建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2002年11月号〉

interview

ニューヨーク都市圏の高速道路ネットワークは1930年代に着工

職住近接型で利便性高い都市構造

東京都建設局長 小峰 良介 氏

小峰 良介 こみね・りょうすけ
昭和19年 9月20日生まれ
43年 建設局
50年 港湾局主査
57年 東京港埠頭施設一課長
62年 総務局副知事秘書
平成 元年 都市計画局新線担当課長
3年 港湾局臨副開発室整備計画課長
4年 港整備部計画課長
6年 荒川区土木部長
8年 建設局参事(道路計画担当)
9年 建設局道路保
東京都とニューヨーク市が姉妹都市提携したのは、1960年。すでに40年を越える実績を残してきた。その間に、職員の人事交流や派遣などが行われたが、都内の基盤整備を担う建設局の小峰良介局長も、現地での勤務経験を持つ一人。目的は、交流25周年記念事業の準備というソフト面の業務だが、それ以前は東京港埠頭公社の施設課長などを経験している技術職員だ。日本の首都東京の基盤整備が遅れていると言われるが、技術者の目に映った当時のニューヨーク市は、どんな様子だったのか。見たまま、記憶のままに語ってもらった。
――小峰局長がニューヨーク市に出向することになった経緯は
小峰
東京都とニューヨーク市は、1960年2月姉妹都市提携しました。東京オリンピックが開催された64年から、東京都から毎年一人づつ一年間に限って、課長級職員をニューヨーク市に派遣していました。8年前からは、同時多発テロで破壊されたワールドトレードセンターに事務所を置いてきましたが、現在は残念ながら都財政が厳しいこともあり閉鎖しました。ニューヨーク市から東京都には当初二人の職員が短期的に派遣されましたが、国際交流は市税の支出を伴うべきではないという考え方がニューヨーク側にあったため、途中から取りやめになりました。
その代わりに10年ほど前に3ヶ年程、財団などの民間団体が資金を確保して市幹部職員調査団が派遣されたことがあります。
――都からはどんな職種の職員を派遣していましたか
小峰
今までは、事務系幹部職員がほとんどで、技術系が私を含めて4人ほどです。当初は2人くらいが出向し、その後はしばらく途絶えましたが、二十代目にして前任の山下前建設局長、そしてその次に私が行くことになりました。その後、また技術系職員の派遣は途絶えています。
――市役所では、どんな仕事をしましたか
小峰
立場としては、「交換吏員」というよりは、都のレプレゼンタティブという位置づけになります。経済貿易局の一室が割り当てられました。
私の赴任目的は、ニューヨークと東京が姉妹都市提携をしてから25周年を迎えることから、シルバーブリッジと銘打った記念事業の準備でした。提携25周年は、人間で言えば銀婚式に相当します。そこで「シルバーブリッジ」というわけです。
記念事業としては、都知事がニューヨークに来訪したり、逆にニューヨーク市長が東京を訪問するなどの交流事業が1年間行われました。
ニューヨーク市側の要望を東京都に伝えたり、あるいは逆に、都側の要望をニューヨーク市に伝えるといった調整を行ったり、市内でのイベントの対応したり市内を飛びまわっていました。
――赴任している間、ニューヨーク市の行政を外から見て、感じるものはありましたか
小峰
一言で言うとニューヨークの抱える世界でも先端的な多様な都市問題の解決に立ち向かっている活気のある自治体との印象を受けました。私が仕事上、普段から接点を持ったのは国連外事団委員会事務局のカプラン国際部長でした。
事務局長はギリアン・ソレンセンと言う女性局長で、かのケネディ大統領の補佐官を勤めたソレンセン氏の夫人でした。その下に部長、課長がいて、みな20代後半の若手でした。
中には、マスターを修得した人が、インターンのような形で勤務しているというケースもありました。
――日本で見られるような公務員採用試験に合格し、それから地道に昇任していくという人事システムはあるのですか
小峰
