建設グラフインターネットダイジェスト

〈建設グラフ2002年10月号〉

interview

公益性の高い活動で地域から信頼

受注施工会社から提案型企業へ脱皮

(社)空知建設業協会副会長・芦別建設業協会長

日成建設(株)代表取締役社長 坂田 憲正

芦別市の日成建設は、創立70年を越える老舗だ。だが、さらに100年を迎える先輩企業があり、創立者はそれを目標にひた走ってきた。現在は社長も三代目となり、新時代にマッチした経営に取り組んでいる。特に目を引くのは、全ての役職者が管内でナンバーワンを目指そうとする気概に満ち、そして業界体質の改善に向けて、広報活動を疎かにせず、しかも建設業協会を通じて行政の手の届かないところをフォローし、自発的に施策に提言をするという公益性の高さである。同社の坂田憲正社長に、経営理念などを伺った。
――御社は、設立してから、70年を越えた老舗ですが、会社の来歴は
坂田
最初は父の代に個人企業で出発し、地道に企業活動をしてきましたが、芦別にはさらに創業して100年近くになる老舗があります。そこで、「その先輩企業を、下請けに使えるくらいになろう」という目標を掲げて頑張ったと、よく聞かされました。専らその企業の下請けとして使われてきたのですが、いずれは逆にその会社を使うようになりたいと。それを目指していたとのことです。
そして、昭和22年に終戦で戦地から復員し、会社組織にした後、24年に名称を現在の日成建設に変更しました。
――地場企業といえば、よく地名を会社名にするケースが見られますが、日成とした由来は
坂田
地元の、例えば芦別建設という社名では、芦別だけに限定されます。それよりも、毎日毎日を一生懸命に頑張って成功したい。その意味で日成としたそうです。
――当初は、どんな工事を施工していましたか
坂田
かつて、この地域には炭坑がたくさんあったので、炭坑関連の仕事が中心でした。しかし、それ以降は北海道の開発が活発になったので、公共事業にシフトしました。
――社長として就任した経緯は
坂田
私は三男でしたが、長兄はあまり丈夫な方ではなく、次兄も社業を望まなかったため、高校生時分から「お前が社長を継げ」と言われ続けていました。そのため、自分もその心づもりでいました。
昭和50年の6月に父親が倒れ、その年の12月に他界しました。そのとき、私はまだ28歳だったので、常務を務めていた長兄が、2期4年間だけ社長を務めました。そして、私が32歳の時に社長に就任したわけです。
32歳で社長とはなっても、陣頭指揮に立つのでなく、勉強しながらという状況でしたが、当時の役員、社員には、助けられました。
――会社経営において、自分なりのカラーを出せるようになったのはいつ頃でしょうか
坂田
40歳を過ぎてからですね。それまでは、いろいろと我慢していました(笑)。
完遂は出来ていませんが、ただ、これだけは大号令をかけています。役員も社員も、市内の全企業における同じ階級・役職者の中でトップになりなさい、と。当社の総務部長は、他の全ての総務部長の中で、トップの総務部長でありなさいということです。
そして、トップである以上は、部長級でも年収は1,000万円を目指そうと。まだ実現は出来ていませんが(笑)。そのようにして、具体的で身近な目標を立てています。そのためには、死にものぐるいで勉強し、努力しなければ、先頭には立てません。
会社とは、そうして死にものぐるいで努力する社員がいてこそ、しっかりした運営ができるものです。社長一人が目立っていてはなりません。
――最近は、入札も電子化されつつあり、建設会社にもネットスキルが求められる時代になりましたね
坂田
そうですね。ところが、昨年にJACICの視察団に参加し、ニューヨークとワシントンを訪問しましたが、アメリカでは電子入札は実施されていないのです。it大国ですから、電子入札が普及しているようなイメージがありますが、セキュリティにまだまだ不安があるとの理由です。
 ただし、指名入札はありませんが、入札の公募情報はホームページで公開しています。しかし、入札となると、書類かまたはcd-romに記録して配布するシステムなのです。
――ところで、公共事業の縮小から、業界再編の必要性が論議されています
坂田
地場の中小企業は、地場に踏み入って、いかに地域から信頼を得るか、それが生き残っていく道だと思います。
また、電子入札、IT化の進み具合によって、自然淘汰も進むだろうと思います。例えば管内には電子入札など、無関係な世界のことだと思っている事業所もあります。
私としては、下請けであってもit化に対応し、例えば電子メールを通じての業務報告くらいはしてもらわなければなりませんと、促していますが、あまり自覚していないところもあります。そうした面で、自然淘汰されていく要素はかなりあると思います。
広域的に合併した会社もありますが、私としては、地元周辺で地盤を固める形の合併でなければ、例えば札幌と芦別とどちらが基盤なのか、と批判されかねません。
この問題は業界を挙げて取り組んで行かなければならないでしょう。
――ところで、最近の地場建設業界は、政治家の不祥事に巻き込まれて、幾分、イメージダウンした感があります。空知建設業協会副会長、芦別建設協会長としても、頭が痛いところですね
坂田
特に最近は、建設会社の社長が二、三人集まって、コーヒーを飲んだり、会食しているだけで、知らない人はまた談合をしているのか、という目で見るのです(苦笑)。
まずは、いかにして地元の信頼を得るかを考えると、密室体質の改善が急務です。そのために、業界としての広報活動が大切です。従来は、受注産業だから余計な発言はしないという姿勢で来てました。とりわけ、地場の中小企業には広報活動の必要性について、無感覚でした。
私はそこで4年前に、社内組織で、従来の総務部総務課総務係を、総務部広報係に改組しました。そして、対外的に当社の業務を理解してもらうような活動を始めたのです。インターネット・ホームページの他に、社内報「鳳雛」も発行するなど、広報活動に力を入れているわけです。
社内報はB5判で一枚ものでしたが、最近は内容が充実し、芦別市内はもちろん市外にも30部から40部ほど関係先に配布しています。
――いまや行政だけでなく、業界としてのアカウンタビリティも必要になってきたというわけですね
坂田
そうです。個々の会社もそうですが、特に建設業協会といった業界団体としては、もっと外部に向けて情報発信をすべきだと思います。
当社のホームページには、「現場日記」というコーナーがあります。施工中の工事現場を、現場所長が紹介をするわけですが、私は工期や工事名だけでなく、工事の目的を丁寧に書くよう指示しています。
例えば、道路の舗装工事は、決して行政が日成建設に仕事を与えるために行っているのではなく、市民生活の利便性向上のためです。そうした工事の目的を、現場所長たる者は正確に認識していることが大切です。そして、それを不特定多数の人々が見るホームページに書くことにしています。指令されたから現場に立つというのではなく、施工している工事が、何の為のもので、何に役立つものであるかを常に意識していることが大切です。
その意識を持って、地域住民の問い合わせその他に対しても、行政に代わってきちんと対応しなければなりません。
そうであればこそ、地域振興のために、お手伝いという形で自分たちの技術を活用していけるわけです。そして、それを自覚すれば、自分自身に対するプライドというのも持つことができ、張り合いも出ます。子供に、「お父さんはこのようにして、社会のために役に立っているのだよ」と、胸を張って語れます。
――そうした思考習慣を持つと、事業計画についても、施工者の立場から行政に提言することができるようになりますね
坂田
芦別建設業協会としても、7、8年前から内部に開発委員会を設置し、メンバーが市内をくまなく巡回して、交差点の歩道の構造が高齢者に危険な状況となっている箇所や、道路の舗装が痛んで亀裂が入り、子供が通るのに危険な箇所など、細かい問題点を調べ出して、市と協議をしています。
ただ、施工する業界側の視点だけで捉えるのは問題があるので、直接、近隣住民の方に意見や要望を聞いたりしています。
――行政が手の回らないところを、業界としてフォローする形ですね
坂田
そのために、会社独自でというわけではありませんが、今後のまちづくりにおいて、必要性の高くなる分野についての勉強会や研修会への参加は、大いに奨励しています。協会としても半期に一度、テーマを決めて行っていますが、その中には、技術者のための技術的なテーマだけでなく、介護や福祉も含みます。
技術者となると、とかく専門分野にばかり精通して、視野が狭くなりがちですから、現時点では仕事に関係がなくても、将来的には知識が必要となる分野があることを認識してもらいたいものです。そこで、当社の土木課長が自己啓発セミナーに参加するため、モンゴルへ行って来たという事例もあります。
こうした活動の幅が、少しずつ広がり、それを生かせた事例の一つが、芦別市の計画した「子供センター」という建築プロジェクトです。この施工のために、建築技術者も幼児教育について、勉強しました。
一方、市は設計段階からワークショップを開き、母親の方々をはじめ様々な立場から幅広く意見を取り入れました。その上で、設計コンペが行われました。名称も子供センターと仮称されてはいますが、公募によって「つばさ」と決まりました。従来なら、市長や行政担当者らが決めたりしますね。
芦別のように、小さな都市に生きる建設会社というものは、まちづくりについて、自発的に行政に対して提案することが出来るようでなければなりません。そのためには、技術者も幅広く勉強し、提案するに足るだけの知識、教養を養うことが必要です。
建設業界は、確かに受注産業で、本来は施工のみですから、図面に描かれた通り、正確に施工するだけでも良いのですが、私はそれだけでは、面白くないと思うのです。

