建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2002年12月号〉

interview

地域に必要な企業と呼ばれることが当社の最高の喜び

安易なリストラは企業存在意義の否定

宮坂建設工業(株)代表取締役社長 宮坂寿文 氏

宮坂 寿文 みやさか・としふみ
昭和30年4月15日生
昭和 53年 3月 日本大学生産工学部土木工学科卒業
昭和 53年 4月 株式会社地崎工業東京支社土木部勤務
昭和 56年 1月 宮坂建設工業株式会社取締役就任
昭和 59年 12月  同 社 取締役副社長に就任
平成 3年 4月  同 社 代表取締役副社長に就任
平成 5年 12月  同 社 代表取締役社長に就任 現在に至る
<主な公職>
(社)北海道建設業協会 代議員
北海道経済団体連合会 企画委員
(社)北海道土地改良建設業協会 理事
特定森林地域協議会 理事
(社)北海道農業建設協会 理事
帯広建設業協会 理事
帯広商工会議所 議員
帯広市自衛隊協力会 副会長
十勝陸上競技会 会長
(株)エフエムおびひろ取締役
(株)おびひろ市民ラジオ取締役

創業80年を超えた宮坂建設工業の理念は、「世のため人のために尽くせ」で、かつては教鞭をふるい、建設業に転身した創業者の遺徳を、今なお継承している。社歴が長いだけに、あらゆる施工現場で実績を残し、技術レベルも最高レベルのものを誇るが、残念ながらそのデータは散逸したという。そこで、同社の宮坂寿文社長は、「過去の技術を再検証し、コンサルティング機能の向上を目指すと同時に、雇用創出などによる地域経済への貢献のために、安易なリストラに走ることなく、地域から必要な会社と呼ばれたい」と語る。
――創業当時の経緯や、会社概略を伺いたい
宮坂
大正11年に祖父の宮坂寿美雄が創業しました。祖父は、大正8年に役場の職員を辞め、建設業に転身しました。当時、ロシア人のバイオリニストにバイオリンを教わっていたのですが、教員の給料が2円の時代に、半分の1円を受講料としてバイオリニストに支払っていたため、祖母は、随分とやりくりに苦慮したみたいですよ。その後、伊藤今朝吉さんという請負師にみこまれて、その誘いかけによって請負業界に入ったわけです。
当初から、宮坂組は独立した形で、旭川の鶴間組の道東所長を兼務しながら、始めたのが創業です。
当社は昨年に80周年を迎え、私で4代目です。創業者の遺訓でもありますが、基本的な考え方というのは、世のため人のために尽くせということです。
創業当時の請負先は、内務省系統の仕事が多かったようです。軍による発注工事が多く、道東の釧路港、根室計根別の飛行場などは、当社が中心となって施工しました。その他、厚内の弾薬庫や隧道も施工したようです。
戦後になって、建築分野にも着手し、今日では土木が60%、建築が40%、売り上げは110〜120億円くらいです。とりわけトンネル工事において、十分な実績を積み上げ、特殊土木工事についても、道路・河川・農業土木の分野では定評をいただいています。
建築は民間事業が多いですが、海外企業と提携したり、札幌のドーム設計・技術提案競技(コンペ)でも、外国企業と共同企業体を組んだ経験があります。オレゴン州ポートランドの設計会社オシャッツ社、建設会社ドレイク社とも友好関係にあり、国際入札も検討しております。
技術的ルールなど、スーパーゼネコンの技術を学んできたお陰で、このエリアの中では技術力が高いとの評価を得ています。
――大正時代に創業し、21世紀になりましたが、会社として何か変わりましたか
宮坂
全く変わりません。土木であれ、建築であれ、また発注者が官でも民でも、会社としての哲学は、「世のため人のために尽くせ」ということで、一貫しています。
――北海道は、本州と違って気候が厳しく、広大で、地形も多様です。施工も一筋縄ではいかないでしょう
宮坂
土木は、特に経験工学と言われます。ところが、その経験が情報としてストックされているかというと、全くないのです。