そういう人は、ほとんどいないようです。私が接した人々は、日本のような採用試験ではなく、一本釣りで登用された人がほとんどでした。それだけに、みな非常に勤勉でしたね。
そして企業で働く人たちと同様ですが、ポストの高い人は、我々が考える以上に忙しく仕事をしています。早い人は、朝7時くらいから仕事をしていましたからね。
ただ、管理職でない人などは、9時に登庁して5時に帰宅。正に就業規則通りの勤務を徹底していました。
――ところで、当時のニューヨーク市の街づくりは、どんな状況でしたか
小峰
現地でも、朝夕の交通渋滞はかなりあります。道路は碁盤の目に整備されていましたが、私が赴任した当初は経済状況が悪かったので、維持管理費がなかなか確保できない情勢でしたね。そのために、道路管理は不十分で、道がでこぼこだったり、落下した高架道路がすぐに修復されずに放置されていました。
その後、経済状況は徐々に改善し、治安も良くなってきたというころですね。ビルの再建が多くみられるようになり、道路の維持補修も次第に行われるようになりました。
――日本のバブル崩壊後、アメリカは調整局面からit革命の時期を迎え、逆にバブルを謳歌する形になりました
小峰
そうですね。私は、その後も何度か渡米するチャンスがありましたが、アメリカ経済の活況のお陰で、ニューヨークは賑やかで大変安全になり、再開発などによってかなりきれいになりました。また、ニューヨークだけではなくボストンでは空港が整備されたり、道路整備もかなり進んでいました。
自分がかつて住んでいたニューヨーク市郊外でも、道路の拡幅が進められていました。東京都は現在、三環状の整備を目指していますが、ニューヨーク都市圏では既に高速道路網は完成していました。アメリカの場合は、日本よりも何十年も早くに、ネットワークの整備が進んでいたわけです。モータリゼーションとそれへの対応が早かったわけですから。
ニューヨークを代表する著名橋であるブルックリンブリッジなども、時間をかけて改修していましたが、今後は道路などの都市基盤をいかに経済的に効率的にメンテナンスをするかが大きな課題でしょう。
――住宅や住環境は、どんな状況でしたか
小峰
私はニューヨーク郊外のブロンクスビルという町に住んでいました。古いが日本の仕様からみると広くて快適なアパートでした。マンハッタンのグランドセントラル駅まで電車で通勤していたわけですが、急行で行くと、ものの20分で到着します。逆に言えば、20分も行くと、本当にすばらしい環境の住宅地があり、そこにはまさしく豪邸が並んでいました。築後100年以上を経過した大きな邸宅で、周囲の環境も軽井沢の高級別荘地のようなものです。
――職住近接型で、合理的といえますね
小峰
そうです。マンハッタンにオフィスがあり歩いて通勤できる距離に“マンション”があります。また、地下鉄を利用すれば20〜30分でアッパーからロワーまでのマンハッタンを移動でき、正に職住近接。反面、ハーレムなどは、到底、住めないような廃墟ビルがあったり、それを壊して更地になっているところも混在していました。当時はその辺りが大変危険な地域とされていましたが、今はずいぶん変わりましたね。
――ジュリアーニ前市長が、ハーレムの再開発を強力に推し進めた結果、治安も向上したというのは有名ですが、現地の再開発事業は、計画されてから着工、完成までどれくらいの期間がかかるものでしょうか
小峰
確かに市内では、至る所で再開発が進められていたり、計画されていましたが、計画から完成までにどのくらいの時間を要するのかは、一様ではないでしょう。バッテリーパークシティが、ちょうどテロで崩落したワールドトレードセンターから少し離れたところにありますが、計画から完成までに30年程かかっています。
現在はウォーターフロントに、業務、商業、住宅、ホテル等複合的な市街地が形成されています。世界の金融センターとしての重要な位置を占めるとともに、省エネ、資源再利用、室内衛生、ヒートアイランド対策等に配慮したグリーンガイドラインを策定し、良好な住環境の実現を図っています。

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