【日成建設株式会社の沿革】
昭和 3年 6月 創業者 坂田 憲 個人企業「坂田組」を創立
22年 4月 株式会社「坂田組」に改組
24年 4月 社名を「坂田組」から「日成建設」に変更
24年 10月 建設業許可(北海道知事登録)
27年 4月 札幌市に出張所を開設(平成6年5月札幌支店に昇格)
28年 4月 一級建築士事務所を開設
29年 4月 旭川市に出張所を開設
40年 11月 日成商事株式会社を設立(現 日成工業株式会社)
40年 6月 舗装工事の開始
48年 12月 資本金の増額(増資1000万円)4500万円
50年 12月 代表取締役社長 坂田 銀一 就任
54年 9月 代表取締役社長 坂田 憲正 就任
57年 10月 現社屋完成
平成 2年 4月 上芦別町にアスファルトプラント新設
6年 5月 帯広出張所を開設
7年 4月 マルチメディア推進委員会発足(情報推進委員会)
9年 4月 設立50周年(記念旅行を実施)
11年 6月 創業70周年
▲幾春別川総合開発工事の内
原石山工事用道路桂沢工区改良工事
▲芦別市なまこ山体育館建築主体工事
▲砂川歌志内線改築(擁壁工)工事 ▲子供センター(仮称)建設工事

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