大型工事現場を経験した現場代理人は、例えば新しくトンネルを施工するときに、過去の事例はどうだったのか、資料を探すのですが、それがないのです。管内にある黄金道路(一般国道336号)の1期工事などは、私たちが施工したのですが、その現場の写真も紛失しているのです。
その意味では、技術の蓄積がされていない。このため、それを当社が施工したということも、若手社員は知らず、地域住民も知ってはいません。したがって、土木もそうした情報のストックというのは、非常に大切です。これからはそうした情報を、請負者の原点に立ち返って地域にアピールする時代がきたと思います。
――大正時代から、インフラの部分に全て携わってきたということは、今日の地域の文化・経済の基盤を担ってきたといえますね
宮坂
宮坂建設の原点は、「世のため人のために尽くせ」ということです。その一つには地域の雇用確保もあります。例えば、タクシーの運転手さんに「今年の状況はどんなものか」と、よく聞かれます。やはり地域の人は、建設業と地域経済の動向が一体化していることを認識しており、我々もそれを自覚していますから、甘い考えで安易なリストラを図ったのでは、宮坂建設の存在意義はなくなるのです。だから、私は社員や協力業者には、給料は半分になるかも知れないが、首切りはしないと伝えています。
公共事業については、その必要性についていろいろと議論がありますが、建設業界は、社会基盤整備事業を預かってる立場として最も理解している立場にありますから、社員の住む地域町内会の人たちに、自社が携わった工事の目的やメリットを理解してもらうよう、努めることが必要でしょう。
道路財源の扱いに注目が集まっていますが、庶民感覚では道路も空気のような存在だったわけです。しかし、空気を止められたら死んでしまうのです。そのため、今になって、大慌てで必要性を訴えています。北海道に道路は不要という論議がありますが、道路は一体化されてはじめて使えるものであり、近代国家で高速道路が地方まで行き届いてないところはないわけだから、その点を我々はしっかりとアピールすべきです。
とりわけ、冬季の問題は重要です。例えば、日勝峠の樹海ロードなどは、冬場は「死のロード」というべき危険さです。
――ガードレールも不十分ですからね
宮坂
そこを通る人は、みな峠を登るまえに家族に電話し、また降りてからも電話しています。連絡がないということは、向こう側に到着していないということで、どこかに落ちたか、衝突しているわけですから。道路交通において、それほどの危険なリスクを北海道は負っているわけです。
道路の必要条件も千差万別で、北海道は風雪が強く、特に道東は寒冷地だから、同じ冬でも東北とは全然違うわけです。マイナス20度から30度にまで下がるわけです。そうしたことを、きちんとアピールしなければなりません。ただし、そのためには北海道の存在意義が何かを確認するべきですね。その存在意義として言われているのが、食糧基地ということです。食糧供給により、日本国民の胃袋として北海道が存続していくためには、それに足るだけの社会資本整備体制を急務として進めなければなりません。
だから、ある先生がおっしゃられた、「道路整備を景気浮揚の道具にするな」という主張は、非常にインパクトがあるわけです。景気浮揚、雇用創出という観点に加えて、今後の我々地域の理論武装は、あくまでも日本の胃袋であるという北海道の存在意義にあることを確認しなければなりません。
さらに建設業界としては、環境対策により以上にデリカシーを持つべきですね。現在、河川整備なども、多自然工法などが研究されていますが、もっと原点に帰るべきですね。在来の古代工法である自然回帰工法というのは、既に実施してきたので、これからは、近代工法と古代工法をブレンドするのが、今後の日本の技術者のテーマでしょう。
ただ、灯台もと暗しで、優れた技術の全てが国外にあるわけではないのです。海外の工法を見ることも大事だと思いますが、例えば環境対策はアメリカが進んでいるから、ということで、現地の建設会社のエンジニアを動員したりしましたが、結果的には我々がすでに戦前に行った工法でしかなかったという事例もあるわけです。
