の人達が望むことでもあり、喜ぶことでもあると考えています。
――ただ単純に“仕事をしてきた”ということではなく、その地域にずっと生きづいてきた“歴史”のようなものですね
島原
災害の時にはいち早く、地元で雇用した人がみんな集まってくる訳です。そういう機動性もあり、よく周りを知っているというメリットがあります。
――そういったあまり表に見えて来ない人々の活躍があるからこそ、社会が成り立っています。人それぞれに違う仕事をしながら、みんなで“社会”を支え合っている訳ですから、子ども達にもそういう“社会の仕組み”をきちんと教えていく教育も必要ですね。特に今は不況で失業率が高く、中高年の失業者よりも実は若い人の失業率が高いと言います。それこそ若い人は正社員にこだわらずフリーターでいる人がいますが、新潟県としても、社会の仕組みの中にもっと取り入れることのできる、存在価値の有る若い人達の育成も必要になってきますね
島原
もちろん一人ひとり異なった考え方がありますが、みんなで寄り合って、我々のこの地域に何が必要なのだろう・・と言うことを、地域の人は地域の人で考えてもらわないとなりません。それを、我々といつも意見交換をしながら、一緒に考えてやっていくことがこれからの時代には必要です。そうすれば、段々と地域の人が行政に関心を持つようになります。
――最近ではワールドカップサッカーが無事に終了しましたが、その点では新潟の開催地となった立派な「新潟スタジアム」を創られ、きちんと利用もされました。特に、若い人だけではなく、お年寄りの方々も楽しめた世界的イベントと言うこともあり、もちろん県民の方々にも受け入れられたものという意味で“県民との対話”の観点からも一つの成功例と言えますね
島原
フリーターの良し悪しは別として、今の時代だからこそ、そういうフリーターという一つのポジションがあるような気がします。昔なら“食べていくこと”が先でしたので、何とかしてきちんとした仕事に就こう・・ということがありましたが、そういう意味では彼等は幸せなんですね。
――若い人の中にはなかなか機転の利いている人もおり、様々な仕事をしながら自分を磨いている人もいますから、フリーターが悪い訳ではありません。ただ、“社会との折り合い”も必要ですから、身を固めた仕事をしなければ認められないこともあります。ぜひ若い人が活躍して、有意義な税金を払ってもらうことが“良い街づくり”に結び付きます(笑)
島原
そうですね(笑)。悩み考えながら一定の職を持たずに、アルバイトをしながら自分に本当に合った職業を探している訳ですね。そういう人が大勢いるということは、いざ鎌倉という時に“大きな力”になるのかもしれません(笑)。
――そういった発想も行政には大切ですね。斬新なアイデアを若い人からもらうことは、公共事業にも必要なのかもしれません。話は変わって、ワールドカップサッカーの終了をはじめ、大学の新設や福祉施設の整備など、様々な項目についてとりあえず一段落がついたということがあり、今後における展開や抱負についてお聞かせください
島原
私は昭和43年に県庁に入りましたが、入った頃は主要な国道が舗装されているだけの状態で、後はほとんど舗装道路が無かった。私はその当時、結構古い車に乗っていたので、走っていると床から砂利道の埃が入って来たりした・・そういう時代でした。それから40年弱で見違える程に整備され、これだけの時代になった訳です。
戦前も色々な人の手により整備をしてきたのですが、戦争でひどい状態になって、そこからこれまでになった訳ですね。それは日本のすごいエネルギーでした。
これは自慢ではないのですが、我々の父の時代から我々の時代においてそういうことをやってきたのです。特に“土木施設”についてはそう思います。けれども、今、ふと振り返ると、「まちが寂しい」のです。
一方では便利になりましたが、少し間違いをしてきた気がします。「行って楽しい街」があまりないんですね。街でくつろげる、行って楽しい街、ゆっくりでき一日そこにぶらりぶらりと歩いて楽しめるような街が非常に少なくなったように思います。
例えば、新潟市の例を挙げると、西堀、東堀といった堀がたくさんあったんですね。北海道だと小樽には運河があり、長さは数百メートルぐらいだと思いますが、新潟市にあった堀はもっとスケールが大きく、長く張り巡らされた堀の両端に道路があったというものでした。それが国体が来た頃に車が徐々に増えてきたこともあり、全部を道路にしました。周りにあった柳の木は全部切ってしまって、4車線道路にしたのです。車社会に対応するため、それはそれで仕方が無かったのですが、残っていたら相当のやすらぎの場を提供し、行ってみたくなるまちになっていたのでは・・と思います。堀を復活する話も聞かれますが、将来我々にとって本当に良い町とはどういう街なのかをこの辺でみんなで考え直したらと思います。人口も減り、高齢化にもなりますから、子どもからおじいちゃん、おばあちゃんまでゆっくり過ごせるような、そういう街をこれから創らなければならないと思いますね。ある範囲において車を排除し、排除した後に、例えば電車を走らせるなど公共交通をしっかり整備し、景観にも優れたまちが欲しいですね。一口で言えば“都市再生”ということですが、そういう町を創りたいな・・と。一朝一夕で実現できる話ではないのですけれども、少なくとも皆がそういうことを考え、議論するという所までは持っていきたいと思っています。