だから、もう一度、我々の建設技術を評価し、自分の会社にある技術を再び掘り起こし、それを発注者にアピールしたり、提言することが必要です。不幸にして業界に対してはダーティなイメージがありますが、それは一部の話であって、誤解を解かなければなりません。一部の負の部分がかなり誇張されて言われますが、現実には非常に地域同化した産業であり、特に地方の建設業者というのは地域との密着度が高いわけだから、我々がそれをどのような形でアピールしていくかが問題です。
とはいえ、地域貢献、住民参加型、npoなど、いろいろな要素がありますが、私はそうしたものに安易に同化していくべきではないと思っています。やはりまず、原点を見つめ、あくまでも建設業としてアピールしていくのが正しいと思っています。
――宮坂建設としての、地域との関わり方はどんなものでしょうか
宮坂
戦時中には、当社が食料をストックして、地域の人に配給していたことがありました。もっとも戦後になって、それは徴収されてしまったようです。当時の宮坂組に関する本がありますが、それを読むと「宮坂は、賄いの食事が良く、煙草もただで配給した。そのお陰で良い作業員が集まった」といった逸話も見かけました。
また、歴代の社長は、消防団長を長年勤め、3代にわたっています。消防も、建設業や地域との関わりはあります。その関係もあって、災害に備えて、例えば降雨や地震などの時は、常に出動できる体制を敷く一方、本業の土木、建築の分野でも、本支店全てが24時間体制になり、徹夜となります。それでも社員は、不平も言わずに朝5時から交替出勤して、発注官庁、現地などを巡回しています。そうした社風が伝統的にあり、おかげさまで、発注者に大変、評価されていただいております。
――建設業界の再編が論議されていますが、会社としての今後の生き方をどう考えていますか
宮坂
ヒントは自分の足下にあります。初代や先代社長ら先人の足跡の中にです。つまり、宮坂建設の存在意義が、地域貢献にあるとするならば、会社がつぶれないことです。まずは、社員の生活の安定。そして協力業者の経営基盤を揺るがさない。そのためにも、最高の品質を発注者に提供することです。
それから発注に対する責任施工は今や当たり前で、これからは計画された事業の設計図書を我々が解析して、地域に合ったものかどうかについて、土木・建築を問わず、官民を問わず、我々がコンサルタントと一緒にコンサルティングするくらいの気構えを持つことです。
そのためにISO資格も取得しましたが、これは仮免許証のようなものです。それをどれだけ自分の会社として生かすかは、これからの問題でしょう。
当社は、おかげさまで工事評価においてはいずれの発注官庁でも、いい評価をいただいております。結果、工事評価点数の平均点も高くなってきております。しかし、真の評価というのは、エンドユーザーである、地域住民に評価されるものだと自問自答、自戒しております。
――今後とも、どんな会社であり続けたいと考えていますか
宮坂
当社は郷土十勝の皆様に育てられ、札幌にも拠点を置いて全道展開しており、視点はオール北海道です。かつて、本店帯広、本社札幌とする構想も社内にはありましたが、私はそれには反対しました。私どもの会社、宮坂建設工業は、あくまでも十勝帯広の会社なのですから。
同じく、十勝から育った会社には、製菓会社・六花亭もありますね。やはり、そうした成功企業から学ぶべきところは学ぶべきなのだと考えています。
高度成長期の頃は、積極的にグループ化し、昭和52年には系列会社が7社になった時期もありました。道東では実績も飛び抜けていましたが、このグループ化の失敗をふまえ、以来建設業本業一本に絞り、異業種参入の考えは全くありません。
地方の建設会社は、地域の人々から親しまれてこそ存在意義があり、その強みは、地域に生まれて地域に骨を埋めることです。これが存在意義です。だからこそ、今後の展開としては、この地域で必要とされる企業は何かを問われたときには、地域住民の皆様が宮坂建設工業は地域に必要だと言っていただけることです。それが最大の存在意義であり、今後の、事業展開のキーワードではないでしょうか。

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