――そういう視点が大切ですね。もちろん開発は大事で、開発した街には人が集まり、普段は活気があって良いのですが、一方では開発と共に、アスファルトやコンクリートの街並みになるため、人間はふと、そういう町並みを見つめていると寂しい・・という感情が込み上げて来る時があります。しかし、そういう気持ちや視点が大事で、街づくりへのヒントがあるような気がします。例えば、映画のロケーション地を会社に代わり行政が探す制度で、新潟市ではボランティアによる活動が始まっていますので、これからは映像に適する「新潟らしさ」のあるものを創るべきとの考えを市では持っています。北陸地域の街中ですと冬でも積雪がありませんから、四季を通じて風景が楽しめる点において“堀”が一番良いのでは・・という意見ですね。特に公共事業は“街づくり”に直結し、映画ロケーション地としての宣伝やprにも大きな役割を果たします
島原
堀が全てではないのですが、一つの方法としてはあるな・・と思いますね。結構あちこちに「堀を復活させよう」という会を創って研究しています。今では3つ程の団体があると思います。
堀の復活もそうですが、最近注目している事は、中心市街地にあったある銀行が破綻し、そのビルを売りに出したところ、郊外にある大学が買ったという話です。中心市街地に再び学生や勉強したい市民を呼び戻し、結果として街のにぎわいを取り戻すことができるのではと期待しています。
過去、東京もそうですし、新潟でもそうなのですが、街の中にあった大学がみんな出て行ってしまったんですね。当然、若い学生も郊外へ出てしまったので、それだけでも街は寂れるはずなのです。
大学を中心市街地に呼び戻し、大学の知恵・知識・教養を、一般市民と一緒に享受するべきという動きが、今の大学には芽生えてきていますね。中心市街地の活性化という面からも注目しております。
――弊誌では、“国立大学”の整備を主に所管する文部科学省の文教施設部長にインタビューをしておりますが、大学は元来、公立・私立問わず、国民における“知の拠点”になるべきものであり、あわせて大学施設は言うなれば“公共財”ともなる観点から、周りの人に対して親しまれ愛される施設として積極的に整備する重要性を訴えていました。それは部長が言われたように“地域の活性化”にも繋がるべきであり、そのためにはもちろん、地元行政の協力も不可欠ですね。
一方、“都会”の現状に対して、部長が先程言われていた“中山間地”における活性化についてはいかがですか
島原
中山間地の活性化について最も大切なことは、それぞれの地域を壊さずにプラス何をやっていくのか。ある町では、旧学校、廃校になった学校を開放し、例えば休みを利用して都会の子どもを呼んで遊ばせるとか、自然の中で色々な経験をさせることをしています。中山間地の自然をもっともっと活用する方策を研究する必要があると思います。
――部長は大変な時に県庁に入られたということで、部長は主にどのような仕事をされ、また、どういった苦労がありましたか
島原
道路関係が多かったですね。苦労したと言えば苦労なのですが、「行け行け!どんどん!!」の時代でしたから、今思うと面白かったですね。
――その時は仕事に必死だったと思いますが、それでも需要と供給が合致していたということですね
島原
特に道路は要望が強く、竣工した時はそれは喜ばれました。特に当時はそういう時代でしたね。最近では「創っても当たり前」の顔をしています。もちろん喜んでくれる人が大半ですが、段々そうなってきたのは淋しいことです。しかしそれは道路が必要ではない・・という意味ではないんですね。
道路が完成して「一体どういう反応をしてくれるのだろう」と思っても、余り反応が無い。なぜみんなもっと喜ばないのだろうか・・と時には悩むこともあります。
――その要因にはやはり不景気が関係しますか
島原
不景気とは直接関係ないですね。忙しくなってきて、自分の生活に精いっぱいで周囲を見る余裕がなく無関心という感があります。
――部長は先程、「まちが寂しい」と言われていましたが、日本はこれまで、仕事中心で来た所があり、戦後にこれだけの発展を遂げるという要因も、それに相当する労働力を支払ってきたという証明が渾然としてあります。その一方で、我が国を内面から支える“文化”の発展性についてはうとく、人間的に感じる気持ちを素直に表現することの大切さを教えて来なかった感があります。物事を一つに決め付けるのではなく、何もないところから創り上げていく根気や能力を育成する教育をもっと取り入れることが、人々の心に豊かさを取り戻すきっかけにもなるはずです。不景気下では、どうしても集団意識的に落ち込む傾向にあるので、「別に良いじゃないか・・」という良い意味での自立心に繋がる割り切り方が必要な時代でもあります。お金さえあれば良いのではなく、生きているだけで幸せと思える時もあります
島原
明治以降の近代化と人口の急増を背景に、中世なら4〜5百年を要したと思われる変化がもたらされた訳で、戦後の経済復興から特に昭和40年代に入ってからの高度経済成長は全く新しい時代というものを我々に提供しました。
しかし、バブル経済の崩壊とともに、デフレ経済の中で経済のみならず精神もが疲れているのが現実ではないでしょうか。
今最も大切な事は、今後も継続するであろう厳しい経済、社会環境を認識した上で、後世の人達が安全で安心して豊かに暮らせる社会を築くため、我々が今何をやらなければならないかをしっかり考えることだと思っています

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